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漁師、水産官僚、そして「魚の伝道師」に。大切なことは、現場にある|魚食普及活動家・上田勝彦の履歴書

全国の漁業、水産関係者から厚い信頼を受ける、「魚の伝道師」こと、上田勝彦さんの履歴を振り返ってもらいました。漁師、水産庁官僚といった、異色のキャリア。軋轢にも折れず、徹底的に現場に向き合ってきた上田さんが大事にしてきたものを聞きました。

上田勝彦さんの履歴書メインカット

上田勝彦さんはつねに現場にいます。
あるときは、漁港で活け締め(神経締め)の技術指導を行い、あるときは料理店やスーパーの厨房で魚の扱いを指南し、あるときはYouTubeから家庭に向けて魚料理の仕組みを伝える。
あらゆる現場に足を運び、漁業、水産、魚食に関わるすべての人に向き合い、上田さんは「魚を食べる意味」を伝え続けています。 「自分の肩書がよくわからない」と上田さんは笑いますが、漁師、水産庁の官僚を経て、魚食文化の普及を独自に行う現在に至るまで、魚や魚食という軸を、一切ぶらすことなく活動を続け、関係者から厚い信頼を得ています。

なぜ、漁師でありながら官僚になったのか。なぜ、官僚でありながら、魚の鮮度保持技術である活け締めの技術普及に努め、カニの茹で方を研究したのか。魚とともに歩み続ける、上田さんのこれまでを振り返ってもらいました。

上田勝彦さんの履歴書画像

学生であり、漁師。「魚と人の暮らし」に向いた興味

活け締めの道具、見てみるかい?

──ぜひお願いします。

活け締め(神経締め)の道具

まず、このフック状のカギかT字スパイクで魚の脳を壊し、脳死状態にして(即殺)から、エラの奥にある太い血管をナイフで切り、海水に入れ血が抜けるのを待つ(放血)。後は眉間からワイヤーを入れて、脊髄を壊す(神経抜き)。脳死後も細胞を分解する物質が分泌されるので、それを防ぐために脊髄を壊し、最後は適切な温度で冷やす(保冷)。

活け締めの前に忘れてはいけないのは、魚をいけすなんかでしっかりと休ませる(活け越し)ことだね。疲れた肉はうま味が落ちてしまっている。だから獲ったばかりの魚を締めるのではなく、1日ほど休ませて、疲労物質が抜けたところで締める。

──活け締めが目的とするものは?

魚のうま味には2つのピークがあって、最初のピークは死後硬直するまでの間。魚が死んでから死後硬直するまでの間にうま味の成分が増してくる。そして、2つめのピークは、死後硬直後、細胞が分解されてくるタイミング。「熟成」なんて呼ばれる段階だけど、最近ではこの熟成された魚を売りにするお店もよく目にするようになったね。

この2つのピークの関係にはある法則があって、1つめのピークの高さと、2つめのピークの高さは比例するんだ。つまり、死後硬直までの時間をできるだけ長くしてやり、うま味を蓄える期間を長くできるほど、魚は美味しくなる。神経締めの大きな目的は、死後硬直までの時間を長くし、魚のうま味を最大化することにあるわけだ。

上田勝彦さんの横顔

上田勝彦さん:1964年島根県生まれ。幼少のころから魚に興味を持ち、釣りと魚の研究三昧の日々を送る。長崎大学水産学部在学中より、シイラ漁船に乗り込み漁師としての活動を始める。大学卒業後は漁師の道に進もうと考えるも、1991年に水産庁に入庁する。その後、瀬戸内海漁業調整事務所勤務、調査捕鯨業務、マグロ漁場開拓業務などの業務を経て、本庁に復帰し、水産物普及業務に邁進する。2015年に退職し、同年「ウエカツ水産」を起業し、現在にいたるまで、「生産」「流通」「小売」「飲食」「家庭の食卓」を柱として、魚食文化普及に尽力する。

