ぼくらの履歴書 Powered by エン転職

トップランナーの履歴書から「仕事人生」を深掘り!

上へ、上へ、壁を登り続けた孤高の20年。日本スポーツクライミング界のパイオニア・野口啓代の履歴書

2021年の東京オリンピックで銅メダルを獲得したプロフリークライマー・野口啓代さんの履歴書を深掘りします。日本スポーツクライミング界のパイオニアであり、ロールモデルのない中で結果を出し続けた野口さん。その強さの源泉に迫りました。

野口啓代さんの履歴書メインカット

2021年の東京オリンピックで初めて正式種目として採用されたスポーツクライミング。この檜舞台で銅メダルを獲得したプロフリークライマー・野口啓代さんの勇姿が目に焼き付いている人も多いでしょう。

野口啓代さんが話している様子

野口さんはこの大会を最後に現役生活を引退しました。11歳でクライミングに出会ってから、32歳で最後の大会を終えるまでの長い道のり。日本スポーツクライミング界のパイオニアとして歩んできた野口さんに、ロールモデルは存在しませんでした。壁にぶつかったときも、引退という大きな節目を迎えるときにも、野口さんは全て自分ひとりで考え決断してきたといいます。

プロアスリートの引退といえば、体力的な限界を迎えていたり、思うような結果を出せなくなったりした姿を思い浮かべるかもしれません。しかし野口さんは「クライマーとして成長し続け、過去最高の状態で引退を迎えることができた」とも話します。

幾多の大会で結果を残し、スポーツクライミングの歴史を作ってきた野口さん。孤高の歩みを支えた思いとは何だったのでしょうか。その強さの源泉に迫ります。

野口啓代さんの履歴書


野口啓代さん:プロフリークライマー。茨城県出身、1989年生まれ。小学5年生のときに家族旅行先のグアムでクライミングに出会う。クライミングを初めてわずか1年で全日本ユースを制覇、その後数々の国内外の大会で輝かしい成績を残し、2008年には日本人として初めてボルダリングのワールドカップで優勝。翌2009年には年間総合優勝。その快挙を2010年、2014年、2015年と4度獲得し、ワールドカップ優勝も通算21勝を数える。2018年にはコンバインドジャパンカップ、アジア競技大会で金メダル。2019年世界選手権で2位。自身の集大成、そして競技人生の最後の舞台となった2021年の東京オリンピックでは銅メダルを獲得。2020年には自身の活動基盤となる「AKIYO'S COMPANY」を設立。自身の経験をもとにクライミングの普及に尽力している。

スポーツとは無縁の少女に訪れた「偶然」の出会い

──野口さんのキャリアグラフは、滑り出しから最高潮ですね。

野口啓代さんのキャリアグラフ1

11歳でクライミングと出会ったところからスタートしています。家族で出かけたグアム旅行で現地のゲームセンターを訪れ、そこにあったクライミング施設の壁を登ったことが始まりでした。

本当に偶然の出会いだったんですよ。大人用の課題と子ども用の課題があって、子ども用は簡単にクリアできたんですが、大人用は難しくてなかなか登れず……。それがとても悔しかったのを覚えています。

野口啓代さんがグアムで初めてクライミングを体験したときの写真

野口さんがグアムで体験したクライミング。運命の出会い

──子どものころからスポーツは得意だったのでしょうか?

