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バレンシア、ビジャレアル、スペインサッカー界を駆け抜けた衝動の30年|指導者・佐伯夕利子の履歴書

女性として世界で初めてスペインサッカー協会公認のナショナルライセンスを取得したサッカー指導者の佐伯夕利子さん。さまざまな試練に直面しつつもブレることなくサッカーと向き合ってきた履歴書をたどり、キャリアアップの本質や人生における選択の背景について深掘りしました。

佐伯夕利子さんの履歴書メインカット

高校卒業後にスペインに渡り、ナショナルライセンスを保持するサッカー指導者となった佐伯夕利子(さえき・ゆりこ/@puerta0さん。女性に対して門戸が十分に開かれていなかったサッカー界を、30年間にわたり、たくましく生き抜いてきました。

ヨーロッパで活動する日本人サッカー指導者のパイオニアとなるまでの道のりは、もちろん平坦ではありませんでした。プレーすることさえできなかった学生時代。ライセンス取得の前に立ちはだかったトラブル。思いもよらないオファーの連続、そして解任……。それでも佐伯さんが記したキャリアグラフにマイナスの時期がないのは「自分が好きでやってきたから」。人生の節目が訪れるたび、佐伯さんはどのように考え、行動してきたのでしょうか。

佐伯さんが「一目散に突っ走ってきた」と表現する、異国でのチャレンジ。その激動の自分史を、当時のスペインサッカー界の状況とともに存分に語っていただきました。

佐伯夕利子さんの履歴書


佐伯夕利子さん:サッカー指導者。WEリーグ理事。イラン・テヘラン生まれ、福岡県出身。日本大学鶴ヶ丘高校卒業後、スペインに移住。現地のサッカー指導者養成スクールに通い、1995年、スペインサッカー協会公認ライセンス・レベル1、レベル2を相次いで取得。通訳・翻訳会社を経営するかたわら、2003年には女性として国内で初めてライセンス・レベル3を取得した。その後、欧州最高レベルライセンスであるUEFA Proも取得。3部リーグのプエルタ・ボニータで監督を経験するなどスペイン国内のクラブで指導者としてのキャリアを重ねたのち、2020年にJリーグ常勤理事に就任した(2022年退任)。

サッカーに惚れた少女が直面した「男のスポーツ」という壁

──佐伯さんはイランでお生まれになったんですね。幼いころはどんな女の子でしたか?

佐伯夕利子さんの話す様子

3歳のころから日本で暮らし始めました。髪はショートカットで、ズボンを穿いて、後ろに男の子をぞろりと引き連れて遊んでいる、そんなおてんばな少女でした。好奇心旺盛で、見たもの、聞いたものに影響を受けやすかった。オリンピックを見ては「女子バレーの選手になりたい!」と思うようになったり。将来の夢は、挙げたらキリがないくらいたくさんありました。

サッカーとの出会いは小学2年生のころ。遊び仲間の男の子が「今日はこれで遊ぼう」と言ってサッカーボールを持ってきたんです。つるつるした革でできた、重たくて大きなピカピカのボールでした。私はそれを見て「何それ? カッコいい!」と。ゴールに蹴り込んで点を取るスポーツなんだと教わって、「モノを足で扱うな」ってさんざん怒られてきた私としてはおもしろくて仕方なかった。それ以来、ハマりましたね。

──3年生で少年団のチームに入ったのち、5年生のころには退団して陸上に転向されていますね。

佐伯夕利子さんのキャリアグラフ1

最初は女子であることを理由に少年団に入れなかったんです。1年後にようやく入れてもらえたものの、女子は私ひとりだけ。お客さま扱いされることに居心地の悪さを感じるようになり、小5のときにやめてしまいました。その後、先生に勧められて陸上を始めました。6年生のころに台湾に移り住んだのですが、通っていた日本人学校では当然のようにサッカー部への入部を認めてもらえました。

この時期は学習の連続でしたね。サッカーは男の子のもので陸上は女の子もできるスポーツ。台湾では女子であってもサッカーチームに受け入れてもらえる。そういう体験を重ねながら、「女の子ができること・できないこと」の認識が自分に刷り込まれていく過程だったのかなと思います。