──上田さんがその技術を学んだのは水産庁の瀬戸内海漁業調整事務所にお勤めの頃だと聞いています。

そう。明石で活け締めされた魚を食べて、その美味さに衝撃を受けたんだ。どうやったらこんな美味い魚になるんだろう、とね。最初は明石の海が良いからこの味なんだと思っていたんだけど、市場でなにかやっているのを見かけてね。それが、活け締めだった。頼み込んでその技術を教えてもらって、その後、自分なりにその手法を洗練させてみた。漁師さんが自ら実践できるような手法にしたかったんだ。漁師さんが活け締めができれば、自分の手で獲った魚の商品価値を上げられるからね。

──現場仕込みの技術を、さらに現場に伝えよう、と。ただ、上田さんは学生時代、現場というより、水産業や漁業にアカデミックに関わろうと考えていたのですよね。

物心ついたときから、ずっと魚好きでね。高校の時は生物部に入って、魚の研究三昧の日々。魚の生態学や行動学の本を読んでは、いつか自分もこんな研究をしたい、なんて考えていたね。その後、大学(長崎大学水産学部)に入って魚の勉強や研究を続けてたんだけど、大学在学中に漁師として働くようになってから、魚への学究的な興味以上に、「魚と人の暮らし」に興味が湧いてしまったんだ。

──学生時代に漁師もしていたのですか?

友達に誘われて始めたんだけど、まあ、しんどい仕事だよね(笑)。俺がやっていたのはシイラ漁で、夏場の仕事でね。夜中に海に出て、戻ってくるのは夕方。多いときには、7〜8kgの箱で500箱分も獲れるんだけど、それを船上で箱詰めして、港に着いたら、水揚げしなきゃならない。1日中、大変な目にあうわけだ(笑)。でもね、仕事が終わると体はガタガタなんだけど、寝て起きた後には、不思議とまた漁に出たくなっている自分がいる。漁師の仕事が気に入ってしまったんだね。そんなこんなで、漁村に入るようになり、漁師さんたちに鍛えられていくなかで、自然と「魚と人の暮らし」に興味を持つようになったんだ。いまにして思えば、大学で勉強だけしていた自分は、「人」のことなんかなにも分かっていない、浮世離れした子どもだったんだなと思うよ。

「役所の論理」と漁業の現場の狭間で苦闘する

──大学卒業後も漁師として生きていこうと考えていたのですよね。

俺が乗っていた船の船長、岩永さんというんだけど、素晴らしい人格者でね。この船で働き続けられたらいいな、と思ってたよ。ただね、あるとき岩永さんに「せっかく大学出たんだから、中央に行ってこい」と背中を押された。そしてちょうどこの頃、海の様子が変わりつつあることを感じてもいたんだ。

というのも、漁模様がどうにもうまくいかなくなっていた。俺たちがやっていたのは、夏に黒潮にのって北上してくるシイラを狙う漁なんだけど、過去、シイラが来ない夏っていうのはなかったんだよ。ところが1991年ころから、なぜか獲れない年がでてきた。シイラ漁っていうのは安定して漁獲が上がる「安定漁業」と目されていたんだけど、獲れる年、獲れない年が出てくるようになってきたんだ。俺が乗っていたのは9.7tのけっこう大きな船だったんだけど、シイラ漁の先行きを考えると、船の規模を2.5tまで縮小して、他の漁業を考えざるを得ない……そんな判断をしなければならないほど、海が変わりつつあった。

上田勝彦さんが話す様子

──そうした現状を中央に伝えようと、水産庁に入ったのですか?