いいえ。幼少期はピアノや習字、英会話など文化系の習い事ばかりで、スポーツとは無縁の生活をしていました。そんな私がグアム旅行をきっかけにクライミングにハマって、日本に帰ってからは、実家の近くにたまたまオープンしたクライミングジムに通い始めました。

そのジムができたのも本当に偶然の縁ですね。当時のスポーツクライミングはかなりマイナーなスポーツ。大人の男性競技者はそれなりにいたのですが、私のように子どもで、特に女の子で取り組んでいる人は本当に少なかったんです。ジムではいつも、おじさんたちに囲まれて壁を登っている感じだったんですよ。

そうした状況の中でも、父が私をいろいろな大会にエントリーしてくれて。大会で勝つために登るのが徐々に楽しくなっていきました。

子供のころの野口啓代さんがクライミングで壁を登っている写真

クライミングにハマり、経験を着々と積む

──12歳で出場した全日本ユース選手権では初優勝を飾っています。

クライミングを始めて1年、小学6年生のときですね。高校生までの選手が集まるカテゴリに飛び級で出場させてもらい、優勝できたんです。このときに「この競技は自分に向いているのかもしれない」と自信を持てるようになりました。

子供のころの野口啓代さんがクライミングで壁を登っている写真

上へ、上へ、壁を登っていく

──親の立場で考えると、子どもが得意なことを伸ばしてあげたいと思いますし、結果を出してくれると期待もどんどん膨らんでいくものではないでしょうか。当時の野口さんは、お父さんをはじめとした周囲の期待をどう受け止めていましたか?

もちろん両親は私を応援してくれていたんですが、「優勝を目指せ」などと期待を口にすることはほとんどなかったんです。両親は当時、牧場を経営していて日々忙しかったこともあり、子どもに対しては放任主義でした。「好きなら勝手にやりなさい」と。

今にして思えば、強制されたり、過度に期待されたりすることがなかったからこそ、のびのびとクライミングを楽しめたのかもしれません。

ロールモデルもコーチもいない。成績やパフォーマンスは全て自己責任

──中学校に入学した段階では、キャリアの状態が一度フラットになっていますね。

野口啓代さんが話している様子

中学時代は、小学生のときほどクライミングにのめり込んでいたわけではありませんでした。練習は続けていましたし、大会にも出ていましたが、大きな目標があったわけではなくて。友だちと遊ぶことが何よりの楽しみという、ごく普通の中学校生活を送っていたんです。15歳のときには、高校受験のためにクライミングから半年ほど離れていた時期もありました。

でも、高校に入学し、16歳になって世界選手権の出場資格を得てからは生活がガラリと変わりましたね。初出場の世界選手権で3位になれたことがうれしくて、初めて「世界一になる」ことを強く意識したんです。

それ以降はワールドカップで優勝することを目標に、自分でトレーニング計画を立て、日々のルーティンをこなしていきました。私のアスリート人生は、ここから本格的に動き始めたのだと思います。

ワールドカップに出場するということは、日本代表のユニフォームを着て戦うということ。「予選落ちなんてできない」という、責任感に似た感覚も芽生えました。学校から帰ればすぐにトレーニングし、夕飯を食べてまたトレーニングに向かうような毎日です。

──クライミングという競技は、自分との戦いの連続でもあると思います。自分に負けそうになる瞬間はありませんでしたか?

大会に出れば良くも悪くも結果が出ます。それを後から悔やみたくないという気持ちが強くて、トレーニングの手を抜くことはありませんでした。もし本番で良い結果が出せなかったとしても、「ここまで練習してきたんだから仕方ない」と自分で思えるように準備していたんです。練習内容や練習量はもちろん、食事や私生活も含めて、後悔しないように時間を過ごしたいと考えていました。

野口啓代さんが話している様子

──当時、野口さんにとってロールモデルとなる存在はいたのでしょうか。

いませんでしたね。そもそも、日本人選手で継続的に世界大会に出ている人がいませんでした。コーチもいないので、自分で練習メニューを一生懸命に考え、トライアンドエラーを繰り返して、大会の結果で答え合わせをするしかありません。成績もパフォーマンスも全て自己責任。誰のせいにもできません。

