西武ライオンズ、千葉ロッテマリーンズとプロ野球の世界を渡り歩いたG.G.佐藤さん。選手としての絶頂期を迎えていた2008年、北京オリンピックの代表入りを果たしましたが、準決勝、そして3位決定戦と、立て続けにエラーをしてしまいます。日本代表が敗れ、メダルを逃す結果となったことで、猛烈な批判の嵐にさらされることに。G.G.佐藤さんは心に深い傷を負いました。
あれから15年がたとうとしている今も、「呪縛から解き放たれていない」とG.G.佐藤さんは言います。それでも、過去を語る表情は明るく、自身のSNSでも自虐ネタとしてフル活用。かつては「死にたい」と考えたほどの大失敗を、どのように昇華させてきたのでしょうか。
現在は経営者の肩書も持つG.G.佐藤さんに、失敗との対峙の仕方や失敗することの重要性、支えとなった言葉など、起伏に富んだ半生を振り返っていただきました。
幽霊部員にもなった学生時代。「なりたい自分になる!」と一念発起
──まずは学生時代のお話から聞かせてください。中学生の頃に所属していた「港東ムース」は、野村克也さんの妻・沙知代さんがオーナーを務めていたチーム。かなり厳しく指導を受けたそうですね。
沙知代さん(故・野村沙知代氏)からは、今の時代ではあり得ないような指導をされました(笑)。思春期なのに頭は五厘刈りですし、最初は30人ほどいた同級生が指導についていけず10人ぐらいになってしまって。最後まで続けた人だけが、ノムさん(故・野村克也氏)から、この「念ずれば花ひらく」と書かれた色紙を受け取れました。
それでも、やっている野球のレベルは高かった。団野村さん(※1)が教えてくれましたし、当時ヤクルトスワローズの監督だったノムさんも見に来てくれていましたから。技術的なところは本当に素晴らしかったんですけど、精神面が異常にきつくて、中学時代にこの世の理不尽の全てを味わったと今でも思っています。
※1:団野村さん……野村沙知代さんの息子で元プロ野球選手。
──高校は神奈川県の名門、桐蔭学園に進みます。ここではどんなことを学びましたか?
目標設定の大切さですね。甲子園出場という目標があることによって、チームが同じ方向を向ける。僕自身、つらい練習にも耐えられたし、甲子園出場のためにできることは何でもがんばれました。初めて親元を離れて寮に入り、全てを自分でやらなきゃいけない環境に置かれて。そうした状況の中で、努力するクセがついたというか。とにかく誰よりも努力した自信がありますね。それぐらい「甲子園」という舞台が魅力的だったんです。
中学時代に沙知代さんの顔色を伺いながら過ごしていましたから、先輩の顔色を伺うのも得意でした。沙知代さんに比べれば、先輩なんて何も怖くない、チョロいもんです(笑)。
高2(1995年)の春、選抜大会でチームは甲子園に出場しましたが、僕はベンチ入りできず、スタンドで応援していました。レギュラーになれたのは3年生の春頃かな。キャプテンも務めました。
──その後、法政大学に進学します。
大学では「こんなにうまいヤツがいるのか」とレベルの違いにショックを受けました。同期に阿部真宏という選手がいて、彼はのちにプロ入りするんですけど、僕と同じポジションで、1年生のときから4番を打っていたんです。阿部に追いつけ追い越せという気持ちで練習に取り組みましたが、結局追いつけず。野球が嫌いになりましたね。努力してもうまくいかないことがあるんだな、と。それで、幽霊部員のようになって野球から離れた時期がありました。寮に入れるのはレギュラー組だけだったので、僕はひとり暮らし。練習をサボろうと思えばサボれる環境にあったんです。
