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敗北という「盤上の小さな死」。戦後最年長41歳でのプロ入りはその先に|プロ棋士今泉健司の履歴書

戦後最年長、41歳でプロの将棋棋士となった今泉健司さんの履歴書を深掘りします。将棋への強い情熱を抱きながらも、チャンスを2度つかみ損ね、激しく乱高下するキャリア。30歳を過ぎて飛び込んだ介護という世界で得た学び。「無駄なことなんてなにもない」という今泉さんのこれまでを語っていただきました。

今泉健司さんの履歴書メインカット

「三度目の正直」という言葉があります。勝負事において最初や二度目はあてにならなくても、三度目には確実な結果が得られる──。プロ棋士五段・今泉健司(いまいずみ・けんじ)さんは、この言葉を地で行く経歴の持ち主です。

少年時代からプロ棋士になることを目指して厳しい勝負の世界へ。二度の大きなチャンスを手にしながらも夢かなわず、一時はプロになることをあきらめて飲食業界や介護業界で勤務しました。人はその歩みを挫折ととらえるかもしれませんが、今泉さんは回り道のなかで「将棋の技術以外に足りなかったものを学んだ」と話します。

そして41歳で、実に少年時代から約30年の歳月を経て遅咲きのプロ棋士に。「人生に無駄なことなんてない」と振り返る今泉さんは、どのようにして苦境を乗り越えてきたのでしょうか。また、才能あふれるプロ棋士のなかで勝ち残っていくために、どんな戦略を描いているのでしょうか。

勝負師然とした、めまぐるしく乱高下するキャリアグラフ。その行間に秘められた思いを語ってもらいました。


今泉健司さんの履歴書


今泉健司さん:プロ棋士五段。1973年愛知県生まれ、広島県育ち。小学2年生のときに父親に教わり将棋を始める。1987年、中学2年生(14歳)で奨励会に入会するも、1999年、26歳の年齢制限に達したため奨励会を退会。地元の将棋教室で指導にあたるほか、飲食店に勤務するなどして生計を立てた。2007年、33歳で編入試験に合格し奨励会へ復帰するも、プロ入り条件を満たせず、2009年にまたも奨励会を退会。再び地元へ戻り、2014年末まで広島県福山市の介護施設で介護ヘルパーとして働く。2014年12月8日に行われたプロ編入試験第4局(東京・千駄ヶ谷の将棋会館)で石井健太郎四段(当時)に勝ち、対戦成績3勝1敗で見事合格。戦後最年長となる41歳でのプロ入りを果たす。

対局に負けると、棋士は「小さく死ぬ」

──今泉さんの著書『介護士からプロ棋士へ』(講談社)を拝読して、まず印象に残ったのは、幼少期に将棋を教わったお父さまをはじめとするご家族との関わりでした。人生初の対局相手だったお父さまにはなんと「97連敗」を喫したと。

小学2年生の息子を相手にしているんだから、少しくらい勝たせてくれてもいいですよね。ひどい親父です(笑)。

今泉健司さんの笑顔

でも今にして思えば、僕の人生の歩みは父のそれと似ているんですよ。僕は30代半ばまで自分の人生の足場を固められずに世の中を漂っていました。父は父で、広島県福山市に根を張ると決めるまでは何度も転職を繰り返していて、引っ越し続きの一家だったんです。

良く言えば父も僕も、自由な生き方を貫いてきたと言えるのかもしれません。そして、父はもちろんのこと、自由な今泉家の人間たちを支え続けてくれた母も僕のなかでは大きな存在です。

そんな僕ですから、今回のインタビューでみなさんの役に立つことを伝えられるのか不安もありますが、たくさん話すなかで何か1つでも「いいな」と感じてもらえたらうれしいですね。

──ありがとうございます。ぜひいろいろと聞かせてください。今泉さんのキャリアグラフは、まず14歳の「関西奨励会入会」のGOODからスタートしていますね。

今泉健司さんのキャリアグラフ1

当時の僕は地元で「天才将棋少年」なんて言われるようになり、将来はプロ棋士になるとしか考えていませんでした。奨励会に飛び込んでからは、地元・福山と関西将棋会館がある大阪を往復する日々。いよいよプロを目指す道が本格的に始まったのだと意気揚々でした。