それでもワールドカップで優勝するという夢があったので、つらいとか、やめたいとか思うことはありませんでした。

──そうやって自分自身で計画し、結果を出していけると、私が野口さんの立場だったら天狗になってしまいそうです。

これは私の性格によるものなのか、調子に乗ることはありませんでした。むしろ、大会で勝てば勝つほど負けるのが怖くなって、プレッシャーが大きくなっていったように思います。トップ選手をがむしゃらに追いかけているときの方が楽しかったのかもしれません。

勝ち続ければ周囲の期待が次第に高まっていき、優勝ではなく2位だと「残念だったね」と言われるようになる。だからもっと頑張らないといけない。

この感覚が現役生活を終えるまでずっと続いていました。練習から逃げたら後悔するのは自分だと分かっていたし、大会に出続けていたので止まっている暇もありません。どこかの大会で自分に登れない課題があったら、次までに必ず克服する。そんな日々でした。

いつまで同じことを繰り返すんだろう——。自問自答を続けた日々

──その後、16歳から21歳まで、キャリアの状態はずっと最高潮を維持しています

野口啓代さんのキャリアグラフ2

この時期、ピークだったのは19歳のときですね。ワールドカップで念願の初優勝を果たし、大学を中退してプロクライマーになることを決意したタイミングです。

野口啓代さんが19歳のときにクライミングのワールドカップで初優勝したときの写真

ワールドカップで優勝。夢をかなえる

大学に入学したタイミングでは、自分の中でプロとしてやっていく覚悟がまだ固まっていませんでした。「プロになる」といっても特別な資格を得られるわけではなく、先が見えない不安もあったんです。

父は「今しかできないことをやればいい」と言ってくれましたが、母は「大学を出ておいた方が将来的にはいいんじゃないか」と。両親の意見が割れる中で、私も心を決めきれなかった。そのモヤモヤした感じを、ワールドカップ優勝によって振り切ることができました。

──プロクライマーになる際にもロールモデルがいなかったわけですよね。プロとして稼ぎ出していく手段をどのように想定していたのでしょうか。

まだ10代だった私は、そこまで考えていなかったんですよ。今しかできないことに勇気を持って踏み出しただけで、世界一になることしか考えていませんでした。

プロになった翌年、20歳で初めてワールドカップの年間チャンピオンになった頃からは、幸いにして日本山岳・スポーツクライミング協会からサポートしてもらえるようになったり、スポンサーさんが徐々に付いてくださったりして、プロとしての形が少しずつ整っていきました。

野口啓代さんが表彰台の上に立っている写真

年間チャンピオンには通算4度も輝いた。名実ともに世界を代表する選手に

──ここで気になるのは22歳以降の数年間です。キャリアの状態が少し落ちていますが、この時期はどんな心境でしたか?

それまでは続けて年間チャンピオンになっていたのですが、22歳のときに出場したタイミングでは2位に落ちてしまったんです。世界を飛び回って連戦してきた疲れがあり、「これまでとは違うことに挑戦してみたい」という思いもありました。だから2013年には、屋内ではなく野外の岩場にも挑んでいます。

その後、2015年にも大きな転機がありました。競技人生で初めて、足に大きな怪我を負ってしまったんです。

野口啓代さんのキャリアグラフ3

当時は26歳。スポーツクライミングの世界では20代後半で引退する女子選手が多いこともあって、私の頭の中には引退の二文字が浮かんでいました。初めての怪我をどう乗り越えていけばいいのか分からなかったし、直近では2年連続で年間チャンピオンになっていたこともあって、次の目標が見つかっていませんでした。

「私は、この先いつまで同じことを続けるんだろう……?」

野口啓代さんが話している様子

そんなふうに自問自答を繰り返す毎日。自分はどのような形で引退することを望んでいるのかを真剣に考えていました。引退のタイミングは誰かが決めてくれることではなく、自分自身でひたすら考えるしかない。26~27歳にかけての2年間は、私のキャリアの中でも、まさにどん底の時期でしたね。

