迫力満点の妖怪に本物そっくりの動物、生々しい傷跡……そうした造形で映画やドラマを彩るのが、特殊メイクアップアーティスト・江川悦子さんの仕事です。
夫の転勤でロサンゼルスに渡り、映画で見た特殊メイクに感銘を受けて、専門学校に入学。技術を身に付けてからは、さまざまな工房へ積極的にアタックし、『デューン/砂の惑星』『ゴーストバスターズ』などハリウッド映画の制作チームを渡り歩きました。帰国後は自らスタジオを立ち上げ、『ゲゲゲの鬼太郎』『おくりびと』などの制作に参加。日本の特殊メイク界のパイオニアとして、現在まで活動を続けています。
1980年代のハリウッドで日本人がキャリアを築き、未知の仕事を母国に持ち帰って広めていくまでには、苦労も少なくなかったでしょう。しかし、当時を振り返る江川さんは「とにかく楽しかった」「やるしかなかった」と、おちゃめに微笑みます。
自身の手でキャリアを切り拓き、いまなお新しい挑戦をし続ける江川さんに、お話を伺いました。
夫の転勤について渡米。ロサンゼルスでの暮らしがとにかく楽しかった
——江川さんのキャリアの始まりは、雑誌の編集者なんですね。
私の学生時代は雑誌がとても盛り上がっていたから、文化服装学院を卒業したあと、『装苑』の編集部に入りました。まだスタイリストがいなくて、ファッション撮影のお洋服も、編集者が全て用意していた時代です。企画を立てて、プレスを回ってお洋服を集め、コーディネートを組んで、アイロンがけや靴底のシール貼りなんかもやって……とにかく忙しかったですね。
ただ、3年目くらいからはファッション系より、雑誌のうしろの方にあったものづくり系のページに興味がわいてきたんです。ウレタンと布で巨大なバースデーケーキをつくったり、バナナ型の寝袋を縫ってみたり……そういう面白い企画がたくさんあって、いずれはそっちを担当したいと思うようになっていきました。
——『装苑』時代に、特殊メイクに携わるようになる片鱗が見え始めていたんですね。江川さんは、結婚後も仕事を続けていますが、寿退社をする方も多い時代だったのではないでしょうか。
そうですね。でも、私には仕事を辞めて家庭に入るという発想自体がなかったんです。ありがたいことに、夫も会社も同じ考え方でした。いま振り返れば、当時にしては女性が活躍している進んだ職場だったし、夫も理解があったんだなと思います。
夫のアメリカ転勤が決まったときも、先輩たちには「あなたは辞めなくたっていいじゃない。旦那さんにひとりで行ってもらったら?」なんて言われたくらい(笑)。反対に、私の方が「でも、せっかくだからアメリカに住んでみるのも面白いかなと思うんです」なんて言っていました。それで、編集部を辞めて渡米したんです。
——好きだった仕事を手放したのに、キャリアの状態は高い位置にありますね。
アメリカ生活がすごく楽しかったんです! よく晴れて気持ちいいロサンゼルスの気候があまりにも自分に合っていて、第二の故郷だと感じたほど。なんだかすごく解放感がありました。出身は徳島県の狭い町なんですが、教師の両親に育てられて、知らず知らずのうちに「いい子にしていなくちゃ」ってプレッシャーを感じながら大人になったのかもしれませんね。
——渡米後は、どのように過ごしていたんですか?
英語が単語を発するレベルにしかできなかったから、まずはUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)の外郭団体が運営している英会話サークルに入りました。5つほどのテーブルに先生たちがいて、自由に席を選び、会話を楽しむんです。先生が新聞をめくりながら「今日のテーマは、そうね、クッキングにしましょう。このお料理がおいしそうだから」なんて、ラフな雰囲気でした。それから、ゴルフにもハマっていましたね。
だけど、5年くらいしたら夫の転勤で帰国することも分かっていたので、その後の仕事をどうしようかなという悩みはありました。元の職場にはきっと戻れないし、その頃の求人はだいたい30歳までという制限があったから、普通に職探しをするのは難しい。だったら、アメリカでなにかしら技術を身に付けて帰る必要があると考えたんです。また、女性ひとりでも稼いで生きていく力も絶対に必要だと感じていました。
そうして見つけたのが、特殊メイクだったんですね。英語が堪能であれば夫の会社で雇ってもらう選択肢もあったので、英語があまり話せなかったことが、いまとなっては結果的にプラスになったなと思っています(笑)。
特殊メイクとの出会いは“運命”だった? 行動を積み重ねて未来を切り拓く
——特殊メイクに出会ったきっかけは何だったんですか?