ただ、自分のどこかにポテンシャルがあると感じていて、ここで野球をやめてしまうのはもったいないな、と思っていました。「もう一回、頑張ろう。じゃあ、どうすれば俺は頑張れるのか」と自分に問いかけたとき、浮かんできたのが「ホームランバッターになりたい」という思いでした。体はガリガリで、ホームランを打つような選手じゃなかったけど、心の奥底では「ホームランバッターになりたい」という気持ちがずっとあった。「なりたい自分になるんだ!」とスイッチを入れて、トレーニングを始めました。
ある先輩が「お前、化けるよ」という言葉をかけてくれたことも僕を本気にさせましたね。僕は素直な性格なので、良くも悪くもそういう言葉をすぐに信じちゃうんです。それまでとは違う道から阿部を追い抜いてやろうという思いが芽生えてきて、野球の道に戻ることができました。
メジャーリーガーを夢見て渡米。過酷でも「きついなんて思わなかった」
──それはいつ頃のことでしょうか。
大学2年生だった1998年のことです。ちょうど、メジャーリーグでマーク・マグワイア(セントルイス・カージナルス)とサミー・ソーサ(シカゴ・カブス)によるホームラン王争いが盛り上がっていた時期。「俺もこんなふうになりたい!」と思って、書店までボディビルの雑誌を買いに行きました。「筋肉をつけ過ぎると打てなくなる」と言われたりもしましたけど、当時の僕は「うるせえ!」という感じで。「なりたい俺になる」という一心でしたし、トレーニングも全く苦ではありませんでした。その結果、打球がめちゃくちゃ飛ぶようになって、「俺だってホームラン打てるじゃん」と、野球が楽しくなりましたね。
大学3年生の頃、阿部が大学日本代表に呼ばれて不在だったときに、試合に出してもらえたことがあって。その試合でたまたまホームランを打ったんです。それが大学野球部時代唯一の公式戦でのホームラン。そのまま使い続けてもらえるかなって期待したんですけど、阿部がチームに帰ってきたらすぐに入れ替えられました。
──大学卒業後は渡米しています。どのような経緯だったのでしょうか。
大学4年生のときのドラフトでは指名されませんでしたが、社会人チームからのお誘いをいくつかいただいていました。練習を見に行ってみたけど、僕が進みたい道ではないと思いました。僕はやっぱり「プロ野球選手になりたい」「夢を叶えたい」という気持ちが強かったんです。そんなときに、アメリカのマイナーリーグのチームが日本で入団テストを行うという話を知りました。新聞に小さな記事が出ていたのを友だちが見つけてくれて。当日、多摩川の河川敷に行ったら300人ぐらい受けに来ていましたね。
練習の最初にボール回しをしているときに、すぐに言われました。「お前が合格だ。肩が強い」って。内野手として参加していたんですけど、「キャッチャーができるなら契約する」と言われたので「もちろんやります」と答えました。元プロ野球選手も参加していたなかで、そのテストで合格したのは僕ひとりだけでした。
──肩の強さだけで合格するものですか……。
ほかにもアピールはしましたよ。普段着ているものより2サイズ小さい、ピチピチのユニフォームを着て行ったり。「すげえ体してんな」って思ってもらえたんじゃないですか(笑)。
──フィラデルフィア・フィリーズ傘下のマイナーチームに所属することになりました。どのような毎日でしたか?
