戦争を終わらせて平和を取り戻すために、何をするべきだと思いますか?
そう問いかけられても「自分にできることなんてない」「分からない」と考えてしまう人が大半かもしれません。根深い民族対立の感情や一部の為政者の暴走を、個人の力で変えられるはずなどないと。
そんな漠然とした無力感を覚えている人にこそ知ってほしいのが、「武装解除の専門家」として世界各地で活躍する瀬谷ルミ子さんの歩みです。高校時代に見た1枚の写真をきっかけに海外へ飛び出した瀬谷さんは、NGOや国連、外務省で紛争地の平和構築に奔走してきました。現在は認定NPO法人REALs(リアルズ:Reach Alternatives)理事長として、争い予防、共存、シリア難民やアフガニスタン避難民への緊急支援など、多岐にわたる活動を展開しています。
自分自身の力で貢献できることを追求し続けてきた瀬谷さん。「常に担い手のいない分野を見つけて挑戦してきた」と振り返るその履歴書から伺えるのは、紛争地の現実を目の当たりにし、幾度となく大きな無力感に襲われながらも、決してあきらめることなく乗り越えてきた姿でした。
「人と違うことをしたい」「人と同じではかなわない」
——キャリアグラフの冒頭では、紛争問題に関心を持ったきっかけとして、17歳のときに見たルワンダの難民キャンプの写真を挙げられていますね。
高校3年生になったばかりの4月でした。何気なく開いた新聞に、コレラで瀕死状態の母親と、その母親を泣きながら起こそうとしている小さな子どもの写真が載っていたんです。当時のルワンダでは、民族対立が深刻化して大量虐殺(※1)が引き起こされていました。
なぜこんなことが起きるのか? なぜあの母子は救われないのか? 当時の私には分からないことだらけでした。どこかの国が、それこそ日本の首相が号令をかけて、ありったけの食料と医薬品を届ければいいんじゃないかと思いましたが、どうも世界の紛争地の問題はそんなに単純なものではないらしい。その写真を見て私は「なぜ紛争が起きるのか」「紛争を解決することができるのか」、それらの答えを知りたいと考えるようになりました。
また、海外での紛争解決の仕事に興味を持った理由はもうひとつあります。それは私が唯一得意だと感じていた英語を生かせそうだったから。
※1:大量虐殺……1994年、フツ族とツチ族の対立によってルワンダで発生した大量虐殺。50万人から100万人が犠牲になったと推計されている。
——唯一の得意?
私は子どものころから、自分が本当に興味のあることにしかのめり込めない性格でした。英語は、家に帰ればすぐ机に向かって大人向けの教材で勉強するくらい大好き。だけどそれ以外の勉強、特に数学は苦行でしかなく、成績も壊滅的でした。
周囲の同級生が進路を決めている中で、「自分の道を見つけなきゃ」という焦りもあったのかもしれません。どうせ自分は好きなことしか頑張れないのだから、他のことには見切りをつけて、とにかく英語を生かせる仕事を目指そうと考えていました。
——中央大学に進んだ理由は?
当時、中央大学は総合政策学部が新設されたばかりで、「ここなら広く浅く語学力と紛争問題を学べそう」と感じたんです。学部自体、新しいジャンルであることも魅力的でした。
私は昔から「人と違うことをしたい」と考えるタイプ。この特性は私の人生の節目においてさまざまな場面で表れてきたように思います。小学生のころからそうなんですよ。みんなが世界地図を見てアメリカやヨーロッパのことを話しているときに、私はひとり、アフリカや南米の国々に思いを馳せていました。
その裏側には、人と同じことをやっていたら埋没してしまうという危機感があったのかもしれません。また、自分に取り柄がないことにも劣等感を抱いていました。同じ土俵で優秀な人と競い合ってもかなわない。だから違う土俵を目指そうと思ってきたんです。
虐殺の記憶を語る人に「相づちを打つ」しかできない無力感
——中央大学在学中には単身でルワンダへ渡っています。
私が紛争問題へ関心を持つきっかけとなったのがルワンダ。自分の目で現地を見てみたいと思っていました。
当時の日本ではルワンダに関する情報が限られていて、普及し始めていたインターネットで調べても現地のことはほとんど分かりませんでした。確からしい情報に触れられるのは、シンクタンクが発行している専門誌くらい。まずは行ってみるしかないと考え、アルバイトでお金を貯め、大学3年生の夏休みにルワンダへと飛びました。
——実際にルワンダへ行ってみて、何を感じましたか?