漁業の現場や現実を伝えよう、と思っていたけど、自分が役人の仕事に向くかどうかはわからなかった。自分の父親も役人だったので、なんとなくその生活は理解していて、早朝から深夜まで誰かに気を遣って、調整ばかりしている仕事なんて自分は嫌だな、と考えていたからね。そもそも、試験対策もまともにやっていない自分なんかが、おいそれと役人になれるとは思っていなかったよ(笑)。

でも、なんの縁か入庁することになって、最初の仕事は漁業保険関連業務だったね。いざ仕事に取り掛かろうと、分厚い法令の参考資料を読み出すと、眠くて3分も目を開けていられない(笑)。本を読むのはすごく好きなんだけど、苦手なものは本当に身に入らないもんだなと思ったよ。

業務はさておき、水産庁に入ったとあれば、誰でもいいから漁業の現場の様子を伝えなきゃいけない。だから、上司でも同僚でも、ことあるごとに漁師が置かれている現状と、海で起きていることを伝え続けた。ずいぶん生意気で始末の悪い新人だなと自分でも思うことはあったけど、同時に「本当に大切なことはなんだ?」とずっと考えていたんだ。“大切なこと”とは、漁業の現実を伝えて、なにか活路を生み出すことであって、上司を前にして萎縮するとか、組織の論理に忠実でいることでは、決してない。

──役所の仕事とは、「こんなふうに仕事をしなければならない」「話をするときは“この順番で”」みたいな圧力が強いものでは、とも感じるのですが。

そりゃあ、そうだろうな。

──そのなかで、ことあるごとに「漁業の現場」を取り上げる上田さんの仕事の仕方は、異端だったのでは。

異端、という人もいたけれど、自分では「王道」だと思っていたよ。漁業が直面する課題の解決のために仕事しているのだからね。役人の仕事とはどうあるべきか、なんてことは若造ながらずっと考えていて、庁内でもいろんな人に聞いてみるんだ。するとある人は「役人とは多くの予算を確保することだ」という。またある人は「指揮命令系統を遵守することが重要だ」という。みんな「役人の仕事」には一家言あるけれど、反面、漁師のことや魚のことはあまりよく分かっていない役人も多いもんだから、水産庁とはなんだか不思議な場所だと思ったよ(笑)。

入庁して1年くらいしたときかな。魚礁設置の案件に関わることがあったんだ。魚礁というのは、海中に設置する魚のアパートみたいなもんだ。そのときに検討されていたのは、魚礁をポツンポツンと碁盤の目のように設置するという、とんでもないものだったんだ。魚礁というのは密集させないと効果がないことが多い。だから思わず上司に「そのやり方では魚はつきませんよ。ただのゴミを沈めるようなもんです。俺はずっと釣りに関わってきたから、魚がつく魚礁の形状はよく分かっています」と言ったんだ。すると上司は「お前、そんなこと証明できるのか?」と怒り出してしまってね。

──なぜ、上司の方は怒ったのでしょうか?

当時、魚礁設置に関する案件では、ある程度の整備面積(魚礁が設置された面積)を稼がなくてはいけなかった。整備面積を出そうとすると、上司が考えていたような、碁盤の目状に魚礁を配置する他なかったんだね。まあ、いってみれば役所の論理だ。入庁して間もない俺は、こうした役所の論理を理解していない。一方の上司は、漁業のことをあまり理解していない。理解していない者同士なもんだから、全然話が前に進んでいかないわけだ。

──「役所の論理」に囲まれて仕事をするのは、上田さんにとって大変なことだったのでは。

不安にはなるよね。自分は王道のつもりで仕事をしていても「もしかしたら、間違っているのは自分のほうなんじゃないか」と。役所の中にいるだけではわからないので、外に出てはいろんな人を対話してみた。飲み屋で隣り合った人とか、店のマスターとか、床屋のおばちゃんとか、社会で生きるいろんな人と会話して、「役人の仕事」への向き合い方を模索していたんだ。水産庁に入って、最初の3年くらいは飲み歩いてばっかりだったよ(笑)。