英語を学ぼうとたくさん見ていた映画のなかに『狼男アメリカン』というホラーコメディーがあったんです。CGのない時代に、狼男に変身していく特殊メイクを担当していたのが、リック・ベイカーというアーティスト。彼はこの作品で、アメリカのアカデミー賞に設立されたばかりのメイクアップ部門賞を受賞しました。リックの工房がロサンゼルスにあることを知ったときには「私、特殊メイクをやるためにロサンゼルスに来たんだ……!」って、勝手に運命を感じて(笑)。
——とてもポジティブに捉えたんですね!
私、なんでもいい方に考えるんです。それに、特殊メイクはまだ日本にない、全く新しい仕事でした。好奇心の塊みたいな人間だから、未知のことには興味がわくんですよね。
それで、ジョー・ブラスコというアーティストのメイクアップ専門学校に入り、特殊メイクを本格的に学ぶことにしました。説明会に行ったらジョー本人が出てきて、英語が不安だと伝えると「技術は手で覚えるものだから心配ない」と言ってくれました。けれど、専門用語が多くてコミュニケーションにはとても苦労しましたね。しかも、授業は午前中だけしかない。学校の設備は自由に使ってよかったから、午後は自主練にいそしみました。
——特殊メイクの自主練って、どんなことをするんですか?
例えば映画で見た作品を自分でつくってみるんです。狼男とか、自分のライフマスク(※1)をベースにした猿のメイクとか、いろいろやりましたね。あとはUCLAの学生たちが撮っている自主映画に参加したりして、場数を踏んでいきました。
※1:ライフマスク……人間の顔の形を写し取ったマスク
——専門学校で経験を積み、卒業後はどうやって仕事を開拓していったのでしょうか? 異国の地で、経験もほとんどないわけですよね。
そうですね。私がアメリカ人だったら、専門学校で講師をしている方のアシスタントから始める道もあったのですが、あの頃は外国人だとなかなか使ってもらえなくて。だから、現地のメイクアップスタジオにかたっぱしから電話をして、ポートフォリオを持ち込んだんです。同じ境遇だったフランス人の友人と励まし合えたのも、心の支えになりました。
それで、あるメイクアップスタジオのお仕事を手伝わせてもらえるようになったんです。だけどその直後に、アメリカ全土からたくさんの若者が「手伝いたい」と来るようになったんですよね。特殊メイクの需要が高まり始めたんです。あまりにたくさん来るものだから、混む前に入れたのはラッキーだったなって思いました(笑)。
——何もないところから、自分の力でどんどん道を切り拓いていく大変なフェーズだったにもかかわらず、キャリアの状態は高いところをキープ。そこに江川さんの前向きな強さを感じます。
若いときってそんなに落ち込まないから……いや、いまも落ち込まないかな(笑)。とにかく、ロサンゼルスでの暮らしも、好きなことを勉強してスキルを身に付けていくのも、楽しかったんですよね。お仕事を始めてからは、学生時代のように国籍で差別されることもなく、みんな親切にしてくれました。
三度目のアタックで採用された、憧れのリック・ベイカーの工房。チャンスを“次”につなげるには?
——特殊メイクを学びはじめた翌年の1982年(映画公開年は1984年)には、デイヴィッド・リンチ監督の『デューン/砂の惑星』の制作チームにすでに参加しています。
『砂の惑星』で担当した特殊スーツづくりは、学校ではやっていない分野だったので見よう見まねでした。でも、いろいろなパーツを分担してつくるうちに仕組みが分かってきて。「ひとりでも全部つくれそうだな」と思うようになったとき、たまたまチーフが休んでいた日があって、一体まるごとつくらせてもらえたんです。
翌日チーフに見られて、怒られるかと思いきや「日本人って本当に器用だね」と褒めてもらって。私は言われたことを素直に真似るのがうまかったのかもしれません。そのチーフには、『砂の惑星』の撮影が終わったあと『ゴーストバスターズ』の制作チームにも誘っていただきました。
——すごいですね! 次の仕事につながったのは、どうしてだと振り返りますか?