「今の自分は、単なる役立たず」なのだと実感しましたね。
ルワンダへ行く前には2カ月間、オーストラリアへ語学留学して、ある程度は英語を話せるようになっていました。ルワンダに関する書籍をできる限り読み、事前知識を仕入れ、満を持して渡航したつもりだったんです。
でも実際に行ってみると、そうした準備はほとんど役立ちませんでした。多少英語ができるといっても、現地にはフランス語や現地語で話す人がたくさんいて、コミュニケーションさえ満足に取れないことも。ルワンダのことを勉強したといっても、現地のことは現地の人の方が詳しいことが多い。
何よりも最大の勘違いは「私が話を聞くことで、虐殺の時期を経験した人たちの痛みや苦しみを癒やせるのでは」と思っていたこと。だけど、初めて会った20歳の外国人学生に心を開いてつらい経験を話す人なんているわけがありません。何とか話を聞くことができても、その内容が深刻過ぎて、私はただ相づちを打つことしかできない。「親戚一同を殺された。未だに悪夢を見て飛び起きることがある」と話す人に、私ができることは何ひとつありませんでした。
そこで私が気づいたのは、至極当たり前のこと。平和を築こうと本気で考えるなら、そのためのスキルが必要なんです。誰かの役に立ちたいと思うなら、気持ちで寄り添うだけではなく、手立てや選択肢を提案できなければいけないんです。
日本に帰国した私は、それまでよりもずっと真剣に紛争問題について考えるようになりました。この先、自分は何を学ぶべきなのか。身ひとつで紛争問題の現場に放り込まれても変化を生み出せる人間になるためには、何が必要なのか……。
——ルワンダで瀬谷さんが直面したのは、ある種の無力感だったと思います。そのときに「あきらめる」という選択肢を取らなかったのはなぜでしょうか。
確かに当時の私は力不足を感じていました。だけどスキルを身につければその無力感を乗り越え、紛争問題の解決に貢献できるかもしれない。可能性があるのにやらなかったら、自分自身でなかったことにして見て見ぬふりをしたら、後で一生後悔することが直感的に分かったんですよね。
人生の中では、やろうやろうと思いながら結局サボってやらなかったこともたくさんあります。例えばアラビア語の勉強とか。人生で関心を持った全てのことに全力でチャレンジをすることはできません。でも、人生でこれは重要な岐路であると直感的に気づいたもの、「これをやらなければその後も頭の片隅に残り続けそうだ」と感じたことは真剣に追いかけるべきなのだと思います。
——「こんなスキルがあればできるかも」という具体的なイメージも湧いていたのでしょうか。
いいえ。具体的な答えが見えなくて、帰国後はずっと考え続けていました。
その国の歴史や文化を学ぶことは大切だけど、それだけでは意味がない。スキルや技術といっても医療や農業の分野にはすでにたくさんの担い手がいる……。あれこれと悩みながら、海外のWebサイトを漁り、欧米のNGOやシンクタンクなどの情報を何カ月も追いかけ続けました。そんな中である日、「元兵士の社会復帰が課題になっている」という記事を見つけたんです。
当時はアフリカのモザンビークで内戦が終結しつつあり、現地の少年兵を社会復帰させるための「武装解除」の方法が議論されていて、これはあらゆる紛争地に共通する課題ではないかと感じました。大きなニーズがあるのに担い手がいない武装解除。その方法を身につければ、私も役に立てるのではないかと。
自分は傲慢だった。バルカン地域で知った和解と共存の現実
——瀬谷さんの専門領域となった「武装解除」とは、どのような取り組みですか?