中学生にして将棋会館に泊まり込み、記録係(対局の傍らで棋譜などを記録する役割)などの将棋連盟の仕事をお手伝いしていました。そんな毎日が楽しくて、学校にはほとんど行っていませんでしたし、僕自身は学校の勉強なんて必要ないとさえ思っていましたね。

記録係を務める今泉さん。23〜24歳頃の写真

記録係を務める今泉さん。23〜24歳頃の写真だ。

──中学生のころからプロになる前提で動いていたのですね。ただ、奨励会は厳しい場所であると聞きます。

とても、とても厳しい場所ですよ。

奨励会は正式には「新進棋士奨励会」といって、日本将棋連盟によるプロ棋士の養成機関です。ここで規定の成績を収めればプロ棋士になれるのですが、給料をもらえるようになるのはプロ入りの条件である四段に昇段してから。三段以下はお金をもらえません。

仮に実力的には大きな差がなかったとしても、四段と三段では、条件や待遇に天と地ほどの差があります。最近では将棋の世界でも動画配信なんかで収入を得ている人がいますが、90年代当時はそんな手段はありませんでしたので、四段から先へ進まないと食べていけないんです。

また、三段に上った後は、原則として満26歳の誕生日を迎えるまでに四段に昇段できなければ強制的に「退会」となり、プロ入りの道を絶たれてしまう。

そんな厳しい世界に身を置いているわけですから、奨励会に集まっている面々は熱い闘争心を秘めています。将棋は静かなゲームですが、勝負に臨む者の内面はまったく違います。

そもそも、勝負事が本当に好きな人でなければ奨励会には来ないのかもしれません。たとえば有名な棋士の対局では記録係を希望する人が多いので、じゃんけんで決めるんですね。当時の奨励会の仲間たちは、そのじゃんけんの結果にも激高するほど勝負にこだわる人たちでした。

僕が知っている限り、奨励会とは本物の弱肉強食の世界です。あの羽生善治先生にしても、藤井聡太竜王にしても、対局者の死屍累々を築いてきた上で今がある。盤上とはつまり戦場であり、対局に負けるということは、棋士にとって小さく死ぬようなもの。それを繰り返しています。

駒を打つ今泉さんの手

今泉さんが駒を置くと「パシッ」と心地よい音が響く。

昼は将棋、夜は麻雀。乱れきった生活の末に命じられた「帰郷」

──中学を卒業した後は、大阪で一人暮らしを始めたそうですね。

はい。念願の将棋漬けの日々が始まりました。

と、言いたいところなんですが、実際はそんなにきれいな生活ではなくて。何しろ僕の周りには悪い先輩たちがたくさんいたんですよ(笑)。勝負事が大好きな先輩から麻雀を教わった僕は、昼間は将棋会館で将棋を指しながら仕事をこなし、夜になれば先輩の家で朝まで麻雀に興じ、また将棋会館へ戻っていくという毎日で……。

振り返ってみても、当時の生活はかなりやばかったですね。そんな状態でよく三級や二級に上がれたものだと思います。

しかし、遅刻が日常茶飯事になり、生活の乱れがいよいよひどくなった僕は、師匠として僕の面倒を見てくださっていた小林健二先生(現九段)から厳しく叱責されることになってしまいました。小林先生にはたくさんご迷惑をかけてしまい、今でも申し訳なく思っています。

奨励会旅行で開催された大会で将棋を指す若き日の今泉さん。

奨励会旅行で開催された大会で、当時のライバル達と今泉さん。

──そして「帰郷を命じられ福山に戻る」ことに……。キャリアグラフも落ち込んでいます。

一時は破門になりかけたんですが、ぎりぎりのところでお許しいただき、地元へ戻ってやり直すことになりました。

実家に帰ってからはまともな生活リズムを取り戻し、再び福山と大阪を往復する日々が始まりました。中卒の僕とは違い、地元の友だちのほとんどは高校に通っています。なんとなく手持ち無沙汰になっていた僕は、地元の有名ステーキ店で初めてのアルバイトも経験しました。

それからは奨励会の活動にも一層本腰を入れて、将棋の勉強をたくさんしましたね。

その甲斐あって、僕は18歳で初段に昇段しました。奨励会では初段に上がることを入品(にゅうほん)といいます。いよいよプロ棋士への道が具体化するタイミング。ここから19歳、20歳と上り調子が続き、二段、三段へと昇段していきました。当時の僕はプロ棋士になれると信じて疑いませんでしたし、その夢が確信になりつつありました。

