数多くのメディアに取り上げられ、映画化もされた小惑星探査機「はやぶさ」のプロジェクト。そのストーリーを知って胸を打たれた人は多いのではないでしょうか。
2003年に打ち上げられた「はやぶさ」は、地球の重力圏外にある小惑星に着陸してサンプルを持ち帰るという世界初の試みに挑戦し、通信途絶やエンジン停止などのさまざまな危機を乗り越えて2010年に地球へ帰ってきました。この快挙を成し遂げたプロジェクトチームの中心で活躍したのが、「はやぶさ」のプロジェクトマネージャを務めた川口淳一郎(かわぐち・じゅんいちろう)さん(現:宇宙航空研究開発機構[JAXA]シニアフェロー)です。
「はやぶさ」が宇宙へ旅立った後で一連の取り組みを詳しく知った人(おそらく大多数の人がそうでしょう)の目には、このプロジェクトは「約8年間の戦い」に映るかもしれません。しかし、日本独自の小惑星探査プロジェクトの萌芽は、川口さんが宇宙開発に携わる技術者として歩み出した1970年代にありました。
世界の宇宙開発をリードしていたアメリカやソビエト(当時)を「業界のガリバー企業」に例えるなら、当時の日本は「スタートアップ企業」のようなもの。この環境のなか、川口さんはどのような思いで先進国の背中を追いかけ、独自の分野に挑み、存在感を発揮していったのでしょうか。
10代のころは将来を描けなかった。「東大宇宙研究所」へ進み、憧れの宇宙開発に関わるように
──「宇宙」は多くの人が一度は憧れ、同時にとても遠く感じてしまう分野だと思います。川口さんは何をきっかけにして宇宙にのめり込んでいったのでしょうか?
小学校に入るころから宇宙には興味を持っていたと思います。ソビエトのユーリイ・ガガーリンが人類初の宇宙飛行士として飛び立ったのは私が6歳のころ。実体験としての記憶はほとんどありませんが、その後に公開されたガガーリンに関する映画を観て宇宙への興味をかき立てられたのを覚えています。その後、アメリカのアポロ計画などによって宇宙開発が本格的に進む中で子ども時代を過ごしました。
とはいえ、10代のころは宇宙に関わる仕事をするなんて考えてもいなかったんです。普通科の高校に進み、理数系の分野が好きだったので大学は機械工学科を選びました。高校進学の時点ではその先の将来なんて描いていませんでしたよ。大学生になったとき、宇宙に対して憧れがありながらも、将来仕事で宇宙に携わることになるとは思ってもいませんでしたね。ですから、みなさんと同じように私も宇宙が自分とは遠い世界だと感じていたひとりでした。
──大学院に進んだ23歳(東京大学大学院 工学系研究科 航空学専攻に進んだとき)、キャリアの状態はGOODからスタートしています。どのような変化があったのですか?
東京大学大学院に進んだことで、宇宙を具体的に研究できるようになったんです。日本の大学で宇宙を研究しているところは今も希少ですが、当時はもっと少なかった。東大は「東京大学宇宙研究所」(後に文部省へ移管され「宇宙科学研究所」へ改組:以下、宇宙研)を持ち、実地で宇宙開発に触れられる貴重な場でした。「ここへ行かなければ後悔するだろうな」と思って飛び込みました。
──宇宙が身近になったわけですね。
はい。当時の日本では、JAXAの前身である宇宙開発事業団がすでに立ち上がっていて、アメリカの技術導入を受けながらロケット開発が進められていました。
一方で、宇宙研は「日本の宇宙開発・ロケット開発の父」と呼ばれる糸川英夫先生が開発を主導した日本初の人工衛星「おおすみ」を1970年に打ち上げています。日本の人工衛星の打ち上げ初期は失敗続きで、「税金の無駄遣いだ」と批判されていた時期もありましたが、ロケットの軌道制御という技術を自前で、形にしつつあったんです。そうした環境で私は、大学院生という立場で実務に参加する機会を得たんです。
「変人の巣窟」で学んだ、“科学的な根拠があるなら前例なきことでも恐れる必要はない”スタンス
──その後のキャリアの状態はGOODを維持していますが、宇宙研が「変人の集まりで居心地がよかった」と、ご著書で拝見しました。