僕がアメリカに行った2001年は、ちょうどイチローさんのメジャー1年目と同じ。僕も野手としてメジャーリーガーになるぞ、という思いでした。初めてペイチェック(給料支払小切手)を受け取ったときはうれしかったですね。野球だけをやってお金をもらうわけですから、れっきとしたプロ野球選手。最初は300ドルぐらいでしたけど、フロリダで叫びました。「これでプロ野球選手になったぞ!」って。
日常生活は、今になって思えばとてもきつかったです。バスの長時間移動、食事はハンバーガーばかり、月給は10万円。でも当時は、きついなんて思わなかった。メジャーリーガーになりたいという情熱に溢れていましたから。「俺にしかできない経験してるぜ」という充実感もあったし、過酷だったけど楽しかったですね。
導かれるように西武ライオンズに入団。「G.G.佐藤」として歩み始める
──ただ、2年で戦力外になります。メジャーリーガーになるという夢を叶えることはできませんでした。
アメリカのマイナーリーグには、世界中から野球の超人たちがたくさん集まってくる。そこでふるいにかけられて、残った人間の中からスーパースターが生まれてくるような世界です。本当にレベルが高かった。
そういう選手たちと一緒に野球をやりながら、自分のレベルも急成長しました。大学では年間5試合ぐらいしか出られなかった男が140試合も出るようになったら、野球が勝手にうまくなっちゃったんです。ビジネスの世界でもそうだと思います。客先に10回行っただけの人より、1,000回行った人の方が伸びますよ。練習ももちろん大切だけど、やっぱり実戦が成長には不可欠ですね。
学生時代に先輩や同期たちの中から日本のプロ野球に入っていく選手を見ていたので、「どれくらいのレベルならプロに行ける」という物差しが、自分の中になんとなくありました。その物差しで、アメリカで野球を経験した自分を測ってみたときに「日本のプロ野球に絶対入れるな」と思いましたね。
──事実、G.G.佐藤さんは2003年のドラフトで西武ライオンズから7位指名を受けます。
帰国したあと、最初にヤクルトスワローズの入団テストを受けて保留になり、その次に西武ライオンズのテストを受けました。自信もありましたけど、運もありますよね。ライオンズの入団テストの当日、雨か何かで一軍の練習が中止になって、当時選手だった伊東勤さんの予定が空いたんですよ。それで、本来は見に来られないはずだったのに、僕のテストを見に来てくださった。
2003年といえば伊東さんの現役最終年で、翌年からライオンズの監督に就任されるというタイミング。そういう意味では現場のトップの人に見てもらえたわけですし、長年キャッチャーを務めてきた伊東さんとしても「次のキャッチャーを育てたい」という思いがあったでしょう。そこにキャッチャーだった僕が運良くテストを受けに来た。いろいろなものが重なったのかなと思います。
ドラフトで指名されたときは、めちゃくちゃうれしかったですよ。親も喜んでくれました。入団したあと、通りすがりのファンの方から「G.G.佐藤さんですか?」って言われたときなんか、有名人になれた気がして「キモティー!」(※2)と思いましたね。登録名を「G.G.佐藤」という変わった名前にしたのもよかった。
※2:キモティー!……G.G.佐藤さんがヒーローインタビューなどで披露していたセリフ。
──その登録名は、ご自身から球団に提案したんですよね。中学生の頃、野村沙知代さんから「シャキッとしなさい。ジジイじゃないんだから」と叱られたのが由来だとか。
そうです。球団の方には「は?」と言われましたけどね(笑)。経緯を説明して、OKをもらえました。G.G.佐藤という名前のユニークさで有名になれた部分もあるので、ライオンズに感謝です。
“別人格作戦”で4年目にブレイク。野球人生の絶頂期へ
──入団した2004年は、26歳になる年です。かなり遅いスタートといえますが、どんなプロ野球人生を思い描いていましたか。
まずはレギュラーになること。お金を稼ぎたい、モテたい、良い家に住みたい、有名になりたい。そんな欲望だらけでした。
でも最初の頃は、二軍の試合では打てるけど一軍に昇格すると打てない。その繰り返しでした。メンタルの問題もあっただろうし、単純に技術不足でもありました。なんとかしないとダメだと思って始めたのが、当時のライオンズで主軸を打っていた和田一浩さんをストーキングすること。普段の立ち振る舞いから打ち方まで、全部コピーしてみよう、と。和田さんには「ついてくるなよ、どっか行けよ(笑)」と何度も言われましたけど、お願いするといろいろなことを教えてくれました。