鼻っ柱をたたき折られた三段リーグ。大一番を逃して奨励会退会。「もう消えてしまいたい」と思った

──そして、いよいよ「三段リーグ」での挑戦が始まりました。

三段リーグは、プロ野球のペナントレースに近いといえばイメージしてもらいやすいでしょうか。1期は半年間。このリーグ戦で好成績を収めなければ四段には上がれません。

三段まで来ているのですから、参加している棋士たちはいずれも高い実力の持ち主です。なかには藤井聡太竜王のように飛び抜けた才能を持ち、一気に勝ち上がっていく人もいますが、多くの棋士は均衡した実力をぶつけ合っていくわけです。日々の体調管理やメンタル管理も含めてコンディションを維持しながら半年間勝ち続けていくのは、簡単なことではありません。

ちなみに、1期目の僕の結果は5勝13敗。勝ち星の一つは不戦勝だったので、実質的には4勝です。思いきり鼻っ柱をたたき折られました。それまではどんな環境でも5〜6割は勝ってきた自分が、2〜3割しか勝てないわけですから。

過去の将棋人生でもたくさん強い相手と出会ってきたし、それでも勝ってきた自分には特別な強さがあると信じていましたが、三段リーグにはさらに上の世界がありました。

──リーグ戦で一進一退を続けた数年間はキャリアグラフも乱高下していますね。

今泉健司さんのキャリアグラフ2

僕は基本的にお調子者なんですよね。三段リーグでは1日に2局を戦うのですが、1局目で勝ったときは上昇気流に乗ってその後も勝てることが多かったんです。逆に負けた後には連敗を重ねてしまうことも多かった。

将棋の対局は精神状態に左右される部分も大きいです。負けてしまった後にどれだけ踏ん張れるかが大事なんですが、当時はまだそのことが分かっていなかった。実力的には他の棋士と比べて圧倒的に劣るわけではなかったと思いますし、周囲の評価も決して低くはなかったのですが、心の弱さは修正できないままでした。

今泉さん、23〜24歳頃の写真

今泉さん、23〜24歳頃の写真。プロ入りに徐々に焦りが出てきた時期。「いま見ると、ずいぶん突っ張った、肩に力の入った顔をしてますね」と今泉さん。

──キャリアグラフには「自身の才能に限界を感じる」という気になるコメントもあります。

24歳のときですね。自分のなかで、はじめてプロ棋士を目指す道が見えなくなりかけたんです。

何か引き金になる出来事があったわけではなく、ふと感じただけだったんですよ。いつものように将棋会館で記録係を務め、福山へ帰る電車に揺られていたときでした。急に「もしかしたら自分はプロ棋士になられへんのかな?」という思いにとらわれて。

冷静に考えてみれば、満26歳という期限まではあと3期しかありませんでした。一気に、これまでにはなかった焦りを感じるようになりました。

考え込む今泉さん

──そうした焦りのなかで迎えた三段リーグの9期目、昇段の大一番に臨んだ際には、キャリアグラフが最高になり、そして直後に最低へと急降下しています。何が起きていたのでしょうか。

9期目のリーグ戦、僕は12勝5敗という好成績で終盤を迎えました。最後の対局に勝てば念願の昇段がかなうところまで来たんです。これまでで最大のチャンス。だからキャリアグラフも最高潮です。

でも結果は敗北でした。負けた瞬間にどん底へ落ちました。

将棋の内容は悪くはありませんでした。丁寧に展開を見て冷静に対応していけばよかったんです。だけど、「早く勝ちたい」という気持ちが焦りの一手につながってしまったんでしょうね。相手にはその焦りに乗じられて、覆せない形を作られてしまいました。

そこからはもう現実逃避です。「なんで俺の身にこんなことが起きてんの?」「嘘やろ?」「信じられへん……」。

大一番に敗れ、その後の10期目は9勝9敗。26歳を迎える最後の11期目でも9勝9敗。つまり、昇段はかなわず、奨励会を去るのみという結末でした。

──定められたルールとはいえ、中学生のころから10年以上にわたり追いかけてきた道が絶たれてしまったということですよね。本当に厳しい世界だと感じます……。

退会が決まってしまったときは、「もう消えてしまいたい」と思いましたね。無になりたかった。3日間くらい、何もせずに家にずっと閉じこもっていました。でも、当たり前ですけど、僕という人間は消えませんでした。

プロ棋士になるという目標がなくなって、自分はこれから何をすればいいのか。福山に戻った僕は、将来がまったく見えないまま、とにかく何かを始めなければいけないと考えていました。

「人生に無駄なことなんてない」。立ち直るきっかけをくれた言葉

──失意の底から、今泉さんはどのようにして立ち上がったのでしょう?