紛争が終わった後、もしくは終わりそうな段階で必要となるのが武装解除のプロセスです。元兵士の武装解除・動員解除・社会復帰までの一連のプロセスを、英語の頭文字をとって「DDR」と正式には呼ばれています。
政治家が紙の上で和平合意に調印しても、それまで長年戦うことしか経験していなかった戦闘員たちがスムーズに市民生活に戻れるとは限りません。行き先を失い、他の生き方を知らないまま、武器を持つ不穏分子となってしまうことも珍しくないのです。そのため紛争が終わる前に戦闘員から武器を回収し、部隊から引き離して動員を解除し、兵士ではない生き方を身につけるために職業訓練や教育を提供して社会復帰を支援します。
かつては戦争といえば国家の正規軍同士で戦われるものがほとんどで、戦後には国の采配で兵士たちの除隊が進められていました。日本でも第二次世界大戦後には、陸海軍の兵士の社会復帰のために復員庁が活動しています。
しかし1990年代ごろからは紛争のあり方が変わり、内戦など国同士の戦いではない場合の武装解除のニーズが急騰していきました。こうした場面では、政府もなかなか力を発揮できません。むしろ武装勢力はもともと政府を敵としていた集団でもあり、簡単に言うことを聞いてくれるわけではないんです。そこで各国政府、国連や国際機関などが仲介し、武装解除の仕組みを作って支援することが主流になっていきました。
——こうした流れの中で、瀬谷さんは「ニーズがあるのに担い手が少ない」武装解除を学ぼうと考えたのですね。その後はイギリスへ渡り、ブラッドフォード大学の紛争解決学の修士課程に進んでいます。
当時、イギリスの平和学は世界最先端だと注目されていました。そしてブラッドフォード大学にはその名も「平和学部」という、紛争解決を専門とする研究室もありました。「ここなら武装解除について学べるはず!」と意気込んで進学したのですが、なんとブラッドフォード大学にも武装解除を専門とする先生はいなかったんです。「入学前に教えてよ」と思いました(笑)。
でも考えてみれば、平和学を有する大学でさえ専門家がいないのだから、武装解除の担い手はそれだけ希少だということですよね。私は気持ちを切り替え、紛争地で自ら現状を知り、経験を積むことに集中しました。
——この時期にはバルカン地域での現地調査を行っています。瀬谷さんが当地で感じた「和解・共存の現実」とは?
どんな紛争でも、最終的には争っていた人たちが同じ地域で生きていけるよう着地しなければいけません。私はそうした紛争後の和解・共存をテーマに研究し、ユーゴスラビア紛争(※2)の傷痕が残るクロアチアとボスニアへ現地調査に赴きました。
そこで私は紛争地の現実を知り、ルワンダに続く大きな気づきを得ることになったんです。
それまでの私は「和解は絶対に達成されるべきものだ」と考えていました。同時に、紛争で心に傷を負った多くの人たちの心のケアも大切だと思っていました。
しかし現地の人たちは、そうしたきれいごとでは整理しきれないくらい深刻で激しい対立を経験していたんです。現地で私が「和解についての調査に来た」という言葉を出した時点で、本当に目で見て分かるくらい、人々の顔色がさっと変わるんですよ。たとえるなら、私は殺人事件の被害者遺族のもとへ行き、「犯人と和解するにはどうしたらいいと思いますか?」と質問しているようなものだったんです。
「ああ、本当にまずいことを言ってしまった……」と後悔しました。
※2:ユーゴスラビア紛争……1991年から2001年にかけ、旧ユーゴスラビアから解体の過程で複数の国で起こった一連の内戦。
——現地の人々の間には、和解や共存など到底考えられないくらい、対立相手への憎しみの感情が渦巻いていたということでしょうか。
必ずしもそうとは言い切れません。現地の人たちにもさまざまな感情があったと思います。ただ少なくとも、「和解は達成されるべきなのだ」という前提で調査している私がものすごく傲慢な存在に映っただろうと感じました。和解や共存の難しさを理解せずに自分たちの理屈を押しつけることは、時として言葉の凶器を向けることになりかねないんです。
また、心のケアが大切だというのもステレオタイプで一方的な考えでした。現地で和解に向けて取り組んでいる研究者は、ひとことだけ、「私たちはメンタルクリニックの患者ではない」と言い残して去っていってしまいました。その研究者が憤りを見せた理由も今なら分かります。心の傷が癒えれば和解できるなんて、まるで被害を受けた人のせいで和解が進まないと言っているように聞こえますから。
私はこの調査で本当に多くの学びを得ました。紛争地では、よかれと思って取った行動や言動が相手にマイナスの影響を与えてしまうこともあります。紛争問題の解決につながるスキルを学ぶことは大切ですが、それは被害者を傷つけてまでやることではない。何よりも虐げられてきた人、今後も耐え続けなければならない人たちのことを考えなくてはいけないのだと。