メンタルの面でも、変わる必要性を感じていました。僕は素直で優しい性格。これでは一軍で通用しないと思ったんです。そこで、自分には「G.G.佐藤」という名前がちょうどあったので、「G.G.佐藤」の仮面をかぶった別人格をつくり上げることにしました。誰とも口を聞かないし、ただひたすら野球に徹するベースボールマシンです。よく心の中で対話してましたね。「G.G.佐藤」と佐藤隆彦(※3)とで。どうやったら活躍できるか。こうした方が監督に使ってもらいやすいんじゃないか、と。入団3年目から佐藤隆彦による「G.G.佐藤」のプロデュースを開始しました。
※3:佐藤隆彦……G.G.佐藤さんの本名。
──学生時代もそうですが、自問自答し、自分を客観的に見て、そしてやると決めたら自分を信じて進む。セルフプロデュースによって周囲からの見られ方も変わってきたのではないでしょうか。
この態度変容によって友だちを失ったし、球団からも嫌われていたかもしれません。「G.G.佐藤」は性格が超悪かったですから。「ここは仲良しクラブじゃねえんだ」みたいな感じの態度です。酒も一滴も飲まず、全てにおいて野球のためだけの生活。当時はそれが正しいと思っていました。
──入団4年目の2007年、シーズンを通して一軍でプレーし、25本塁打を放つなど大活躍します。そうした取り組みがあってのブレイクだったんですね。
“別人格作戦”と、和田さんから教えてもらったことが実を結び始めて、「これだな」というバッティングの感覚を発見したんです。そこから結果も残せるようになっていきました。
調子には乗りまくってました。ベースボールマシンになって「俺が、俺が」と必死の思いでやってきたところに結果がついてきたんですから、天狗よりも鼻が伸びていたと思います。世界は自分のために回ってるんだ、くらいの感覚です。オールスターのファン投票1位を獲得したときには、ニヤけが止まらなかったですよ。
──セ・パ両リーグを通じての最高得票数を集めたのは、翌2008年のオールスターのファン投票。この年の前半戦は絶好調で、選手としての評価も、人気も、うなぎ上りでした。
ルーキーだったマー君(田中将大・東北楽天ゴールデンイーグルス)や、大活躍し始めていたダルビッシュ有(サンディエゴ・パドレス)を抑えての1位ですから。バットを振ればホームランになっちゃうし。飛ぶ鳥を落とす勢いでした。
──そんな時期に、北京オリンピックの代表メンバー入りの話が来ます。
前年に行われたオリンピック予選にも出ていないし、メンバー候補にも入っていなかったので、全く想定していませんでした。急に、追加招集メンバーとして入ることになって。そこで初めて、オリンピックに出るんだということを意識しました。
日の丸を背負って野球をするのは初めての経験でしたが、「今の俺にならできる!」と自信満々でしたね。ライオンズでレギュラーになるために、人生を懸けてやってきましたから。これだけやってるんだから、どこに行ったって大丈夫。そんな自信がありました。
北京オリンピックでの3つのエラー。あのとき何が起きていたのか
──オリンピック本戦では、まず予選リーグとして7試合を戦いました。実際に国際試合を体験してみて、何を感じましたか。
キューバ、アメリカ、韓国と向き合ったときに、「これはヤバい。とんでもないところに来ちゃったな」と思いました。星野監督(故・星野仙一氏)も怖いし……。何も言えねえって感じで、プレッシャーがすごくありました。
──日本は決勝トーナメント進出を果たしますが、苦戦することも多く、4勝3敗のギリギリ4位での予選リーグ通過でした。
チーム的に噛み合っていない感じがずっとあって、この先の決勝トーナメント、大丈夫かなって不安でしたね。そんな状態で準決勝に臨むわけですけど、相手が韓国に決まって……。やっぱり韓国戦は嫌でした。日韓戦って、負けられないっていうか。
──その韓国との準決勝に「7番・レフト」で出場。守りで2度のエラーがありました。1つ目は、転がってきた打球を後逸。2つ目は、左中間のフライに追いつきながら、落球してしまった。原因を挙げるとすれば何でしょう。
言い訳になってしまいますけど、レフトの守備に不慣れだったのは原因のひとつだと思います(編集注:ライオンズでは主にライトで出場)。1つ目のエラーに関しては、もっと慎重に捕りにいかなきゃいけない打球だったのに、早く送球したいという気持ちの方が勝ってしまった。そこは経験不足。今であれば、同じエラーはしないと思います。
ひとつエラーをしたことで、一気に不安になってしまいました。「こんな簡単なゴロも捕れないなんて、俺、大丈夫か?」って。しかも失点につながったし、星野監督がだんだんデビルに見えてくるし……。心の底から「俺に打球がもう飛んでこないでくれ」と思っていました。でも、そういうときに限って、また打球が飛んでくるんですよね。