今泉健司さんのキャリアグラフ3

「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉がありますよね。僕の人生では、大変なことが起きたときに必ずといっていいほど「拾う神」となる人が現れ、助けてくれました。そうした人たちとの出会いや、かけていただいた言葉は、僕の財産となっています。

あのときもそうでした。

福山の実家で抜け殻のように過ごして僕のもとへ1本の電話がかかってきたんです。相手は竹内茂仁さんと名乗る、僕の知らない人。地元で将棋教室を開いていて、そこで講師をしてほしいという内容でした。僕に講師が務まるのか分かりませんでしたが、とりあえずお会いして話を聞いてみようと思ったんですね。そのときに竹内さんがかけてくれた言葉は今も忘れられません。

「あなたは本当にここまでよく頑張ってきたと思います。人生に無駄なことなど一つもない。この経験を生かして、次のステップを頑張りましょうよ」と。

奨励会で結果を出せなかった僕のことを、よく頑張ったと褒めてくれる人がいる。プロ棋士になれなかった自分は無だと思っていたけど、こうして認めてくれる人がいる。それが本当にうれしくて。

人生に無駄なことなんてない。今なら確かにそう思えます。ありとあらゆる失敗をしてきたからこそ、今日もこうやってインタビューしてもらえているわけですから。竹内さんからは、すべての物事が自分の経験になることを教えてもらいました。

今泉健司さんの横顔

──竹内さんの言葉によって、プロ棋士を目指してきた10年あまりの時間を肯定できるようになったのですね。

はい。積み重ねてきたことがリセットされてしまったのはつらいことですが、経験を生かして、これから新しい何かを始められるのだというワクワク感を持てるようになりました。

将棋との向き合い方も変わったと思います。将棋って、アマチュアの世界にもすごい人がたくさんいるんですよ。アマチュアで全国制覇するのは、プロになるのと同等か、それ以上に難しい。「それならアマチュア最強を目指そう」と考え、具体的な目標も定めました。「勝負に勝ちたい」という思いを再び持てるようになったのも竹内さんのおかげかもしれません。

──同じころにはレストランチェーンに就職して、社会人としてもキャリアを歩み始めています。

書店でのアルバイトを経て、29歳でレストランチェーンに就職しました。僕は中学を卒業して以来、アルバイトを除いては将棋しかやってこなかったので、これが初めての社会人経験です。「ここで出世すれば人生の勝ち組になれる!」と思って燃えていました。

だけど、実際に働き始めると苦労の連続でした。僕は飲食店の仕事をなめていたんでしょうね。とにかく、めちゃくちゃきつかった。それまでのアルバイトの接客とはわけが違うし、店の回転率を高めるために考えながら動き、料理も作らなきゃいけない。シフト組みやレジ締め、発注など覚えることもたくさんあって、自分なりに一生懸命やっているつもりでも、毎日つらくて仕方ありませんでした。

で、そんなときにはまた過去へのネガティブな思いが湧いてしまうんです。「なんで俺、奨励会にいるときに、もっと真剣に将棋の勉強をもっとしなかったん?」と。

──結局、割り切れていなかった?

そうだと思います。当時は奨励会以外にプロ棋士になるルートはなかったので、もう挑戦できないのだと頭では分かっていました。ただ、「俺は将棋では負けていない。巡り合わせが悪かったんだ」という思いがずっとあって、「プロになれない」という現実を認めて割り切ることまではできていませんでした。

再び訪れた大きなチャンス。無鉄砲に行動した先に待っていたもの

──そして大きな転機が訪れます。「プロ編入試験制度」が創設され、これまでにはないルートでプロ棋士を目指せるようになりました。

きっかけを作ってくれたのは、僕と同じく年齢制限で奨励会を退会した瀬川晶司さん(現六段)でした。瀬川さんは当時アマチュアでありながら、プロ相手に勝利を積み重ねて圧倒的な成績を収め、その結果を持って日本将棋連盟へプロ棋士になるための嘆願書を出したんです。結果、嘆願が認められて瀬川さんはプロ棋士になりました。

僕はそのとき32歳。瀬川さんのニュースを知って、体中に稲妻が走るような衝撃を覚えました。「俺も、プロ棋士になれるかもしれへん」って。

今泉健司さんの笑顔2

──今泉さんはすぐに行動を起こしたのですか?