大学院というのは大学の一部でありつつ、学生にとっては社会の入り口のようなものです。大学を出たばかりの私にとって、宇宙研は「変人の巣窟」に見えました。なぜ「変人」という言葉を使うかというと、自信過剰に見える人が多すぎたから(笑)。日本はアメリカ航空宇宙局(NASA)などの先進国とは宇宙開発において大きな差を付けられていました。実績としては、小さな人工衛星しか打ち上げられていない状態です。にもかかわらず、宇宙研の先輩方は「自分たちは惑星探査もハレー彗星探査もできるはず」と自信を持って語るんですよ。みんな自信に溢れていて、心配性の人はいませんでした。なぜそこまで自信過剰になれるのか、私には当初は理解できませんでした。
──根拠のない自信がある人の集まりだったということでしょうか。
いえ、逆です。根拠があるからこそ自信過剰に見えるんですよ。宇宙研の人たちは宇宙を真剣に研究し、科学的な根拠を積み重ねて「これなら実現できるはずだ」と語っていたわけです。単なる思い上がりなどではありません。大学を出たばかりの私はその根拠を理解しきれず、自信過剰に見えていたのでしょうね。私はそうした人たちとの出会いから、「科学的な根拠があるなら、前例がないことでも恐れる必要はない」というスタンスを学んだのです。
──大学院生として関わるのではなく、宇宙をいよいよ自分の仕事にしようと決意したタイミングはいつだったのでしょうか?
修士課程が終わるときに就職するという選択肢もあったのですが、ちょうどそのころ、日本で「ハレー彗星探査プロジェクト」が現実に動き出したんです。探査機が打ち上がったのは1985年ですが、プロジェクトは1980年からスタートしました。
私は探査機の軌道計算やロケット開発に参加する機会を得て、気づけばプロジェクトの真っただ中にいました。チームに入れば「学生なのか、職員なのか」という区別はないし、外部企業の人たちとも一緒に働くことになります。夢中で取り組んでいるうちに、授業料を払う立場から給料をもらう立場に変わっていました(笑)。だから、「あのタイミングで就職を決意した」といったポイントはなかったんですね。
当時は独身だったので、収入についても一切気にすることなく、毎日を楽しく過ごしていました。若々しい組織に所属し、さまざまなことに柔軟に取り組めることにやりがいも感じていました。
米ソとは違う独自の分野で存在感を示したい。問い続けた「日本の宇宙開発におけるアイデンティティ」
──1980年代にはNASAでも仕事をされていますが、ここでキャリアの状態がマイナスになっているのは意外な気もします。
1985年にハレー彗星探査機を2機打ち上げ、「フライバイ」と呼ばれる、探査機で彗星の近くを通るための運用に従事していたころですね。ハレー彗星探査を行ったことでアメリカとの関係はかなり強固なものとなったのですが、さらなる惑星探査に向けて、アメリカの協力は不可欠でした。そうした経緯もあって、87年から88年にかけてNASAへ出向きました。
その一方、国内では宇宙研の若手研究者の間で、自分たちが次に行うべきプロジェクトについて話し合っていたタイミングでもありました。国際共同研究がスタンダードになっていく中で、NASAとも共同プロジェクトを考える研究会を行っていたんです。
私たちが提示した案のひとつは「小惑星ランデブー計画」。当時のNASAは火星や木星、土星の探査に力を入れていて、小惑星にはあまり注目していませんでした。日本の宇宙研としては、独自の分野で新しい道を拓くために、小惑星に強い関心を寄せていました。
でも、こうしたプロジェクト案は、後にNASAがさらっと実行してしまったんですよね。
──日本側が出したアイデアなのに、ですか?
NASAにしてみれば、大規模な惑星探査と比べて小惑星探査は小さな計画であり、実行に移すのはさほど難しいことではなかったのでしょう。しかし予算や人材が限られている私たちにとっては至難の技です。せっかく研究会を開いてアイデアを出しても、自分たちは何もできず、他国に先を越されてしまう。当時はNASAに対して「こんちくしょう!」と思っていましたよ(笑)。
──「宇宙先進国に負けたくない」という思いで取り組んできたのに、この現実は辛いですよね。
そうですね……「負けたくない」というよりは、ハレー彗星探査プロジェクトを進めている間、私たちはずっと「自分たちのアイデンティティを問い直していた」のだと思います。
──「自分たちのアイデンティ」、具体的に教えていただけますか?