──中学2年生から高校卒業までは東京での生活となります。

当時の日本には、女の子が普通にサッカーができる環境がなかったので、泣く泣く諦めて、中学校ではソフトボール、高校ではゴルフ部に入っていました。中学校を卒業するとき、先生から「将来ずっと楽しめるスポーツを探してください」というメッセージをもらいました。とてもよくしてくださった先生で、私のためを思って言ってくださったのだと思いますが、今になって思うと「サッカーは男のスポーツである」という認識が強かったのでしょう。そういうメッセージを受け取った子どもにも「やっぱりそうなんだ」という意識が植えつけられていきました。

マドリードの星空のもと訪れた決意の瞬間。「一生、サッカーで食べていく」

──そして18歳のとき、ご家族の仕事の関係でスペインへ移住されました。

佐伯夕利子さんのキャリアグラフ2

大学進学もすでに決まっていた中で、父親のスペイン転勤の話が飛び込んできました。すぐに「これだ!」と思いましたね。というのも、東京で楽しく高校生活を送りながらも、心のどこかに一抹の不安を抱えていたんです。このまま大学に進学したら、ただの“普通の人生”になって終わってしまうんじゃないか。誰かと取り替えのきくひとつのピースになってしまうんじゃないか。そんな不安がずっとありました。当時はそこまで言語化できていませんでしたが、「ここから脱出しなければいけない」という危機感、いわば野生の勘がはたらいて、スペインに行くことを即決しました。

──“野生の勘”……あとにもつながってくるお話にも感じますが、そのお話を楽しみにしつつ、スペインでの生活はどのように始まりましたか?

語学学校、それから現地の大学に入るために外国人用のプレスクールに通っていました。将来像はまだぼんやりしていて、ひとまずはスペイン文学を専攻するつもりでした。

佐伯夕利子さんスペイン移住1年目。スペイン文学を学んでいたころ

スペイン移住1年目。スペイン文学を学んでいたころ

同時に、現地のサッカークラブに入って、再びプレーできる環境を得たのですが、ある日の練習後、マドリードの星空を見上げながらストレッチをしていたとき、全身に鳥肌が立つ感覚に襲われたんです。「私はやっぱりサッカーが好き。一生、これで食べていきたい。文学の勉強をしてる場合じゃない」って。生まれて初めて、自分の将来の姿を思い描けた瞬間でした。サッカー界で職業になるものは何があるだろうかと考えて、指導者になるという答えに行き着きました。

──そこからサッカー指導者を目指す道へと入っていかれたんですね。

指導者養成スクールに電話で問い合わせると、責任者の方が対応してくださいました。そのとき私は3つの質問をしたんです。まず、外国人でもスクールに入れるかということ。すると即答で「こうして電話で会話ができているから問題ない」と言われました。次に19歳でも問題がないかを尋ねると、「入学の条件は16歳以上だから問題ない」と回答があり、最後に女性でも指導者になるための勉強はできるのかを聞きました。

すると彼が言ったんです。「僕にはその質問の意味がわからない」って。私は心のどこかで、「何を言ってるんだ。女性が指導者になれるわけないだろう」と言われると思っていました。今振り返るとやっぱり、成長過程で無意識に刷り込まれてきた固定概念があったんでしょうね。でも、ひとたび国境を越えれば女性であることが壁にならない世界があるんだと知った。その瞬間、「この国でなら私は生きていける」と思いました。

──当時のスペインは、女性の社会進出に対して寛容だったのですか?

あくまで一般論ですが、当時(90年代初頭)の段階では閉鎖的、内向的な国民性だったと思います。たとえば日本人である私がマドリードの地下鉄に乗ると、乗客のみんなから珍しい生き物に遭遇したみたいな視線を注がれて、頭のてっぺんから足の先まで3往復されるくらい、まじまじと見られました。女性がサッカーをすること自体も一般的ではなく、「親に反対されてトイレの窓から脱け出して練習に参加していた」という仲間の話を聞いたこともあります。もちろん、女性が指導者になることは常識では考えられないような時代でした。

ただ、電話に出てくれた責任者が偏見を持たない方だった。「女性であることは何か問題なのか?」とまで言ってくださって。出会う人によって人生って変わるな、と思いましたね。