稲妻が走った瞬間にレストランを辞めましたよ。僕は昔からこうなんです。「これだ!」と思ったら行動に移さないと気がすまない。僕を拾って働かせてくれた会社に申し訳なさを感じつつも、動かずにはいられませんでした。

ただ、後から聞いた話によると、プロ編入制度は当初は瀬川さんのためだけの特例的な扱いだったようですね。ちゃんと制度化されたのは僕が会社を辞めた1年後でした。今から考えると無鉄砲すぎて、自分の選択が恐ろしくなります(笑)。

──当時の今泉さんを突き動かしていた思いとは。

自分の過去に決着をつけたかったんだと思います。だから瀬川さんの話を知って「俺もやりたい!」と強く決意しました。

これは結果論に過ぎないのかもしれませんが、人間って、動き出すことで何かしらの変化を呼び込めるものなんじゃないでしょうか。きっかけとなる出来事があっても、行動しない人間には何も起きないわけで。今では、あのときに心のままに動いた無鉄砲な自分の選択は間違っていなかったとも思うんです。

やがて正式にプロ編入ルートが制度化され、僕はそこへ挑戦する資格を得ることができました。そして、26歳のときに敗北した三段リーグへ、再び加われることになりました。

──キャリアグラフも20代のとき以来の最高潮となっていますね。しかし、またしても直後に急降下しています……。

今泉健司さんのキャリアグラフ4

プロ棋士を目指す僕の2回目の挑戦は、結果から言うとまた敗北で終わりました。

編入制度で入った場合は、4期(2年間)までしか三段リーグに挑戦できません。4期までに四段へ昇段できなかったら退会です。プレッシャーのなか、僕は1期目で大チャンスをつかみました。序盤は連敗スタートでしたが、そこから9連勝して一気にトップへ。9勝2敗という好成績で終盤戦に突入し、そのまま調子に乗って行ければよかったんです。

でもここで僕は変なことを考えてしまいました。「こんなにうまくいっていいのか?」と。

なぜだかはよく分からないんですが、上り調子の自分の心に自分でブレーキをかけてしまったんですよね。そんなことを考えた瞬間からまさかの5連敗。また大チャンスを逃してしまったわけです。

それからは「やってられへん」と投げやりな気持ちが芽生えてきてしまった。三段リーグ再挑戦2期目、僕は勝てると思っていた対局を落としてしまいました。そして投了に追い込まれたその瞬間、あろうことか、駒をグシャグシャにして悪態をつきながら対局室を飛び出してしまったんです。いくら頭に血が上っていても、決してやってはならない敬意を欠いた最低の行為です。それだけ投げやりな気分になっていたのでしょう。その後、今度はパチスロにのめり込んでいきました。将棋の勉強もそっちのけでパチスロばかりやっていた僕は、3期目、4期目と当然のように負け越し。2回目の挑戦はあっさりと終わりました。

30代の終わりにようやく気づいた、周囲への感謝の思い

──20代で逃した大きな夢に30代で再び挑戦し、またしてもつかみ損ねてしまう。この結果だけを見ると、「自分だったら立ち直れないのではないか」と思ってしまいます。

そうですよね……。とはいえ、このときの僕はどん底ではなかったんですよ。むしろ、プロ棋士になるという夢に決着がついて、すがすがしい気持ちさえありました。

──だからグラフは最低ではないのですね。

20代のときは傲慢な思いもあったんでしょう。「なんで俺より弱いやつがプロになって、俺はダメなんや」みたいな。結果に納得できていなかったんです。30代になって改めて挑戦し、うまくいかないときにパチスロに逃げてしまったのも結局は自分の実力不足。結果が出て、ようやくプロへの思いやわだかまりを整理できました。

それ以上に当時の僕の頭を悩ませていたのは、リアルな生活の部分です。

2回目の奨励会退会という憂き目にあって、お世話になっていた師匠が就職先として東京の証券会社を紹介してくれたんですが、僕はその職場でまったく通用せず、あっさりクビになってしまいました。もう真っ青です。学歴は中卒、社会人経験は4〜5年程度で、ほとんど将棋しかしてこなかった36歳。「この先どうしていこう」と本気で悩みましたよ。

──その後、介護の仕事を選んだ理由は?