私は周りのアーティストと比べて作業が速かったんですよ。ゆっくりつくる人が多かったから、そのなかでは重宝されたんじゃないかなって思います。
でも、特別難しいことをしていたわけではないんです。例えば、部品にのりをつけたらすぐに貼りつける人が多いのですが、私は半乾きになるまで待ってから貼って、その間に違う作業を進めていました。半乾きになるまで待つのは、その方が強くバシッとくっつくから。結果、その方が速くてきれいに仕上がるんです。効率を考えながら、そういう単純なことの積み重ねをやっていただけです。
——頭を使いながら、単純に見えるけれど大切なことを着実に積み重ねていく……仕事の極意という気がします。
でも基本的には、仕事をいただけるだけでとにかくルンルン気分でした。一つひとつの仕事を丁寧にやりさえすれば、次につながるだろうとも思っていましたしね。
『ゴーストバスターズ』のチームには、以前リック・ベイカーの工房で働いていた人もいて。私もアメリカにいる間にリックと一緒に働きたいという夢があったので、リックの工房に仕事の名目で何度かインタビューをしに行って、自分の作品をついでに見てもらっていました(笑)。
——ここでもまた、行動力がさく裂していますね。
最初は全然ダメでしたけどね。でも、作品を持っていくと、足りない技術に対して具体的にフィードバックしてくれるんです。だから「また作品をつくったら来ますから!」と言って、次回につなげられる。そのあと、私が働いていた工房にリックが見学に来たときには「私、インタビューに行った悦子です! 覚えていますか?」「この作品の仕事が終わったらまたインタビューをしに行きます!」なんて売り込みもしました。
そういえば、家で作品づくりをしていたときに、石膏の型がどうしても開かなくなったことがあって、リックの工房に電話で相談したら「見てあげるから持ってきな」と言われ、助けていただいたこともありましたね(笑)。
——本当に積極的……! ただ、キャリアグラフを見るとその頃お子さんを授かり、産休・育休に入っています。楽しくなってきた仕事を離れることに、ためらいはありませんでしたか?
渡米前に流産を一度経験していたこともあって、授かったら絶対に産もうと決めていたから、そこに迷いはありませんでした。幸い、ひとつのプロジェクトが終わる少し前に妊娠が分かったから、タイミング的にもちょうどよかったですし。
でも、アメリカにいられる期間はあと1~2年しか残っていなかったので、帰国前にもう少し仕事はしたかったんですよね。そんな産後7カ月の頃に声をかけてくれたのが、映画『キャプテンEO』の現場。復帰が決まってから、急いでベビーシッターを探しました。
——その直後には、念願のリック・ベイカーさんの工房で働き始め、キャリアの状態も最高になっています。
三度目の正直で、ようやく採用に至りました。『狼男アメリカン』を見て運命を感じて4年。粘り強くアタックして、なんとかチャンスをいただけたからこそ、いまの私があるんですよね。だからいま、私の会社を訪ねてきてくれる方には、とりあえず会ってみることにしているんです。スタッフがいっぱいですぐに雇えないときでも、またタイミングを見計らって来てくれたら、ご縁があるかもしれない。本気でやりたいと思っている方には、何度でもいらしていただいてかまわないと思っています。
——リック・ベイカーさんの技術が江川さんに受け継がれたように、江川さんの技術もそうして次の世代に伝わっていくんですね。リック・ベイカーさんの工房での経験はいかがでしたか?
人工皮膚に貼る眉やひげなど、毛に関する仕事を主にやっていました。毛を扱うって、とても難しいんです。やわらかくし過ぎて毛が寝てしまうとニセモノっぽいし、毛にはほどよくハリを持たせないといけない。でも、そういう細かい作業は好きだったし、やればやるほど技術も身に付いてきて楽しかったですね。
なにより、リックがすごくおちゃめなんです。普段は2階のデザインルームに閉じこもって作業をしているんだけど、突然ゴリラのマスクをかぶって出てきたりする(笑)。アーティストだしすごく気難しく見えるけれど、本当はみんなを和ませてくれる、とても愛される人でした。
——憧れの環境で働けて、ある意味ではひとつ夢を叶え、区切りがついたように見えます。その頃の江川さんは、今後どうしていくつもりだったのでしょうか。特殊メイクを一生の仕事にしていく決心はありましたか?