そんなふうに仕事をしてきたから、水産庁に務めるようになって10年くらいしたころには、「仮に役所が俺の仕事をダメだといっても、この国で生きる人が支持してくれたら、俺はこの仕事を続けられる」とはっきりと思えるようになったんだ。おかしな話だけど、俺は役所の中にいるだけでは、国民のための仕事をしている、という感覚が得られなかった。俺の周りにいた上司や同僚はみんな、朝から夜中までとんでもなく働くんだよ。それでも俺は、自分の仕事が国民に貢献するものだと、最初の10年くらいは感じられなかった。そもそも、ずっと俺は役人をやっちゃいけいない人間なんだと思ってたから。

──“役人をやっちゃいけいない人間”とはどういう意味でしょうか。

どうしようもない矛盾を感じてしまったことがあってね。あるとき水産系の学生に向けて講演する機会があって、聴衆のなかの一人の学生が俺の話に共感して、意欲を持って水産庁に入ってくれたんだ。しかしだ、そんな彼がものの3年で「役所の論理」に巻かれてしまうのを目の当たりにしてしまった。いつのまにか、「役所のやり方が、彼のやり方」になってしまったんだ。挙げ句、仕事で一緒になったその彼は「上田さんも少し大人になったほうがいいですよ」とくるわけだ。意欲ある若者がこんなふうに自分を見失っちまう仕事であることに、虚しさを感じたよ。でも、自分もそんな仕事を飯のタネにしている。矛盾だよね。ここに矛盾を感じるような自分は、役人をやっちゃいけいない人間なんじゃないか、とずっと思っていた。

上田勝彦さんが話す様子2

──では、上田さんが、水産の現場に対して当事者意識を保てたのはなぜでしょうか。役所の論理に従って仕事をしたほうがラクですよね。

もちろん役所の論理に巻かれて仕事をしたほうが、断然ラクなんだろうね。だからね、恐ろしいもんで、気づくと自分も「役人目線」になっているときがある。ゾッとするよ。それでも自分が漁業や水産の現場への意識を失くさずにすんだのは、俺がもともと漁師だったということが影響しているだろうね。仲間の漁師たちの思いみたいなものが、つねに意識にあった。それにね、自分自身、現場の空気を忘れてはならないという考えがあって、週末はいつも漁船に乗って、仲間の漁を手伝ったりしていたからね。漁師としての肌感覚を持っていたいと、いつも思っていたんだ。

現場から現場へ。ベニズワイガニの価値を高めるための仕組みづくりに挑む

──1993年の瀬戸内海漁業調整事務所にはじまり、調査捕鯨やマグロ漁場開拓業務など、現場に直結した仕事が増えていますね。

現場に根ざした仕事を続けていると、誰かが見てくれているもんなんだね。俺は同期の誰よりも現場に出してもらえた。もっとも、上司の誰かに「こいつは本庁に置いていても役に立たないから、現場に出したほうがいいだろう」と思われていた可能性もあるけどね(笑)。そうして最初に出されたのが、瀬戸内海漁業調整事務所。ここで瀬戸内海全域の漁業紛争調整や密猟取り締まりなんかに関わるようになったんだ。瀬戸内海というのは難しい海で、本州、四国、九州の11府県が接しているにもかかわらず、海上での県境は岡山と香川の間にひとつしかないんだね。だから、権利をめぐる紛争も多い。関係する漁港に出向いては、現場の方々と話して解決の糸口を探っていたんだ。もちろん、紛争解決だけでなく、水産資源の管理や環境保全なんかも関係してくるから、漁業だけでない「水産」に対する総合的な視野が得られたのは、瀬戸内海での経験があったからだね。