それまでの宇宙開発では米ソがしのぎを削り、NASAはアポロ計画を進め、宇宙ステーションを作り、スペースシャトルを打ち上げて進化を続けてきました。その中で「自分たちは何をすべきなのか?」と。米ソとは違う独自の分野で存在感を示さなければ、日本の宇宙開発はますます立ち遅れてしまうのではないかと考えていたんです。
──独自の分野に挑むというのは、前例のないことに取り組むことでもあると思います。宇宙開発は税金が投入される分野だという点では、宇宙研や川口さんへの風当たりも強かったのではないでしょうか?
もちろん宇宙研の若手研究者を除く関係者からは「先進国から技術導入をして、前例があることに取り組んでいってはどうか」と言われるようになっていきました。失敗を続けると、関係者から懐疑的な目で見られてしまうため、新しいことに挑戦するのが気持ち的にどんどん難しくなっていったんです。そんな圧力をひしひしと感じながらも、自分たちは何をすべきか、真似事ではなく独自の価値を発揮するためには何が必要なのかを考えていました。
そうした試行錯誤の先に生まれたのが、地球の重力圏外にある小惑星に着陸してサンプルを持ち帰る「小惑星サンプルリターン」のプロジェクトです。これが「MUSES-C(ミューゼス・シー)」計画として形になり、「はやぶさ」が産声を上げることになります。
「M-3SⅡ」8号機の打ち上げ失敗でどん底に。チェックリストが存在しない宇宙開発の難しさから得たもの
──「MUSES-C計画」は、それこそ前例のない挑戦ですよね。計画の実現に向けてキャリアの状態は上向きとなっています。どのような過程があったのでしょうか。
通常、新たな計画が実現するまでには、宇宙研の「宇宙工学委員会」を経て文部省(現在の文部科学省)の「宇宙開発委員会」へ提案するというプロセスがありました。宇宙工学委員会において、小惑星サンプルリターン計画が工学ミッションとして認められたのは1995年のことでした。提案は宇宙開発委員会を通過し、2002年を打ち上げ目標としてMUSES-C計画が動き始めました。
当時の検討書を見返してみると、現在運用している「はやぶさ2」に至るまでの計画をメンバーみんなで考えていたことがありありと思い出されます。そのときの私は、プロジェクトが実現するかどうかよりも、こうした計画立案そのものを心から楽しんでいました。みんなのアイデアを持ち寄って、いろいろな要素を詰め込み、ひとつのストーリーとして完成させていく。行き先はまだ見ぬ世界です。これが楽しくないはずがありません。
また、計画の中身は前例のないことだらけで、リスクのかたまりのようなものでしたが、実現に漕ぎ着けるまでの過程でたくさんの理解者に恵まれました。
──なぜ理解者が多かったのでしょう?
これには時代的な要因も関わっていると思います。当時の日本には、今とは違う活力や、ポジティブな考え方があったように思います。
いわゆるバブル経済は1992年ごろに弾け、株価も暴落していきましたが、世の中全体にはそれでも「新しいことを積極的にしていくべきではないか」という空気が残っていましたね。それもあって、リスク要因の多いMUSES-C計画も進行できたのではないでしょうか。私たちもフレキシブルに、大胆に動ける空気がありましたし、そう動くことが求められていました。
──その一方で、ほぼ同時期に、ロケットの打ち上げ失敗によってキャリアの状態が一気に落ち込んでいます。
これは、私がこれまでに直面した最も大きな壁だったかもしれません。1995年1月、私が関わっていたロケット「M-3SⅡ 」(ミュースリーエスツー)8号機の打ち上げに失敗しました。ロケット打ち上げが失敗すること自体は珍しくありませんが、この失敗は、私が直接従事した範囲に起因するものでした。質量のわずかな狂いからロケットが姿勢を制御できなくなってしまったんです。このロケット打ち上げは国際共同プロジェクトであり、ドイツとロシアの機器も積んでいて、影響は甚大でした。
──川口さんご自身へのダメージも大きかったのではないでしょうか……。
非常にショックでした。しかもタイミング的には、多くの人にご理解をいただいたはやぶさのプロジェクトが動き出す直前です。心底こたえましたね。同時に私はこの経験から、「分からないことが何なのか」を理解するための努力の必要性を痛感しました。
──「分からないことが何なのか」を理解する?