平和にはいろいろな形があることも学びました。紛争を経験した後に必ずしも隣人を愛せるわけではありません。それでも、相手のことをずっと嫌いでも、武力衝突や暴力なしで共存できていれば、それは「現実的な平和」のあり方だと言えるのではないでしょうか。
コネクションなしの状態からアプローチし、国連PKOで働くことに
——ブラッドフォード大学での学びを経て、いよいよ仕事として武装解除に取り組み始めた瀬谷さんは、最初のキャリアとしてNGO(非政府組織)に身を置きました。キャリアグラフはここから徐々に上昇していきます。
まずは、最も現場の人々に近い立場で活動できそうなNGOで働きたいと考えていました。初めて所属したNGOではルワンダの現地駐在員として働いたのですが、そこはまだ正規職員がひとりもいない小さな団体でした。現場で自分ひとりでやらなければならないこと、苦労もたくさんしましたが、当時の経験があったからこそ、その後の私はどこへ行ってもやっていけたのだと感じています。
その期間には西アフリカのシエラレオネへも行きました。全て自腹の旅です。シエラレオネでは、元兵士の武装解除が進められていたほか、18歳未満のうちから武装勢力に強制動員されている「子ども兵士」が問題となっていました。その状況を自分の目で見るため、アフリカにいるうちに何としても行きたかったんです。
現地では国連のPKO(※3)が活動していて、武装解除や子ども兵士の現状を知るためには、つながりを持って現状について話をしたい相手でした。そこで、まったくコネクションがないところから西アフリカのNGOへ連絡したり、国連事務所が借り上げているホテルへ宿泊者として滞在して関係者へアプローチしたりと、地道な活動を続けました。結果的に私はPKO関係者から紹介してもらう形で、政府の武装解除チームの責任者とも面会することができました。
※3:PKO……国連平和維持活動。紛争地において、紛争当事者に平和的解決を促すための取り組みを行う。PKOに基づき派遣される各国の軍部隊は国際連合平和維持軍と呼ばれる。
——ご自身の関心に基づいて積極的に動いたことで、新たなつながりが次々と生まれていったのですね。1年後には、そのシエラレオネの国連PKOで国連ボランティアとして勤務しています。瀬谷さんはどのようにしてチャンスを掴んだのでしょうか。
子ども兵士の現状は日本ではほとんど知られていませんでした。そこで私は帰国後、シエラレオネで見聞きしたことをレポートにまとめ、学生時代に知り合ったアフリカの紛争関連の研究者に見てもらい、アフリカの専門誌に掲載してもらえないかたずねてみました。結果、その報告を掲載頂き、それを読んだ人がシエラレオネで武装解除担当の国連ボランティアとして派遣できる人を探しているとちょうど連絡をくれました。
シエラレオネの国連PKOでは、さまざまな国から集まる同僚と知り合い、たくさんのことを学びました。他のPKO活動を経験している人や、何十年も紛争地に関わり続けてきたような人が、まだ20代半ばではるかに経験が浅い私を同僚として対等に扱ってくれたのはとてもありがたかったし、自分もそうありたいと思いました。当時の上司や同僚とは、今でも連絡を取り続けているんですよ。
この時期の私は、新たな経験を積むたびにできることが増え、多少なりとも役に立てていることを実感していました。複数の国際機関から一緒に働かないかと声をかけてもらい、キャリアとしては順調だったのかもしれません。しかしその後に赴いたアフガニスタンで、私は燃え尽きかけてしまうんです。
軍閥が割拠するアフガニスタンで味わった無力感
——そのアフガニスタンへは日本の外交官として、つまり外務省職員として赴任したのですね。
はい。当時のアフガニスタンは、2001年のアメリカ同時多発テロ後に拡大したタリバンとの戦いを経て、和平と復興に向けた機運が高まっていました。日本もその活動の一翼を担っていたのですが、武装解除の実務経験がある日本人はほとんどいないということで、外務省から何度も連絡をいただいていたんです。
当初は「専門調査員」という、外交官ではない立場での打診でした。しかし私は、ゼロの状態から武装解除のプロセスに携わるため、給料は下がっても良いから外交官として勤務することを希望しました。外交官なら政治的な動きにも関わり、アクセスできる機密情報も大きく異なるし、武装解除の入り口の交渉から参加できます。結果的にはこの要望を認めていただき、私はアフガニスタン行きを決意しました。
現地では日本の代表である駐アフガニスタン日本大使を補佐して、ハーミド・カルザイ大統領(当時)と交渉したり、アメリカやイギリスなど各国の政府関係者と協議を重ねたりして、武装解除のプロセスを進めていきました。国としての意思決定に関わるわけですからプレッシャーは半端ではありませんでしたが、得がたい経験を積むことができました。
——外交官として、どんなことに取り組んだのでしょうか。