──2004年には境港漁業調整事務所(鳥取県)で資源管理計画官に就任されています。ここでのお仕事はどのようなものだったのですか。

当時、国が資源回復計画というものを政策として打ち立てていて、この計画を実際に動かしていくのが仕事だね。

──資源回復計画とは減少した水産資源を回復させ、旧来の豊かな漁場を取り戻すための施策ですよね。境港の場合、ベニズワイガニの資源回復計画が組み込まれています。

そう。たとえば、小さいカニは獲らない、みたいな方法があるんだけど、一方の漁師さんたちは、少しでも漁獲を上げてお金に替えたい。こういう意見の食い違いを調整して計画をつくっていくんだけど、漁師さんだって計画に共感する人、しない人、抜け目のない人など、いろんな人がいて、そう簡単なものじゃない。一度話がこじれて信頼関係を失ってしまったら次の話し合いのチャンスはない、という世界だったんだね。かといって、計画を受け入れてもらいたいばかりに、おどおど話にいっても、追い出されて終わり。だから、漁師の世界をよく知る俺は適任だったのだろうし、瀬戸内海での紛争調停の経験も生きた。瀬戸内海でも多くの漁師さんの利害が渦巻くなか、現場の関係者の懐に飛び込んでいく。自分も腹を割りながら、相手の言葉を徹底的に引き出して、落とし所を探してきた。この仕事があったからこそ、境港でも調整の道筋が見つけられたんだと思うよ。

──ただ、境港での上田さんのお仕事は、簡単にいえば、「あまりカニを獲るな」と漁師の方に伝えるという、かなり厄介なものですよね。

そう。「獲る量をこのくらい減らしましょう」「操業日数を減らしましょう」「網の目を大きくして小さいカニを獲らないようにしましょう」とか、極端な場合には「補償金を出すので、船の数を減らしましょう」とかね。いわば、漁師さんに「やせ我慢しろ」というわけだ。ただでさえ魚離れの影響で水産物の価値が低下してしまっているのだから、本来は漁師さんは少しでも多く獲りたいと思っている。にもかかわらず、生活保障もなく「やせ我慢しろ」というのは無理があるよね。

だから俺はね、「国のいう方針は“参考”にしつつ、自分たちにできる方法を一緒に考えよう」と漁師さんに伝えたんだ。過去、漁師さんたちは役人や研究者から「資源のためにはこうする“べき”。漁業の将来のためにはあれをやる“べき”」と言われ続けてきた。しかし、俺からすれば、漁師さんに「べき」と3度も言えばアウト。「もう来るな」と言われてお終いだよ。人の暮らしに対して、よそ者の役人が「べき」と言ったって、聞き入れられるわけがないんだよ。だから俺は「漁業、漁師がサバイブしていくための方法を一緒に考えよう」と伝え続けた。

──その「サバイブしていくための方法」のひとつが、ベニズワイガニの新たな加熱方法の開発だったのでしょうか。そもそも、カニの加熱方法を考える、というのは水産庁職員としての上田さんのミッションだったのですか?

カニを茹でるのがミッションなわけないじゃん(笑)。俺はね、ベニズワイガニの価値がいまのままでは、いくら資源管理のためといえども、漁師さんの“やせ我慢”は続かないと思っていた。だから、ベニズワイガニの価値を上げる方法があれば、漁師さんたちはたくさん獲らなくてもいいんじゃないか、と考えたんだ。ベニズワイガニというのはズワイガニなんかと比べると下に見られていたカニだったんだよ。深海のドロの中に住んでいるからドロ臭い。身が細くて可食部が少ない。味が水っぽい、なんて言われてね。俺はこうした従来の評価が事実なのかどうか検証してみたくなって、市場に行ってカニを買っては、加熱工程を研究してみた。どこに市場からの評価が低い原因があるのかを一つひとつ確認してみたんだ。すると、いろいろ見えてきた。

ベニズワイガニの身が泥臭いのは、漁法に課題があった。カニが入ったカゴを海底から引き上げる際に、どうしてもドロを巻き上げてしまい、カニがそれを吸い込んでしまうから、カニミソもドロ臭くなってしまう。さらにベニズワイガニは深海にいるから、あまり筋肉が必要でなく、どうしても身が細くなってしまう。ただ、これを身の太いズワイガニと同じ茹で方で加熱してしまうから、水っぽくパサパサしてしまうということが分かったんだ。