最初は、他に働ける場所がなくて選んだ面もありました。介護業界なら未経験でも雇ってもらえるだろうと。でも、そんな軽い気持ちのままではいられないくらい、介護は奥深い世界でした。僕の人生が本格的に動き出したのは介護の仕事に触れてからだと思います。

仕事を始めたばかりのころに、こんな衝撃的な体験をしました。

あるおじいさんに「今泉です、よろしくお願いします」とあいさつをしたんです。するとその瞬間に男性の右ストレートが飛んできて、僕は思いきり殴られてしまいました。わけが分からない状況ですよね。あいさつをしたらいきなり殴られるなんて。

事情を聞くと、そのおじいさんは他人が自分の右側に立つと緊張し、警戒するのだそうです。試しに立つ場所を反対側に変えてみると、おじいさんは少しも怒りません。

「相手を理解して自分の場所を変えればいい」。これは僕にとって革命的な大発見でした。36歳にして、人の気持ちを考えたり、人の視点に立ったりすることを初めて学んだんです。それまでは自分の意志を通し、自分が勝つことしか考えていませんでした。他人がどう思うかなんてまったく気にしていませんでした。

僕は介護の仕事でもたくさん失敗を重ねましたが、施設責任者の方はそのたびに「今泉くんは確かに失敗が多いけど、利用者さんには真剣に接しているから様子を見ましょう」とフォローしてくれました。そうしたなかで、僕は初めて周りの人への感謝の気持ちを持つようにもなったんです。

まるでMr.Childrenのヒット曲『優しい歌』の歌詞みたいやなぁ、と思います。10代、20代のときにも、僕に手を差し伸べてくれていた人がたくさんいたはず。でも僕はそれに気づけなかった。もう30代も終わりに差しかかってようやく、僕は周囲の人への感謝の思いを持ち、お返しをしていきたいと考えるようになりました。

介護の仕事といえば、もう一つ忘れられないエピソードがあります。聞いてもらってもいいですか。

僕がいつもトイレへの誘導を担当していたおじいさんがいました。僕とそのおじいさんとの関係性は決して良いとは言えず、トイレ誘導ではいつも「俺をどこに連れて行くねん!」と怒られていました。そんなおじいさんが、ある夜、とても穏やかな様子で僕の手を握って「兄ちゃんの手、ぬくいなぁ」と笑顔で言ってくれたんです。普段はそんなこと言わないのに。

いつものように「おやすみなさい」を言ってベッドを離れた翌朝、そのおじいさんは亡くなっていました。

とてもショックでした。かなりお年を召されていたとはいえ、昨日まで元気に過ごしていた人がこんなにもあっけなく旅立ってしまうなんて。

でも考えてみれば、僕たちも同じですよね。今はこうやって話しているけど、明日はどうなっているか分からない。もっと言えば1時間後にどうなっているかだって分からないんです。

いつ死ぬかは誰にも分からない。それなら僕は今を全力で生きて、周囲の人を笑わせていたい。気づけばそんな人生観を身につけていました。

自分の強みを整理し、戦い方をシンプルに一本化したら「楽になった」

──未経験で始めた介護の仕事は苦労も多かったと思いますが、それ以上に今泉さんにとっては充実した時間だったのですね。

忙しくて、楽しくて、考えさせられて、それまでの人生でいちばん充実していた時期でしたね。

その後の僕は不思議なことに、将棋で勝ちまくるようになったんですよ。僕に足りなかったのは将棋の技術だけではなかったのかもしれません。プロ棋士を目指すという呪縛が解けてからは、自分が楽しめる範囲で、肩の力を抜いて将棋と向き合っていました。

岡山のアマ将棋大会に参加する今泉さん

岡山のアマ将棋大会に参加する今泉さん。介護の仕事と並行して、多くのアマ大会に参加し、次々とタイトルを獲得した。

アマチュアの地区大会を勝ち抜き、とてもレベルの高い全国大会で優勝。その先にはプロ編入試験という機会もありました。そう、またしてもチャンスが巡ってきたんです。プロ棋士と15局以上を指して、6割5分以上の確率で勝てばプロになれる。だけど当時の僕はすっかり謙虚になって、「いやいや自分には無理だろう」なんて思っていて。

それなのに、自然な気持ちで将棋を指し続けていたらプロになってしまいました。41歳の遅咲きルーキーの誕生です。

今泉健司さんのキャリアグラフ5

──子どものころから追いかけてきた夢が、とうとうかなった瞬間ですね!