年齢は関係ない。引退する瞬間がアスリートとしてのピークだった

──どん底だった2016年、野口さんも招致活動に携わり、スポーツクライミングが東京オリンピックの正式種目に選ばれました。

日本でオリンピックが開催され、そこに自分が出場できるとしたら、それは一生に一度の経験になると思いました。私を育ててくれた両親をオリンピックに連れていきたいという気持ちが高まり、「東京オリンピックで金メダリストになって引退する」という最高の目標を定めることができたんです。足の怪我が治ってきたこともあり、私はポジティブなマインドを取り戻していきました。

野口啓代さんが話している様子

東京オリンピックでは、2人の選手が同時に高さ15メートルの壁に登って速さを競う「スピード」、4~5メートル程度の壁を制限時間内にいくつ登れるか競い合う「ボルダリング」、そして12メートル以上の壁を制限時間内にどの地点まで登れるかを競う「リード」の3種目で競技が実施されることになりました。もう悩んでいる暇なんてありません。全力でトレーニングを重ね、2017年、2018年と調子をどんどん上げていきました。

──そして2019年に世界選手権八王子大会で2位を獲得し、東京オリンピックに内定。ここでキャリアの状態は再び最高潮となっていますね。

オリンピック本番よりも、この瞬間の方が喜びが大きかったかもしれません。自分が思い描いていた、オリンピックで壁に登って引退するという目標をかなえられることになったわけですから。

スポーツクライミングの場合、出場選手は全部で20人。そのうち日本人は2人しか出られません。出場権を獲得するまでが大きなハードルだったので、それを達成できたことが本当にうれしかったですね。

野口啓代さんが話している様子

──当時の野口さんは30歳。同年代の選手ではすでに引退している人も多い中、結果を出し続けていったことに驚かされます。

私にとって、年齢は全く関係ありませんでした。10代から休まずにトレーニングをずっと積み重ねてきたので、年齢的な衰えや不利を感じたことがなかったんです。

むしろ私は、2021年のオリンピックを戦い終えて引退する瞬間がアスリートとして最も高いレベルにあったと感じています。最高の状態でオリンピックを迎え、最高の状態で引退することができました。

東京オリンピック銅メダルには満足していないけど、競技人生には一点の悔いもない

──しかし2020年、誰も予測できなかった事態が起きてしまいます。コロナ禍によってオリンピックは史上初の延期となりました。

1年延期になったことにはさまざまな思いがありました。両親をオリンピックに連れていきたかったし、応援してくださった方々の前で良いパフォーマンスを見せたいという思いもあったので、無観客開催となってしまったことは残念でなりません。私が思い描いていたオリンピックの姿とは大きく違っていた。それでも、大会が中止にならなかったことには本当に感謝しています。

──2021年、いよいよ東京オリンピックが開幕しましたが、キャリアの状態は1段階下がっています。

野口啓代さんのキャリアグラフ4

やっぱり、金メダルを本気で目指してやってきたので、銅メダルで終わった悔しさがどうしても残りますし、結果には満足していません。ワールドカップでもそうですが、私は1位になりたいと常に思ってトレーニングを続けてきました。だから、一生の思い出となるオリンピックの檜舞台でも、キャリアの状態を最高潮にすることはできませんでした。

野口啓代さんが2021年の東京オリンピックで獲得した銅メダル

──この結果を受けて、「やっぱり続けよう」とは考えなかったのでしょうか?