たとえば、ある小学生が学校で忘れ物をしたとします。先生からは「なぜ忘れ物をしたの?」と聞かれるかもしれません。それが必要な持ち物であることを知っていて忘れたのなら本人の落ち度ですが、もし「持ってくる必要があることを知らなかった」としたら、その子はどう答えればいいと思いますか?
宇宙開発の難しさはこれに通じるものがあるんです。本当は必要なのに、ロケットを作っている段階では分からないこともあります。完璧なチェックリストが存在するわけでもありません。こうした未知の物事にいかに気づけるか。この失敗は、その後のロケット開発や探査機開発に確実につながっています。
打ち上げから7年で「はやぶさ」が帰還。プロジェクト完遂のために「義務感」ではなく、「達成感」を求めて動いたチーム
──「はやぶさ」プロジェクトが始動し、川口さんは41歳でプロジェクトマネージャに就任しています。産官学の垣根を超えて多数のスタッフが参加したチームで、多様なメンバーをマネジメントするのは、かなりの困難があったのでは?
正確に言えば、私は最初からプロジェクトマネージャだったわけではありません。プロジェクトの代表であることには変わらないのですが、もともと宇宙研にはプロジェクトマネージャという職位がありませんでした。
宇宙研は、縦軸に研究分野、横軸にプロジェクトを置いた「マトリクス方式」と呼ばれる組織運営を行い、ひとりの研究者が複数のプロジェクトに参加していました。責任の所在が曖昧になりやすい面もありますが、いろいろなところに身を置いて、さまざまな経験を積むことができるので、情報を得ていくには最適な形です。
宇宙研は2003年10月にJAXAへ統合されますが、「はやぶさ」が打ち上がったのは2003年5月。いわば宇宙研の最後のプロジェクトだったんです。私はマトリクス方式で培った経験を活かしながら、「はやぶさ」プロジェクト成功のために、新規技術に関する山積みの課題をひたすら解決していきました。
──本来は2002年の打ち上げを予定していた「はやぶさ」ですが、別の衛星の打ち上げ失敗によって3年間の延期を余儀なくされています。大幅な計画変更に見舞われたプロジェクトチームを、どのように鼓舞していったのでしょうか。
幸い、チームの士気が消沈することはありませんでした。衛星打ち上げ途中のシナリオ変更はよくあることですし、「はやぶさ」プロジェクトに関わっているメンバーは、かつては空想の中にしかなかった探査機が、一歩一歩完遂に向かっていくことに、とにかくワクワクしていました。
とはいえ、打ち上げ時期が3年先送りになることは避けたいと思っていました。そのためには、予定していた小惑星とは別のターゲットを見つけなければなりません。当初は計画していなかったのですが、天体の運動と重力を利用して探査機の運動ベクトルを変更する「スイングバイ」という手段を使って、小惑星「1998SF36」へとターゲットを変更しました。糸川英夫先生にちなみ、後に「イトカワ」と命名されることになる小惑星です。
苦境に立たされたときにも、それを克服して新たな可能性を見出していくことができたのは、多数の失敗経験があったからこそだと思っています。
──打ち上げから約2年半後の2005年、「はやぶさ」は小惑星「イトカワ」へのタッチダウンとサンプル採取に成功して、世界初の快挙を成し遂げました。しかしその後は、通信途絶やエンジン停止などの数々のトラブルに見舞われています。シミュレーションにはない対応も多かったと思いますが、地球帰還に向けたアイデアを生み出し、実行を決断できた背景には何があったのでしょうか。
「はやぶさ」プロジェクトは宇宙研出身のメンバーだけで進めているわけではありません。大学の研究者や民間企業の宇宙開発事業を担うエンジニアなど、たくさんの人が関わってくれています。そうした人たちが一体感を持って取り組み、緊密な関係性の中でアイデアが生まれていきました。「契約書に書いてあるかどうか」で判断するのではなく、一人ひとりがトラブルや危機を切り抜けるために必要な行動を取ってくれたからこそ、はやぶさは地球に帰ってこられたのだと思っています。
──なぜそれほどまでに強いチームを作れたのだと思いますか?