そこまでの決意はなかったですね。もうすぐ日本に帰るから日本でもやってみるとして、ダメだったらそのときまた考えよう、くらいの気持ち。ただ、帰国が決まったときにはやっぱり心が揺れました。リックの工房で仕事がいっそう面白くなってきたときだったし、周りにも「もうちょっと残りなよ」と言ってもらえて……でも、家族が離れ離れになることは考えられなかったので、リックの工房を離れて帰国することを選びました。
日本にまだなかった「特殊メイクアップアーティスト」という仕事を、広めていく
——帰国後は、株式会社メイクアップディメンションズを設立。特殊メイクの仕事を続けていくために、まずは自分のスタジオを持ったんですね。
特殊メイクそのものがまだほとんどない日本では、「誰かの工房で働く」という選択肢がなかったんです。フリーランスでもよかったかもしれませんが、会社を立ち上げた方が、大きな仕事を受けたときにも人を集めて対応できると思いました。
なので、まずは拠点づくりから。夫がつながりのあった日活撮影所の方に、特殊メイクのスタジオをつくりたいから場所を貸してほしいと相談してみたんです。その方は「未知の世界なんだよな……」とためらいつつも、最終的には「でも、これから可能性のある仕事かもしれないしね。“実験工房”ということでお貸ししましょう」と言ってくださいました。
——会社経営にとらわれず、作品づくりに集中したい! なんて思うことはなかったのでしょうか。
自分でやるしかないんだからしょうがないですよね。帰国後は全てひとりでやるのが当たり前だったから、負担だとも思っていませんでした。
材料の調達も、ゼロからルートをつくったんですよ。アメリカでは歯科材料(歯の治療に使われる金属など)を使っていたんだけど、日本で卸業者に電話しても「小売業者じゃないと譲れない」なんて言われることもあって、最初はとても大変でした。アメリカで買ってばかりいると送料が莫大にかかるから、日本で手に入るものはなるべく日本で調達できるようにやり方を考えて、交渉して。並行して、売り込みのために日本人向けの作品もつくりました。
——日本人向けの作品?
日本人の顔をベースにした老けメイクなどです。欧米人の顔は凹凸がはっきりしていて、しわやたるみを足しやすいんだけど、日本人の顔は平坦だからしわしわになりにくくて、つくるのも難しいんですよね。
——特殊メイクが日本でも受け入れられるように工夫をしていったんですね! サンプルをつくったことで、仕事の依頼がくるようになりましたか?
日本で特殊メイクをほかにやっている人がほぼいなかったし、「アメリカ帰り」という箔がついていて、ありがたいことに仕事には困りませんでした。制作費が潤沢にある時代で、ハリウッド的な作品がみんな大好きというバブルの時代だったのも大きかったですね。一生懸命に働いているだけで、めずらしさから雑誌やテレビでも取り上げられ、また次の仕事が舞い込み……本当に、始めたタイミングがツイていたと思っています。
——仕事が軌道に乗り始め、さまざまな作品を手がける中で、日本ならではの課題はありましたか?
私は知らないうちにアメリカナイズされていたみたいで、上下関係を大切にするといった日本らしいコミュニケーションの取り方ができなくて怒られることはありました。分からないことはすぐ監督に聞きに行ってしまうもんだから「いや、そういうときはチームリーダーを通して動いてください」「根回しっていうのがあるんだから」なんて、周りに注意されたことも(笑)。そういうお作法は、働きながら少しずつ身に付けていきました。
——確かに、国が違えば現場のルールや文化も違いそうです。ほかにもギャップはありましたか?