左中間だったので、「頼む、(センターを守っていた)青木が捕ってくれ!」と思いながら追いかけているうちに、「俺が捕る打球じゃん」と。それで落球して。1つ目のエラーと2つ目のエラーは気持ちの面で連鎖していますね。
──日本は試合に敗れて、翌日、アメリカとの3位決定戦に臨むことになりました。この試合でも、ショート後方のフライを落球するエラーが出てしまいました。
あれは完全に僕の準備不足です。前日に2回もミスをして、もう試合に使われることはないと決めつけていました。メンバー表を見たときは、「俺の名前が書いてあるんだけど。ウソでしょ? 昨日のコピーかな」と驚きましたね。そこから慌てて準備を始めました。弱気を打ち消すためにも、「今日は行くぞ!」と自分に思い切りムチを入れて。その結果、冷静さを失ってしまった。ショートに任せてもいい打球だったのに、強引に捕りにいってエラーするという、悪いスパイラルに陥ってしまいました。
準決勝でのエラーについては後悔していません。最高の準備をして、心技体全てを整えて向かっていった結果のエラーなので、ある意味仕方ない。後悔しているのは、3位決定戦でのエラー。万全な準備をしておけばよかった。「段取りが8割」なんてよく言いますけど、まさにその通り。それは今の仕事でも意識していますね。
準決勝で負けて、金メダルを獲れないことが確定したことで、気持ちが切れてしまったところもありました。「銅メダルを獲りにいくぞ」という気持ちにはなれなかった。今振り返れば、チームとして、金メダル以外のビジョンを持っておくべきだったと思います。金メダルはあくまでトーナメントの結果なんです。コアとなるものとして、例えば「子どもたちに夢を与えよう」とか、そういう大義名分のようなものをチームが共有できていれば、銅メダルに向かってもう一回立ち向かっていけたのかもしれません。
死にたいほどの大失敗から「立ち直ろうとしなくていい」
──当時の映像を見返すと、3つ目のエラーをしたとき、「呪縛からまだ解き放たれることはありません」と実況されていました。あれから15年がたとうとしていますが、今はどうでしょうか?
解き放たれてないですよ。今でも悔しいです。2021年の東京オリンピックで日本が金メダルを獲ったときも、うれしい反面、「俺もこんなふうに喜びたかった」と思いました。ずっと悔しさは残ってますね。
「失敗からどう立ち直ったんですか?」とよく聞かれますけど、そんなものがあるなら僕が教えてほしいぐらいです。北京オリンピックが終わって、帰国して、試合もあったし、目の前のことを一生懸命やっているうちに、徐々に忘れられたのかなと思います。
──大きな失敗をしたとき、「なんとかして立ち直らなきゃ」と考える人も多いと思います。
いや、立ち直ろうとしなくていいと思いますよ。切り替えようとしても、立ち直れないことはありますから。時間が解決してくれると思って、身を委ねるしかないかもしれません。
僕の場合、あんな大きな失敗でさえも、今となってはそれを肥やしにしています。ノムさんに言われたんです。「北京五輪で人の記憶に残ってるのは星野(監督)とお前だけなんだから、それを生かせ」と。その一言をきっかけに、SNSを本格的に始めました。自虐ネタなんか、炎上するからやっちゃいけないことだと思っていたけど、思い切ってやってみたら周りの反応が思いのほか良かったんです。「元気をもらえました」というコメントをたくさんいただいたし、仕事も増えました。
死にたいと思ったほどの嫌なことも、時がたって、向き合い方や捉え方が変わってくると役に立つ。過去って変えられるんだな、と学びました。失敗なんか恐れる必要ないなって。ちなみに、めちゃくちゃ怖かったあの沙知代さんも「あの子は守備がうまいの」と公言してくれたんですよ。その言葉にも救われましたし、優しいところあるじゃんって思いましたね(笑)。
──なるほど。ただ、そこまで行くには時間がかかります。その時間をどうやって生きていけばいいですか。
できることをひとつずつやっていくしかないですよね。いきなり取り返そうとしたって無理だろうし。僕があのとき頑張れたのは、いつも変わらず接してくれる家族がいたから。ライオンズファンも暖かかったです。帰る場所というか、どんなときも味方でいてくれる存在は、持っておくと強みになるし、つくっておいた方がいいかもしれません。酒に付き合ってくれて、黙って話を聞いてくれるような友だちでもいい。少なくとも僕は、ひとりでは乗り切れなかった。周りの人に救われた部分がすごく大きかったです。
──北京オリンピックが終わったあと、ケガもありましたが、それまでの猛烈な勢いが急にしぼんでしまったように感じられました。エラーをしたことが、何らかの形で影響したのでしょうか。