このプロジェクトを完遂させることで自分たちの描いてきた夢が叶う。そんな、非常に強い思い入れの乗った計画でした。私はもちろん、関わってくれたメンバーみんなも、「何かをやらなければならない義務感」ではなく「危機を克服することで得られる達成感」を純粋に求めていたんだと思います。
必要ならNASAとの「バーター交渉」も。前例のないことを実現するには、「ノー」と言わせない説得材料を用意すればいい
──「はやぶさ」が命をかけて持ち帰ってくれた成果は「はやぶさ2」のプロジェクトにつながっています。2020年末には、「はやぶさ2」の小惑星「リュウグウ」からの帰還という明るいニュースが日本中を駆け巡りました。
「はやぶさ」プロジェクト以降は、日本国内で政権交代や事業仕分けといった政治的な変化があり、「はやぶさ2」を打ち上げることができるかどうかさえ分からない時期もありました。もし「はやぶさ」が帰ってこられなかったら、「はやぶさ2」の計画は通らなかったかもしれませんね。
──川口さんは、「はやぶさ2」のプロジェクトにどのような形で関わっているのでしょうか?
プロジェクトの立ち上げそのものには中心になって関わりましたが、プロジェクトが始動してからは、次世代の育成に軸足を移しています。私のような世代の人間がずっと中央に陣取ったままでは、次の世代が当事者になれないですから。
次世代の人材育成は順調に進んでいると思いますが、欲を言えば、「はやぶさ2」のプロジェクトも「はやぶさ」のように、プロジェクト始動前に十分な時間があればよかったのかもしれませんね。「はやぶさ」の計画はゼロからのスタートで、どうしたら立ち上げられるのかの行動が求められました。そうした部分は、「はやぶさ2」に関わっている人たちは経験できていないかもしれない。ゼロから、リスクだらけのプロジェクトを立ち上げるときに必要な力を身につけてもらうのは、なかなか大変だと感じています。
──そうしたゼロからの立ち上げに必要な力や、未知の領域を恐れずに挑み続けるマインドセットを得るために必要なことは何でしょうか?
私自身の例では、「はやぶさ」プロジェクト実現のためにはNASAとの枠組みづくりが不可欠でしたが、自分で判断してアメリカに出かけていきました。誰からも「これをやれ」とは指示されませんでしたし、私が勝手にやっていることについては責められませんでした。
若い職員が鉄砲玉のようにアメリカへ飛んで行き、自ら話を進める。これはガバナンスの観点では褒められたことではありませんが、宇宙研という組織は私が自分なりに考えて取った行動を認めてくれていました。こうした風土があったことが、自分を育ててくれたのだと、いまになっては思います。若手だった私たちは、「やりたいことを実現するためにどう動くべきか」を自分の頭で考えるようになりましたから。その意味では、置かれている環境が持つ力は大きいですよね。
──もし、組織の縛りのせいで新しい挑戦ができないとしたら、個人はどう動くべきだと思いますか?
組織がダメ出しばかりするなら、個人はひたすら、説得のための材料を用意すればいいのではないでしょうか。「はやぶさ」の例で言えば、無事地球に帰還できたとしても、サンプルを収めたカプセルを回収できる場所が日本にはありませんでした。それどころか、「はやぶさ」プロジェクト始動以前の日本は、地球が回る軌道上から飛んでくるものでさえ、地上で回収した経験がなかったんです。
この点だけを見れば計画には致命的な欠陥があるように思えますが、それでもプロジェクトは立ち上がりました。なぜなら、誰にも「ノー」とは言わせなかったから。当初は「南極大陸で回収する」と説明したんです。こう言えば誰も反対できませんからね。
問題解決の一環では、NASAが保有する巨大な設備で試験をさせてもらうために、「はやぶさ」が持ち帰る予定のサンプルの一部をNASAに提供するという「バーター交渉」も行いました。
前例のないことを実現したいと思うなら、できることはすべて実行して、「そこまでやるなら認めざるを得ないね」と言ってもらうための材料を集めることです。最後は理系的な話ではなくなってしまいましたね(笑)。しかし、理系的にやるだけでは宇宙プロジェクトは進まないもの。肝心な場面での突破力は、人間の思いに宿るものだと思っています。
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写真提供:宇宙航空研究開発機構(JAXA)
取材・文:多田慎介
編集:野村英之(プレスラボ)