そうですね。さらっと話してしまいましたが(笑)、それくらい僕は自然体で臨んでいましたし、20代や30代のときとは違う心境で対局に挑むことができたんです。このときは、自分の帰る場所として介護の仕事があったことが大きかったのかもしれません。将棋の道を捨て去ることはできなかったけど、僕にとって介護は、将棋と同じくらいに魅力あふれる世界でしたから。

──プロ棋士はこれまで以上に厳しい世界だと思いますが、今泉さんは最初の1年で順位戦C級2組への昇給を果たしています。

1年でC級2組へたどり着けたのは大きかったです。最初に属するフリークラスでは、10年以内にC級2組に上がらないと規定により引退になってしまいますから。C級2組からは収入も生活もだいぶ落ち着いてきます。順位戦のランクは上がれば上がるほどもらえるお金も多くなる。いわばプロ棋士としてのキャリアアップですね。その意味でもしっかりと上を目指して戦っていかなければならないんです。

──2018年度の第68回NHK杯テレビ将棋トーナメントでは、1回戦で当時七段だった藤井聡太竜王を破って話題になりました。才能あふれる人たちと戦っていくなかで、今泉さんはどのように生存戦略を打ち立て、勝利をつかんでいるのでしょうか。

藤井聡太竜王に勝てたのはたまたまですが、プロ棋士となってから、「自分史上最高の将棋ができたな」と手応えを感じる瞬間はいくつもありました。

生存戦略というと難しいですが……。一つ挙げるとすれば、38歳のときから「中飛車固定」という戦法に絞っていることがあるかもしれません。あれこれやるのではなく、自分の戦い方をシンプルに一本化したということです。それからはだいぶ楽に戦えるようになりました。

僕はもともとオプションが少なく、プロ棋士の中でも幅の狭いタイプだと自覚しています。そのため以前は相手の変化に左右されがちだったのですが、中飛車固定の戦法に絞ってしまうことで、逆に相手の変化に対応しやすくなったんですよね。「幅を広げなきゃ」と悩んでいた時期もありましたが、自分にとっての強みを整理し、ごちゃごちゃ考えずにシンプルに勝負するようになってからは迷いがなくなりました。

プロになった直後の指導対局を行う今泉健司さん

プロになった直後の指導対局。「将棋っていうめっちゃ楽しいゲームを多くの人に知ってほしい」と、今泉さんは普及活動に力を入れる。

──将棋だけでなく、仕事にも通じる話かもしれないと感じました。昨今、ビジネスの領域では新しい技術やサービスが次々と登場し、ビジネスパーソンには変化に対応していく力が求められています。今泉さんは世の中や周辺環境の変化へどのように立ち向かっていますか?

将棋の世界でもどんどん新しい才能が登場しています。藤井聡太竜王はその代表例でしょう。また、将棋界でもAIの存在感は大きいです。何しろ人間より強いわけですから。これからの棋士はテクノロジーをうまく活用して自分の技術を伸ばしていかなければならないでしょうね。

そうやって新しい才能や技術を理解し、受け入れ、刺激を受けつつ、自分にとって都合のいい部分だけを拾っていくことが大切だと思っています。「分からないものは避ける」ではなく、「分からないからこそ面白がる」という姿勢が必要なのでは。

そして、藤井聡太竜王のような本当の天才が歩む道と、僕が歩む道は違うとも思っています。僕には僕のやるべきことがあるんです。

紆余曲折を経てプロ棋士となってから、僕は「将棋を通じて、みんなの笑顔のもとになる」を自分自身の理念として活動しています。将棋という素晴らしいゲーム、素晴らしい自己表現手段の魅力を広めて、1人でも多くの人の毎日を豊かにできたらいいなと。

そのために一生懸命取り組んでいけば、どんな天才にも真似できない、オンリーワンのプロ棋士になれるかもしれない。そう信じて、これからも楽しく活動していきたいと思っています。

今泉健司さんの満面の笑み

取材・文:多田慎介
撮影:はてな編集部

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