まずは政治的な交渉や資金の確保を進め、その後は実際の武装解除のオペレーションの全体計画をつくり、その実行のために国連の下に武装解除を担う専門組織を作りました。一口に言うとそういうことになるんですが、状況は複雑で、簡単には進みませんでしたね。
アフガニスタン国内の武装勢力はひとつやふたつではなく、「軍閥」と呼ばれるさまざまな部隊が割拠していました。日本の戦国時代のようなものです。正規軍並みに統率された部隊もあればゲリラ組織に近い部隊もありました。また軍閥トップにはものすごい規模の資産を持っている人もいて、中には外国で精力的にビジネスを展開する司令官もいました。
そうした人たちに武器を手放してもらうには、それなりの見返りが必要です。各軍閥の対立状況や政治的なしがらみなども分析して方針を決めなければなりません。国連の政務官や他国の外交官と情報交換を重ね、複雑なパズルのピースを埋めていくような毎日。夜にベッドに入ってからも、頭の中ではずっと考えていましたね。
——この後、28歳で「人生唯一の長期休み」を取り、キャリアグラフはどん底に落ち込んでいます。「燃え尽きかけた」というお話もありましたが、このときは何が起きていたのでしょうか。
それまでの私は自分ができることを増やし、現場で目の前にある課題を解決していくことで、武装解除のために役に立てている感覚を持てていました。
でもアフガニスタンでは、当時の私ひとりの力ではどうにも解決しきれない問題がたくさんあったんです。武装解除自体が進んでも、結果としてもたらされる状況が本当にアフガニスタンの平和につながるのか、疑問に感じることもありました。それは私だけではなく、諸外国の関係者にも気づいている人々はいるはずなのに、どのように政治的な手を打てば状況を変えられるのか、当時の私には思いつく力がなかった。
ゴールが正しくないかもしれないのに、がむしゃらにやり続けることに、気力的な限界がきました。それで、2年間だった任期の少し前にアフガニスタンでの勤務を辞めることにしました。
私はこれまでに感じたことのない無力感に襲われていました。しばらくは仕事のことを考えたくない、そんな気持ちでしたね。
国連でもフリーコンサルでもなく「潰れかけた組織を立て直す」道へ
——アフガニスタンから帰国した後は、どのように過ごしていたのですか?
しばらくは仕事のことは考えず、世界各地の知り合いをたずねて回る日々を過ごしていました。その後、「前からやろうと思って後回しにしていたフランス語を勉強してみよう」とふと思い立って国連時代のフランス人の同僚が働いているコートジボワールへ。軽い気持ちで出かけたのですが、数カ月滞在するうちに、現地の国連PKOに誘われて再び武装解除に携わることになりました。そのころには、役に立てることがあるなら再び頑張りたいと思うようになっていたんです。
でも結局、コートジボワールにいたのは1年だけでした。武装解除のプロセスが停滞し、国連は和平交渉の蚊帳の外に置かれかけていて、日々やるべきこともなく時間の切り売りをしている感覚もありました。
当時の私は、現場の実務家、そして外交官の立場で日本として武装解除に貢献するために何をすべきか考えていましたね。日本は平和支援において世界最大手のドナーのひとつとして国際的な枠組みにお金を出しているものの、実際のプロセスにはあまり外交的にも専門的にも関われていないと感じていました。平和を担う人材の層が薄いし、アフガニスタンでも他国に比べて、自分の裁量が大きかったことで良い経験を積めましたが、国の外交力としては心細い部分が多かった。では、自分は何をするべきなのか。再び国連で活動するか、あるいは専門コンサルタントとして独立するか、自分で新たに団体を設立するか……。
そんなときに、REALsの当時の理事長から、「うちで事務局長を務めてくれないか」と言われたんです。
周囲からは「やめた方がいい」と反対する声が多かったです。なぜなら当時のREALsは組織運営がうまくいかず、負債を抱え、閉鎖も検討されていたほどでしたから。「沈んでいく泥船に乗るようなものだ」と言う人もいましたね。最終的に私は、この打診を引き受けることにしたのですが。
——国際公務員としての地位や待遇を捨て、フリーのコンサルタントとして稼ぐ道も捨てて、潰れかけている団体へ入ることに不安はなかったのでしょうか。
生活面での不安という意味では特にありませんでした。当時は独身だし、いざとなればどんな仕事をしてでも生きていけると思っていました。
むしろ私は、世界に平和を築くための組織を自分で一から団体を立ち上げるより、すでにある団体を生かした方が、理にかなっていると感じました。そして、この団体を立て直すという仕事は「ニーズがあるのに担い手がいない」状況でした。私の人生の決断を左右してきた動機にも合致したんです。
誰もやらなければこの団体は潰れてしまうかもしれない。それに、普段は「壊れた平和を立て直す」なんて言っている自分が、壊れかけた組織すら立て直せないなんて、ちゃんちゃらおかしい話じゃないか——。一度浮かんだその考えは、ずっと私の頭の中に付いて回りました。