ライセンス取得に挑むも、まさかの事態に……

──ライセンスの取得を目指して、指導者養成スクールに通う日々が始まります。

佐伯夕利子さんが真剣な表情で話す様子

ライセンスにはレベル1からレベル3まであり、レベル1が日本の指導者ライセンスでいうところのB級、レベル2がA級、レベル3がS級に該当します。レベル3のライセンスを取得すれば、トップリーグのプロクラブで指導ができるようになります。プログラムは座学と実技からなり、年度の終わりに試験を受け、それに合格するとさらに1年間、実習を積む。要は実際にクラブで監督として雇ってもらい、公式戦で指揮を執り、条件となる試合数を満たしたことが協会に認定されれば、ライセンスが発行される仕組みです。22歳のころには、レベル1とレベル2のライセンスを無事に取得することができました。

──契約してくれるクラブを自力で見つけ出すのは大変そうですね。

私の場合、初年度から運良く育成年代のチームを監督するチャンスに恵まれました。選手の親御さんたちからすれば、外国人で、まだ若くて、しかも女性に子どもを任せるのは不安だったかもしれません。でも当時の私には、ハレーションが起こるかもしれない、なんて意識はまったくありませんでした。幸いにも私は人種差別や性差別をあからさまに受けた経験がすごく少なくて。その点は人に恵まれて幸運だったと思います。単に鈍感なだけかもしれませんが(笑)。

──あとは、レベル3のライセンスを残すのみ。そうした中、25歳のときに通訳・翻訳会社を設立します。

佐伯夕利子さんのキャリアグラフ3

会社を設立したのにはふたつの理由がありました。ひとつはビザの問題で、このころに就労ビザを取得する必要が出てきていたこと。そしてもうひとつが、ちょうどこの数年前から、日本からの来訪者がすごく増えていたことです。Jリーグが発足した時期で、サッカー関係者の視察や研修などが盛んに行われていたんです。当時は、サッカーに詳しく、かつスペイン語を操れる人は少なかったので、私のもとに頻繁に相談があり、アルバイトでは済まないほどの報酬を得られるようになっていました。

これ以上は税制面で合法的に報酬をいただくことができないとなったときに、専門家から「それなら会社をつくったほうがいい」とアドバイスをいただいて。3年間やってみてダメだったら潔く辞めればいいという覚悟でスタートしましたが、当時は本当に多くの方がスペインに来られていたので経営自体は順調でした。

──会社を経営しながら、レベル3のライセンス取得に向けた活動にも並行して取り組んでいたんですね。

ええ。ただ、途中で思いもよらない事態に巻き込まれることになります。私は38期生として受講していて、同期が120人ほどいたのですが、あるとき突然、この120人は38期生ではなくて、38期生を選ぶためのトライアルを受けているところだという話になったんです。38期生としての本プログラムに進めるのはこのうちの20人だけだ、と……。さすがにそれはおかしい、生徒側の学ぶ権利を侵害しているということで訴訟になってしまったんです。最終的に生徒側が勝訴したのですが、38期は頓挫してライセンスを取れないままに終わってしまいました。

──まさかの事態ですね。どのような思いで日々を過ごしていたのですか?

訴訟にはかなりの時間がかかりましたし、その間は養成スクールの募集自体もストップしていました。時間だけが過ぎていく中で、「私は本当にレベル3のライセンスを取れるのだろうか」と気持ちが揺れた時期でした。

そのとき、スペイン2部リーグに属するクラブの強化部長から連絡をいただいて。イニエスタ(現・ヴィッセル神戸)を輩出したアルバセテ・バロンピエというクラブで、その強化部長とは以前から懇意にさせていただいていたんです。毎週末、スペイン国内を飛び回っている彼についていき、スカウティングについて学ばせてもらうことになりました。それと同じ時期に、今度は2002年の日韓ワールドカップを控えていたスペイン代表チームから声がかかり、スタッフとして仕事をさせていただきました。

現スペイン代表監督&ライセンス同期のルイス・エンリケ氏と佐伯夕利子さん

W杯スペイン代表(現スペイン代表監督&ライセンス同期のルイス・エンリケ氏と)

困難を乗り越え、ついに女性として初のライセンス・レベル3を取得

──ライセンス取得の見通しが立たない中で、もう日本に帰国してしまおうとは思いませんでしたか?