それは全く考えませんでした。自分の中では、いつまででも続けられると思っていたからこそ、どこかで区切りをつけないと現役生活を終わらせられなかったんです。

それに、私にとって一生に一度となる東京オリンピック以上に夢中になれる大会はありません。だから結果がどうであれ、ここで最後だと決めていました。

──競技後のインタビューでは、冷静に、いさぎよく、そして堂々と話していた姿がとても印象的でした。

競技後は、気持ちの整理がすでにできていましたから。

アスリートの引退には、いろいろなパターンがあると思います。怪我をしてしまったとか、思うような結果が出せなくなったとか。私の場合は最も理想的な状態で、自分が一番出たかった大会で終わることができた。最終的な結果に満足していなくても、自分自身の競技人生には一点の悔いもありませんでした。

野口啓代さんが話している様子

クライミングを、野球やサッカーにも負けない人気スポーツへ

──壁にぶつかったときや人生のターニングポイントが訪れたとき、野口さんは常に自分自身で考え、決断し、行動に移してきたのだと感じます。誰の意見にも左右されずに自分の意志を貫く。そんな芯の強さを持てるようになったのはなぜでしょうか。

自分では芯の強さがあるなんて意識したことはないんです。ただ、強いて挙げるとするなら、両親から「これをやりなさい」「あれはやってはダメ」などと口うるさく言われることがなかったからでしょうか。

私は子どもの頃から、やりたいこともやりたくないことも、全て自分で決めてきました。スポーツクライミングに真剣に取り組むようになってからも指導者に頼ることができなかったので、自分で考える以外の選択肢がなかったんです。そうした環境の影響は大きかったと思います。

──現役引退後の野口さんはスポーツクライミングの普及活動を積極的に展開しています。2020年にはご自身の活動基盤となる「AKIYO'S COMPANY」を設立していますね。これからの日本クライミング界を担う子どもたちに、どんなことを期待していますか?

野口啓代さんが2022年7月に葛飾区で開催されたスポーツクライミング交流会に参加したときの写真

2022年7月に葛飾区で開催されたスポーツクライミング交流会

野口啓代さんが愛媛県宇和島市で開催されたスポーツクライミング教室に参加したときの写真

愛媛県宇和島市で開催されたスポーツクライミング教室。全国でクライミング普及活動を積極的に行う

私がクライミングと出会ったのはグアム旅行がきっかけでしたが、今の子どもたちは、もっと身近な場所にも出会いのきっかけがあります。

東京オリンピックによってクライミングへの注目が高まり、最近では全国各地に新しいクライミングジムがたくさんオープンしていますよね。例えば都内でもコンビニほどの広さで施設があったりする。10年前とは見違える光景です。また、インターネットやSNSを通じてたくさんの情報が手に入る時代でもあります。この恵まれた環境の中で、たくさんの子どもにクライミングの魅力を知ってほしいし、その中から競技者として高みを目指す人が増えていくことを期待しています。

現にスポーツクライミングにおいて、日本は男女ともに世界の中でも強い選手が多い。私の場合は、壁をどうやって登るかのメソッドも、うまく登れるようになるためのトレーニング方法も、全て自分で考えるしかありませんでした。でも、これからの時代を担う選手は先人たちが築いたたくさんのメソッドを参考にできます。私が始めたときにはいなかったロールモデルとなる選手が続々と出てきています。この資産を生かして、成長していってほしいですね。

私自身も、子どもたちがクライミングを好きになれるきっかけをさらに増やすために活動しています。私の大好きなクライミングをもっともっと普及させて、野球やサッカーに負けないくらいの人気スポーツにしていきたいです。

野口啓代さんがクライミングの壁に触れている写真

取材・文:多田慎介
撮影:安井信介
編集:野村英之(プレスラボ)

【関連記事】世界で活躍する女性の履歴書はこちら

まだ日本に特殊メイクという職業がなかった80年代にロサンゼルスで技術を学び、ハリウッド映画の現場で経験を積んだ特殊メイクアップアーティスト・江川悦子さんの履歴書とは。

紛争地に平和を取り戻す武装解除の専門家として世界各地で活躍し、紛争予防や難民の緊急支援などでも陣頭指揮を執る瀬谷ルミ子さんの歩みを深堀り。

女性として世界で初めてスペインサッカー協会公認のナショナルライセンスを取得したサッカー指導者・佐伯夕利子さんのキャリアに迫ります。