一番は、やっぱりスケールの違いでしょうか。当時の日本映画はまだ外国に通用する作品が少なくて、国内でしか収益を見込めないから、アメリカに比べると予算がかなり小さいんです。そうなると、制作期間もグっと短くなりがち。ハリウッドでは半年かけて作業していたことを日本ではたった2カ月でやる、みたいなこともザラにありました。テレビドラマを担当するようになると、さらに強行スケジュールでびっくりしましたよね。でも、まあ昔は若かったので、楽しさの方が勝って頑張れました。
——1980年代の日本では、仕事と家庭の両立にも苦労されたのではないかと思います。
携帯電話がない時代だったから、帰り際にクライアントからオフィスに電話が来てしまうと、保育園のお迎えに響いてしまうんですよね。10分遅れて迎えに行ったら、娘がひとりだけぽつんと座って待っていたりして……。夫は私と二人三脚で子育てをする人でしたが、仕事柄お迎えまではなかなか難しかったんです。ただ、そんなときにはママ同士のネットワークに助けられました。同じクラスのお友達のお母さんに、うちの娘も一緒に連れて帰ってもらって、私はその子のおうちに娘を迎えに行く。周囲の人たちに助けられながら、なんとか両立することができました。
バブル崩壊で仕事がゼロに。でも、たゆまぬ営業と技術の研鑽で、盛り返した
——日本での創業期を駆け抜け、1990年にはパートナーの転勤によって二度目の渡米。ちょうど足場ができてきた頃なのに、またもや思いきりがいいですね。
ここまでの数年間、がむしゃらに働いてきたので、ちょっと仕事から離れたい気持ちもあったんです。人生はまだ先が長いのに、少し休んで仕事がなくなるくらいだったらそもそも向いてなかったんだろう、とも思って。なので、日本で忙し過ぎたぶん、アメリカにいる間は子どもとゆっくり楽しく過ごそうと決めていました。
——ところが、1993年にふたたび帰国したときにはバブル崩壊、キャリアの状態もあまり上がっていません。
せっかく帰国したのに、仕事の依頼がなくなったんですよ。それまでは何もしなくても勝手にオファーが来たけれど、初めて自分から営業をするようになりました。過去にお仕事をした方々に、かたっぱしから電話をかける日々です。
でも「予算がないから特殊メイクは不要」って断られることばかり。1990年代前半は、特殊メイクはまだ「必須のもの」という位置づけではなかった、業界全体が落ち込んでいたから、仕方ないですよね。ただ、会社の収益が目に見えてなくなっていくのはつらかったです。スタッフにお給料を支払って記帳するたびに、通帳の数字が減っていく。「年末までに残高が〇〇円を切ったら、もうこの仕事を辞めよう」と決めました。
──そこまで追い詰められた時期があったんですね。
現場用のミニバンが稼働していなかったから、いっそ私設の宅配サービスでも始めちゃおうかな、なんて考えたりもしましたよ(笑)。でも、そんな時期にも残ってくれたスタッフがいて、営業した方から少しずつ仕事の依頼もいただけるようになって、ギリギリのところで持ち直したんです。いま振り返れば、すごいどん底の期間は半年ほどで、そんなに長くなかったように思います。
──その後はまた少しずつ仕事を増やし、特殊メイクの講師業もスタートされています。
専門学校で講師をしないかとお声がけいただいたときは、技術の切り売りになってしまうんじゃないかと心配したけれど、講師の仕事が本業にもとてもプラスになりました。
まず、基礎に立ち返れるから、自分にとっても学び直しの機会が得られるんです。テキストづくりや講義をきっかけに、素材の扱い方や制作手順のさまざまな部分も改良できました。学校の売りが「現場に直結した学び」だったので、生徒たちには研修として会社の仕事を手伝ってもらったり、教え子をそのまま雇ったりするパターンもありましたね。会社としては安定収入も得られるし、やってよかったと思います。
──2000年代に入ってからは、名だたる邦画に次々と参加し、多くの実績をつくっています。特殊メイク自体が知られていなかった頃から考えると、ものすごい飛躍ですよね。
盲導犬の映画『クイール』ではダミーの盲導犬を制作したんですが、あの作品から「メイクアップディメンションズはリアルな動物もうまい」と評価していただけるようになりました。特殊メイクで「つくる」という意味では、人間も動物も、妖怪もご遺体も一緒です。
──『ゲゲゲの鬼太郎』の妖怪たちや『おくりびと』のご遺体など、メイクアップディメンションズの代表作が多数生まれたのもこの頃ですね。ちなみに最近だと、どんな特殊メイクの依頼が多いんですか?