やってみたい。やるしかない。
最終的にはとてもポジティブな気持ちで事務局長を引き受けたんです。だから、キャリアグラフはマイナスから一気にプラスへと振れています。
——瀬谷さんのキャリアは世界の平和という大きなテーマで貫かれているだけに、どうしても公的な側面から見てしまいがちですが、ご自身としてはむしろ「やりたいことを率直に追いかけてきた」部分が大きいのでしょうか。
そうだと思います。こういう仕事をしていると、マザー・テレサのような人格を期待されることもありますが……。現実の私はキャリアの岐路に立ったとき、自分がやりたいと思えるか、自分の能力で役に立てることなのかを重視して、自分本位で決断してきました。だからこそ結果的に武装解除や争い予防という分野で必要としてもらえたのだと思います。
個人ではなく、「チームとしてどこまでできるか」を考えるようになった
——現在のREALsに至る活動についてもお聞かせください。事務局長として団体を立て直すのは、過酷な道のりだったのでは。
マイナスからのスタートでした。就任初日はいろいろなところへ返済しなければならない借金の計算から始まりました。その後は、団体がご迷惑をおかけしていた関係先への新任挨拶と併せてお詫びをして回る日々。この時期はジャック・ウェルチさんや藤田晋さんなど、経営者の本を読んでいました。
海外での事業のあり方はどんどん見直していきました。それまでのREALsではアジアでの事業が中心で、アフリカでの事業はひとつもありませんでした。しかしアジア各国での活動は現地の担い手が徐々に育って増えてきている。それなら「ニーズがあるのに担い手がいない」地域へ力を振り向けるべきだと考え、ケニアやソマリア、南スーダンでの事業を新たに展開していったんです。
——多岐にわたる活動を進める中で、仕事への向き合い方は変わりましたか?
事務局長に就任したころの私はまだ20代の独身だったこともあり、「いざとなったら自分が寝ずに働けばいい」と考えていました。ベンチャー創業者の本を読んでいると、社内に寝袋があるのは当たり前らしいし(笑)。終電を超えることもよくありました。
でも、チームが徐々にでき始める中で、同じ働き方をスタッフに求めるわけにはいきませんでした。そんなことをしたらみんな倒れてしまいます。私自身も結婚し、36歳で子どもが産まれ、ワークライフバランスを考える必要が出てきていました。
——36歳のときにはお子さんが誕生したり、REALsの理事長に就任したりと、大きな変化が続いていたのですね。
はい。それまでは1カ月おきに海外へ出張するプレイングマネージャーとして働いていましたが、理事長として、そして母親として、持続可能な働き方へと少しずつ変えていきました。
そのころには現場のスタッフが育ち、任せられることが増えていたんですよね。20代のころは「自分がどこまでできるか」だけに関心を持っていましたが、30代では「チームとしてどこまでできるか」を考えるようになりました。
無力感に支配されることなく、紛争地に関心を寄せ続けてほしい
——直近ではウクライナやアフガニスタン、シリアの状況が深刻化しています。危機に直面する人々を助けるため、REALsはどのように活動しているのでしょうか。
活動のスタンスとしては変わらず「ニーズがあるのに担い手がいない」地域や分野に集中しています。そうすることで、私たちのような小さな組織でも貢献の幅が広がるからです。
アフガニスタンでは、昨年8月にアフガニスタン政府が事実上崩壊してから政権を担ったタリバンに迫害され、生命の危機に瀕している人々の緊急退避・保護支援の取り組みを行いました。この活動のきっかけは、私が在アフガニスタン日本大使館に勤務していた時代に部下だった人や、REALsがアフガニスタンで活動していたときのスタッフからのSOSが届いたことでした。
アフガニスタン危機が発生した直後はまず個人として救える命を救うためにとにかく動き始め、問題が長期化し命の危険にさらされ退避が必要な人々の数が膨れ上がってる様子を見て、REALsとしても活動することにしました。世界的に見ても、今まさに殺されかけている人を短期間に安全な国へ逃す支援活動は例がありません。非常に難しい取り組みだけれど、REALsは長年の紛争地での経験から何らかの解決策を見出すことができるのではと感じ、他に担い手がいなかったからこそ、私たちがやらなければならないと考えています。
——今年はロシアによるウクライナ侵攻という衝撃的な出来事があり、現在進行形で多くの人の命が奪われ続けています。戦争の恐怖を以前よりも身近に感じるとともに、「自分には何もできない」という無力感を覚える人も増えているのではないでしょうか。瀬谷さんはこれまでのキャリアで何度も壁を乗り越え、新たな道を切り拓いてきました。無力感に打ち勝つためには何が必要だと思いますか?