どのタイミングで日本に帰国するか、という意識は頭のどこかに常にあったとは思います。でも、どんな状態で帰るのかが大事。私にとっては、何も身につけていない、何者にもなっていない状態で日本に帰ることは不安や恐怖でしかなくて、あり得ない選択でした。だから、見通しが立たない状況でも前に進むしかなかったんです。確かに学びの場が提供されていない状況でしたが、それは外的要因によるものであって、私にはどうしようもない。そうした中で、スカウティングを学ぶ機会が得られたのは、自分の学習意欲や知的好奇心を充足させる大事な時間になった思いますね。

──何者かになるには、レベル3のライセンスを取得することが不可欠だった。

そうですね。会社を立ち上げてからは仕事が忙しくなり、多忙さにかまけて、学ぶことが面倒になっていたところもありました。でもワールドカップの仕事がひと山越えたとき、「いまライセンスを取らないと、もう一生取らないな」と思ったんです。そんな危機感に後押しされて、もう一度、レベル3のライセンス取得にチャレンジすることにしました。

1日12時間の集中講座があったり、真夏のグラウンドでの実習で熱中症になったり。最初は40人くらいいた受講生が、最後には20人ちょっとになっていました。それくらい過酷な講習でしたけど、楽しかったですし、3つのレベルの中で一番学びが多い講習だと感じられた。結局、ライセンスを取得できたのは30歳のとき。女性としては初めてということで、ものすごい数の取材を受けました。

ライセンスレベル3を取得した佐伯夕利子さん

念願のライセンスレベル3を取得

──20代の時間の大半をライセンスの取得に捧げたことになりますが、学んでいる段階から、取得後の展望を描けていたのですか?

正直なところ、これで生計を立てていけるというイメージは描けていなかったと思います。スペイン国内におけるサッカー指導者のマーケットは極めて限定的で、指導だけで生計を立てられる人は、1部・2部プロと3部のセミプロチームの監督やコーチなど、おそらく100人くらいでしょう。冷静に考えれば、私がそこに割って入るのは現実的ではない。ただ、それもあとからわかったことであって。ライセンスはいわば通行許可証のようなものですから、「とにかくライセンスを取得しなければ何も始まらない」という一心で突き進んでいました。

しかし、幸運なことに3部リーグのクラブ(ブエルタ・ボニータ)の監督さんから電話をいただき、「助監督を探しているんだけど来ないか?」と。ライセンスを取ったばかりの私にとってはあり得ないようなオファーでしたから、「よろしくお願いします!」と即答しました。

そうやって指導者のキャリアをスタートさせることになったのですが、チームは絶不調。私を呼んでくださった監督さんが解任されてしまい、その後任として、私が監督を務めることになりました。とはいえやはり力不足で、初戦は勝ったものの、その後連敗して解任されました。

──短期間とはいえ、スペイン3部のクラブで、30歳の日本人女性が監督を務めたわけですよね。周囲の反応はどうでしたか?

いきなり連れてこられた女性監督というわけではなく、助監督としてチームに加わっていたので、選手たちはリスペクトを持って接してくれました。私自身、チームをどん底から救い出すことに必死で、外からどう認識されているかということを考えている場合ではありませんでした。ただ、確かに取材の数は半端ではなかったですね。中南米系のメディアから取材を受けたとき、記者の方に「女性監督なんて自分たちの国ではあり得ない。暴動が起こる」と言われて、「やっぱりそういうものなんだな」と思った記憶があります。

オファーに対して常に即決。「私、野生児なので」

──その後、アトレティコ・マドリードの女子U21監督に就任されます。

女子チームからのオファーは毎年いただいていたのですが、私は頑なにお断りし続けていました。そこには私の偏見があったなと反省しています。というのも、私は「レディースのサッカー選手は不真面目。真剣にやっていない」と一方的に決めつけていたんです。それに一度でもレディースチームのオファーを受けることで、「レディースの指導者」というレッテルを貼られるのも嫌でした。だから、どうしても男性チームにこだわっていたんです。