近ごろ好評を得ているのは、丸坊主や五分刈りといった頭のメイクです。例えば時代劇の中剃りは、昔は羽二重という絹の布地で禿げ部分をつくっていたんですが、それだとしわが寄りやすく、ワイドな禿げ頭なんかはうまくつくれなかった。でも、やわらかいラバー素材で頭ごとつくり込んでしまえば、禿げもきれいに仕上がるし、役者さんはかぶるだけでいいから楽ちんです。
映画を観た方も「あの役者さん、作品のために髪を剃ったんだ!」と思うだけで、誰も特殊メイクだなんて気づきません。
おかげさまでたくさんリピートをいただいているけれど……本当はもっと「いかにも特殊メイク!」というものもつくれるんですよ。そのイメージが消えてしまっていないかな、というのはちょっと心配しているところです。
──江川さん自身がつくっていて楽しいのは、どういうものなんでしょうか。
それはやっぱり「いかにも!」の特殊メイクですよ。坊主頭メイクみたいに「自然に見せる」系のオーダーが続いて、ものづくり欲が満たされないときは、遊びで妖怪をつくったりして発散しています(笑)。
“いかにも”の特殊メイクで、みんなを「すごい!」と驚かせたい
──近頃はデジタルメイクなど、新しい技術も取り入れていますね。ただ、キャリアの状態が下がり気味なのは、どうしてですか?
そこには私の複雑な心境があるのですが……。まず、特殊メイクはどうしても撮影中に崩れてきてしまうから、現場で少しずつ直しを入れるんです。だけど、撮影時間の兼ね合いで十分に調整できなかったときは、あとからCG担当の方が映像をレタッチして直さざるを得ない。そうして直していただいたものを見ても、どうしても細かい部分が気になってしまうんです。
他者に直してもらうことで「自分の仕事だ」と胸を張って言いきれなくなるのもいやだったから、なんとか社内で対応したくて、デジタルメイクを始めました。いまは、社員が得意としているものや意向を尊重しつつ、デジタル専任のスタッフも育てているところです。役者の顔を学習させたAIで若いときの顔を再現する、といったAIメイクなども出てきています。
──アナログにもデジタルにも対応できるメイクアップディメンションズ、とても頼もしいですね。これまでの仕事が評価されて、2015年からは受賞ラッシュも続いています。
日本のアカデミー賞にはメイクアップ部門がないから、なにかしらの賞を取りたいとも取れるとも思っていなかったので、この流れには驚いています。ただ、特殊メイクというものが少しずつ認知されてきた証だと思えば、とてもうれしいですね。
受賞した中だと、文化庁映画賞の映画功労部門では「30年以上この仕事を続けている」「後進の育成にも力を注いでいる」などと、いろいろ審査基準があったそうなんです。自分がそんな基準を満たしていることさえ知らなかったけれど、ありがたい経験でした。
──これまでのキャリアで自らが業界を切り拓いてきましたが、江川さんには「日本の特殊メイクを盛り上げていく」といった使命感のようなものはあったのでしょうか?
ほとんどないですね。アメリカ生活が楽しそうで渡米し、運命を感じて特殊メイクを始めて、でも一生続ける仕事だとも思っていなかった。むしろ、なるがまま、風のそよぐままにここまで来たという感覚が強いです。それでも、リックが私を招いてくれたように、特殊メイクの面白さをこれからも作品や発信を通して伝えていきたいと思っています。
──これからは、どんなことに挑戦していきたいですか?
特殊メイクだと気づかれない特殊メイクには大きな価値があるし、監督が求めるオーダーを打ち返していくことにも、強くやりがいを感じています。でも、“いかにも”の特殊メイクで「すごい!」と言われた方が、実はうれしい(笑)。だから、いまはそういう特殊メイクが存分にできる作品を、自分で企画しているところです。
自由にものづくりがしたいなら、チャンスが与えられるのを待つんじゃなくて、自分で動き出すしかないと思いました。やりたいことを全てやりきって満足したときが、この仕事を卒業するとき。まだまだ未知の余白があると思うので、現在のキャリアの状態も、これからへの期待を込めて伸びしろを残させてください。
取材・文:菅原さくら
撮影:安井信介
編集:野村英之(プレスラボ)