ひとつは「自分も他人も万能ではない」と知ることだと思います。世界に横たわる問題を、誰かひとりのヒーローやヒロインが全て解決してくれるなんてことはありません。単一の解決策で全ての問題を解決することも不可能です。だから私たちは、目の前の問題を細分化して、自分にできる第一歩は何か、まずどこまでやるのかを考えるべきだと思うんです。
もうひとつ挙げるならば、世界で起きている紛争に関心を持ち続け、自分ができる範囲の行動を積み重ねること。残念ながら紛争は長期化するのが常であり、ウクライナの悲劇も短期間には収束しないでしょう。平和に向けたプロセスも、100パーセントのゴールに向けて一気に進めることはできません。今はまだ10パーセントかもしれないし、次の10パーセントへ向けて動くのは半年後かもしれない。
その中で私たちが恐れるのは、紛争地への関心が徐々に薄れていくことです。戦争が始まったときには注目されるけど、月日がたつに連れて報道量が減り、関わる人も減っていく。私は平和を実現する手段は必ずあると信じていますが、関心を持つ人が減ると、平和のために打つ手も限られていってしまいます。そうなると、平和とは逆のベクトルに向かう思惑に流される結果にもなりうる。日本でも多くの人々が早く戦争が終わることを望んでいると思います。そのためにも、紛争地に関心を寄せ続けていただきたいと思います。
アフガニスタンの緊急退避支援では、日本でも多くの方々が寄付や支援のために行動してくださり、これまで219人の退避を実現しました。しかし現地には迫害を受けている人がまだまだたくさんいます。「無力感を覚えませんか?」と聞かれることもありますが、私たちは、自分たちの行動の積み重ねで、例えばひとりの退避に成功したり、命を救えたりしたことを、もっと誇りに思うべきなんです。
考えてみてください。例えば川で溺れている人を助けた人は、そのことを一生涯にわたって称賛されるはずです。助けられた人は一生涯の恩人として相手に感謝するでしょう。紛争地での支援もそれと同じ。まずはひとりでも、一家族でも救えたことを誇りに思って、プラスの成果を自分たちで認識して広げていくべきだと考えています。
アフガニスタンから無事に退避できた人は、「日本とREALsのおかげで助けられた」「孫の代まで語り継いでいく」と話してくれました。「恐怖と絶望で立ちすくみそうになる中、日本で自分たちの命をつなぐために応援してくれる人たちがいることで、立ち上がる力をもらった」という人々も多い。この経験をもとに、将来は自分自身が実務家となって誰かを助けたいと思う人が増えるかもしれません。自分の日々の生活で、世界で平和を必要とする誰かのためにできることをできる範囲でしようと思う人もいるかもしれない。
それが積み重なれば、世界の平和、そして自分たちの周りの平和を誰か任せにせず、自分で実現するための力にもなり得ます。全てはつながっているんです。
だから、自分にもできることがあるのだと信じて、紛争地の現状に思いを馳せ続けてください。具体的に何かのアクションを起こしたいと思うなら、私たちのような団体の活動にも関心を持って仲間として加わったり応援したりしていただけたらと思います。
取材・文:多田慎介
撮影:安井信介
編集:野村英之(プレスラボ)
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