そんなに関係ないと思いますよ。自分の実力的に、2008年がピークだったということ。勢いのある若手がどんどん入ってくる世界ですし、長く活躍するのは本当に難しい。
僕も最後までもがきました。ライオンズでの最後の年(2011年)には、練習のし過ぎで倒れて、救急車で運ばれたこともあったんです。真夏ですよ。当時二軍にいて、深夜の3時くらいまで素振りし続けるような日々を送っていたら、視界が急に狭くなってきて、意識を失って……。やり過ぎもよくないですね。それだけ頑張ったのに、うまくいかなくて、また野球が嫌いになりました。
「G.G.佐藤」の仮面を脱ぎ、人生を楽しむために野球をした3年間
──2011年のシーズン限りでライオンズを戦力外に。次の進路として選んだのは、イタリアでした。
もともとは、ライオンズを退団すると同時に現役を引退するつもりでした。だけど、野球が嫌いなまま終わりたくなかったんですよね。「俺は野球が好き。ありがとう」という気持ちで終わりたかった。それで選んだのがイタリアです。当時、ちょいワルおやじがはやっていたし、ジローラモさんみたいな陽気な人がいっぱいいるのかな、行ったら楽しそうだなって。妻と3歳の娘を連れて、家族で大冒険。それはそれは楽しかった。自分の中のコルクがパン! と空いた感じ。ずっと飲んでいなかったお酒も、ついに浴びるように飲み始めました。
イタリア人と話していると、野球というスポーツがあることすら知らないんですよ。サッカー大国ですから。「俺が人生を懸けてきた野球というものを知らないのか。俺はなんて狭い世界で生きていたんだろう」って、すごく感じました。これまでは、野球というものの中に自分の人生があったけど、これからは、自分の人生の上に野球があってもいいんじゃないか。人生を楽しむために野球をしてもいいんじゃないか。そんなふうに視野が広がりました。そこで初めて「G.G.佐藤」の仮面を置いて、佐藤隆彦に戻ったんです。
──2012年夏までイタリアでプレーしたのち、富山県のクラブチーム所属を経て、2013年より千葉ロッテマリーンズに加入しました。
これも運が大きいです。2013年に伊東さんがマリーンズの監督に就任されて誘っていただきました。僕の地元である千葉に戻ってプレーができることになったのはうれしかったですね。しかも、本名の佐藤隆彦として野球ができたので、地元に少しは恩返しができたと思います。イタリアに行った年と、マリーンズでの2年は、本当に最高でした。つらいことも我慢して、野球を続けてきたからこそ、最後に良い思いができた。ノムさんが贈ってくれた「念ずれば花ひらく」じゃないですけど、諦めないことも大切なんだなって感じますよね。
──2014年、マリーンズから戦力外通告を受け、プロの選手生活に終止符を打ちます。セカンドキャリアについては、どのように考えていましたか。
全く考えていませんでした。いつかは辞めると分かっていても、プロ野球選手のときはどうしても考えられなくて。強い肉体を永遠に維持できると思っていたし、お金も永遠に降ってくるものだと思っていました。
だから、何をしようかと考え始めたのは、マリーンズを退団してから。見切り発車して失敗するケースも多いと思ったので、猶予期間を置いて、次の道をゆっくりと考えました。野球の指導者にはあまり興味がなかったので、最終的には親が経営している会社に入ることに決めました。
言葉に支えられてきたからこそ「誰かに良い影響を与えたい」
──測量や地盤改良などを行う株式会社トラバースですね。初めての会社員生活はいかがでしたか。
プロ野球選手としての最後の時期は、レベルの上がらないロールプレイングゲームをずっとやっているような感じでした。もう伸びしろがなかったから、現状維持をするのに精いっぱいだった。会社に入ると、ゼロからのスタート。名刺の渡し方も知らない、パソコンの使い方すら分からないところから始まっているから、覚えて吸収していくことが最初は楽しかったです。みんなで力を合わせれば大きいこともできるし、喜びを共有できる楽しさも知りました。
ただ、人付き合いが増えることに関しては大変でしたね。野球はチームスポーツではあるけれど、チームが勝たなくても自分が活躍しさえすればお金をもらえたわけで、そういう意味では個人スポーツなんです。でも、会社ではそうはいかない。真面目な社員や情熱的な社員もいれば、一生懸命じゃない社員もいる。今は副社長、子会社の社長という肩書をもらっていますが、さまざまな社員をどう束ねていくかというところは難しさを感じました。
──人を束ねる立場として、どのようなことを意識していますか?