だけど、このときふと冷静に立ち止まって、状況を俯瞰してみたら考えが変わりました。キャリアアップとよく言いますが、私にとってどの方向に進むことが”アップ”なんだろうって考えたんですね。たとえば3部のクラブの次に4部のクラブの監督になったら、それはマイナスなのかといえば、そんなことはない。性別や年代、カテゴリは関係なくて、昨日より今日、今日より明日、より良い指導者になっていることこそがキャリアアップ。そんなことを考えているときにアトレティコからオファーがあり、お受けしたいと即答したんです。

──スペイン移住や3部の助監督のオファーを受けたときもそうでしたが、佐伯さんは常に即断即決。判断のスピードが速いですね。

私、野生児なので直感で生きてるんです(笑)。先日、ある本を読んでいたらこんなことが書いてありました。「直感ほど頼れるものはない。なぜなら、そこには根拠となる経験値や学習が必ずあって、それをうまく認識していないだけだ」と。私はまさにそれ。自分の直感に従うことは大切なんだと考えています。

──佐伯さんの“野生の勘”には根拠があったんですね。アトレティコで3シーズンを過ごしたのち、次はバレンシアでのお仕事が始まります。

佐伯夕利子さんのキャリアグラフ4

バレンシアのスポーツダイレクター*1から声をかけていただき、選手の契約や移籍などを受け持つ強化執行部にセクレタリー*2として加わりました。「こんな機会が私にめぐってくるなんて」という驚きがありましたね。それまで指導者としてのキャリアは積んできましたが、バレンシアではオフィスに入り、交渉のサポートをする。しかも、数億円、数十億円という金額を扱う。不安もありましたが、ワクワクする気持ちのほうが強かったです。マドリードは15年住んだ愛着のある街ですが、すぐにバレンシアに引っ越しました。

でも、2年契約の満了を待たずしてクラブを離れることになります。スペインのサッカー界では、監督と助監督、フィジカルコーチ、ゴールキーパーコーチといった数人がチームとなって、そのチームごと移籍することがよくあるのですが、当時の私も、スポーツダイレクターをトップとするチームの一員でした。そのトップが解任されることになり、私を含むチームごとクラブから去ることになったんです。

──この時期、キャリアグラフが少しだけ下がっていますね。

解任されたこと自体はさほどショックではありませんでした。「私たちの業界ってそういうものだよね」と受け止めていましたからね。ただ、「この世界で生きていくのは難しいな」と感じたのも事実。覚悟を持って引っ越してきたのに、あっけなく終わってしまう。自分の思いだけでは人生が立ち行かないことを痛感した時期でした。

スペインに30年もいて、自分を売り込んだことが一回もない

──でも、その数ヶ月後にはまた新たなオファーが。

振り返ってみると、私は人生の節目で必ず人との出会いがあったなと思いますね。これは私の才能のひとつと言ってもいいかもしれません。

次はどうなるんだろうと不安を感じていたときに、ビジャレアルのCEOの方が連絡をくださったんです。バレンシアとビジャレアルって隣町のクラブで、ライバル関係ということもあり、あまり関係が良くないんです。経営体質も対照的で、バレンシアには課題が多い一方で、ビジャレアルは健全化されていました。それで彼は「バレンシアをクビになったんだって? あんなクラブに行くからだよ」などと冗談を言いつつ「今日の夕方、来れる?」と。

ビジャレアルへ移籍し、チームの仲間と佐伯夕利子さん

ビジャレアルへ移籍

ビジャレアルのスタジアムまで車で行くと、試合が行われていました。ハーフタイムに入ったとき、私の座席に彼が現れ、スタジアム内にある彼の書斎に案内されました。そこで「うちで働く気はないか?」というオファーをいただいたんです。

──どのようなオファーだったのですか?

クラブの社員としての契約でした。仮に指導者としての契約を結んだ場合、指導している時間分だけのパートタイムになってしまう。彼は私が指導者であることをよく理解しつつ、コミットしてほしいからフルタイムで雇いたいと考え、社員契約をオファーしてくれたんです。

当然、オフィスワークをすることになりますが、それ以外の時間はピッチに下りて指導者としてのキャリアを継続できる。私がサッカー界で生き残っていくために最適な、バランスの取れたオファーだったと思いますし、タイミングも含め本当にありがたいものでした。そうして、クラブのフットボール総務部に所属しながら指導や育成を兼任する日々が始まりました。

──そうしたオファーを提示してもらえたのは、自分のどういったスキルが評価されたからだと考えていますか?

特別な能力はまったくないですし、自分でも思い当たることが本当になくて……。3部のクラブの助監督にしてもらったときも、スペイン代表やバレンシアのスタッフとして声をかけてもらったときもそうですが、必ずどなたかが私の前にさっと現れる。だからスペインに30年もいて、履歴書を送って自分から売り込んだことが一回もないんです。

ただ、バレンシアに誘ってくださった方からは「絶大な信頼を置ける」と言われました。サッカー界では内部情報がメディアに漏れたりすることが多いので、私に対しては「絶対にそんなことはしないだろう」と思ってもらえていた。あとは、とにかく必死に真面目にやってきた姿や、日本人特有の勤勉なイメージがプラスの評価につながったのかもしれません。

村井チェアマン、原副理事長、木村専務理事らと佐伯夕利子さん

村井チェアマン、原副理事長、木村専務理事らとともにJリーグ常勤理事を退任

──ビジャレアルに10年以上在籍したのち、2020年にJリーグの常勤理事に就任。2年間の任期を終え、今年3月に退任されました。

当初は日本に住む予定でしたが、新型コロナウイルスが拡大した期間と重なったこともあって、リモートで会議に参加する形が中心になりました。本来の常勤理事としての役目はあまり果たせなかったかもしれませんが、非常に充実した2年間だったと思います。理事の間ではよく「私たち、消防団みたいだったね」という話をするんです。予期せぬぼやがあちこちで発生して、そのたびにホースを引っ張り出して消火活動にあたる、そんな毎日でしたから。一つひとつの課題やハプニングに対し、真摯に向き合って対応できた2年間でした。

──今年4月からはビジャレアルに復職されます。これからの人生をどのように思い描いていますか?

2年前と同じフットボール総務部に戻ることになると思います。またヨーロッパのダイナミズムに飲み込まれながら、慌ただしい日常を過ごしていくことになるでしょう。私は小さなころから計画性のない人間なので、今後の目標や予定はありません。これまでの人生を振り返ってみても、その時々の環境に身を委ね、導かれてきた先に幸せが待っていた。

私は「自分を生きる」というキーワードを大事にしています。人生の分かれ道に来たとき、「自分が好きなこと・やりたいこと」vs.「やったほうがいいらしいこと」という対立構図が生まれることはあると思いますが、社会的に良いとされていることや他者から期待されていることを選んでも、それは「他者を生きる」ことにしかならない。社会にどう思われるかではなく、自分の衝動を尊重することで「自分を生きる」ことができる。

今回、キャリアグラフを描くにあたって、私には「BAD」の時期がなかったことに気づかされました。どんなにキャリアの状態が悪くてもフラット。それは学生のころ、大人の意見や当時の社会状況に従う形で、自分が好きなことを尊重できずにいた時期です。もちろん、当時は子どもでしたし、どうしようもない外的要因に左右された部分もありました。

佐伯夕利子さんが笑顔で話す様子

ただ、サッカーを諦めて他の競技を選んだのは、あくまで自己決定。誰かに強制されたのではなく自分で決めたことだったからこそ、キャリアの状態がマイナスにまで落ちることはなかったんです。そして、このフェーズを経たことで、自分が好きなことを第一に尊重するべきだという判断基準が自分の中で明確になった。

だから、これからの人生は、これまでと同じように、自分が心地いいと感じるほうを選択しながら、その自己決定に対しては潔く覚悟を持って歩んでいきたいなと思っています。

──佐伯さん、ありがとうございました!

取材・文:日比野恭三
編集:野村英之(プレスラボ)

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*1:チームの編成を司る強化部門のトップ。

*2:グループのための秘書。特定の個人に付く秘書とは異なる。組織全体のアシスタント。