僕の人生、失敗から学んだことばかりです。だから失敗してもいい環境をつくらないと社員が育たないと思っています。うちの会社は、社長(父)が全部やっちゃうんです。79歳ですが超元気なので。社員にもっとチャレンジさせなきゃダメだと言ってるんですけど、聞く耳を持ってくれません。
あとは、これも北京オリンピックの教訓として、ビジョンを掲げることが大事だと考えています。『ONE PIECE』のルフィが言う「海賊王に俺はなる!」みたいな、みんなが共感するような言葉を経営者は示さなきゃいけないし、そこが一番の仕事だと僕は思っています。
──G.G.佐藤さんのキャリアを伺っていると、野村克也さんや沙知代さん、学生時代の先輩など、周りの人たちの言葉にとても影響された人生だと感じました。
印象に残っている言葉は自分の中にたくさんありますし、それに支えられて人生も良くなったと思っています。
ノムさんは、そこがうまかったですよね。頭を使って野球をしなきゃいけないとみんなが漠然と考えているところに「ID野球」という言葉を打ち出した。名将たるゆえんですよ。それができるのが、良い経営者だと思う。僕も2年前、コピーライティング養成講座に通いました。新商品のキャッチコピーを5個つくってこいとか、いろいろな課題が出るんです。おもしろかったですね。直近では経営者として、社員がさまざまなことにチャレンジしたいと思えるような経営をしていきたいと思いますし、社員にとって良い言葉を投げかけられるサポーターでありたいと考えています。
自分がこれから何をするべきか、正直、悩んでいます。プロ野球の世界にいたせいで、何をやっても物足りなく感じてしまう。ただ将来は、誰かに良い影響を与えられるような人間でありたい。ノムさんが亡くなったとき、人の最終評価が問われるのは死ぬときだなって思ったんです。この「念ずれば花ひらく」もそうですけど、「あなたのおかげで僕の人生はすごく良くなりました」と、心の底から思えた。僕が死んだとき、そういうふうに思ってくれる人が何人いるかなって考えると、誰もいねえな、と。だから、言葉であれ行動であれ、自分が死ぬときに「G.G.佐藤さん、ありがとう」と思ってくれる人を増やすような生き方をしたいですね。
──3月にはWBCが開幕します。侍ジャパンへの思いを最後にお聞かせください。
実力を発揮できる環境さえ整えば、間違いなく優勝できると思います。それだけの選手が集まっていると思うので。北京オリンピックのときも最強メンバーと言われましたけど、本当にそう呼ばれるには結果を出さなきゃいけない。これまでの国際試合の経験も生かして、世界一になってほしいですね。
僕からお願いしたいのはひとつだけ。自分より派手なエラーをしてほしくない。“失敗した人の代表”のポジションをやっとつかんだところなので、その座を奪わないでほしいです(笑)。
取材・文:日比野恭三
撮影:安井信介
編集:野村英之(プレスラボ)
場所:明治神宮外苑室内練習場