上田勝彦さんのキッチン

▲上田さんの自宅キッチン。リモートでの魚料理教室もここから配信する。リモートで料理を教えるのは難しいのでは、と聞くと「そんなことないよ。手元をアップで見せられるから、むしろリモートの方がいいかもね」と上田さんは笑う。

──それが、ベニズワイガニの価値を上げる調理法の確立につながったんですね。

それだけじゃないよ。水産物を、ただ獲るだけではいけない。消費の受け皿もつくらないと価格は上がっていかない。だから、茹で方に加えて、レシピもいくつか開発して、「ベニズワイガニを美味しく食べる方法」を、地場のホテルや旅館関係者を集めて伝えていったりもしたんだ。「ズワイ1杯の値段で、ベニズワイなら10杯食える。しかも、このやり方なら美味い」とね。最初はみんな半信半疑だったけれど、徐々にベニズワイガニを使ってくれるようになり、それに比例するように価格も上がってきてくれた。

──漁業だけでなく、地域も巻き込んだ「仕組み」の創出ですね。

境港での仕事は、それまでのすべての経験を総動員して挑んだものといっていいね。そして、そこで仕事をするなかで「魚と人の暮らし」だけでなく、「地域」という視点が得られた。

──いまさらですが、上田さんのキャリグラフを見ると、グラフに上下動はなく、過去から現在に向かってグラデーションが濃くなっていっています。

上田勝彦さんのキャリアグラフ

キャリアって、点と点をつないだ1本の線の上下では表現できないよ。なにかひとつのことだけをやっているわけではないし、どこかで線が分岐するような仕事もやっていて、それが異なる仕事にも影響を与えている。それどころか、一見仕事とは関係のないことでも、過去やってきたことは、全て現在につながっている。だからね、経験が深くなればなるほど、いまが濃密になる。だからグラフはグラデーションで、現在が最も濃くなっている。

食、魚。自然と無関係ではいられるはずがない

──境港での仕事を経て、本庁に戻ってこられていますね。

2009年だね。霞が関に戻ってみると、不思議な感覚があったんだ。なんというか、「国」というものの意味合いが自分なりに見えてきた。かつては、国というものの実像があまり見えていなくて、行政上のひとつの区分のように感じていた。しかし、境港から本庁に帰ってきたら、その見え方が変わった。国というのは、多くの国民の意識が集合した、まるでひとつの人格のように感じられたんだ。では、その人格を持った「日本」はどういったものを食べているか。世界有数の排他的経済水域を持ち、豊かな漁場に恵まれているのに、自分の食べるものをお金を出して海外から買っている。なんとも不自然な状態だよね。本来は、自国が置かれた地理的な環境、そこから「なにをどうやって食べれば、自分たちの手で食料を得られるのか」と食文化が育まれる。こうした流れを先導するのが役人の仕事のはずなんだけど、国民と役人の間には、どこか隔たりがある。金や利権や建て前といったものに邪魔されて、役人は「本当に大切なこと」が見えなくなってはいないだろうか。

──ただ、国の食にまつわる不自然な状態は、上田さん一人の力で変えられるようなサイズの問題ではないですよね。

そうだね。自分ひとりの仕事だけでは、到底足りない。じゃあなにをするかと言ったら、相変わらず役所の外に出て、現場の人と会話して、「本当に大切なこと」を見極めて、実行する。それだけだね。「国」を意識をしたとしても、自分がやるべきことは変わらないんだよ。

一度だけね、大きな組織をつくって、大きな問題にアプローチしようとしたことがある。東日本大震災の影響を受けてしまった水産業復興ために3000人規模の団体「Re-Fish」を立ち上げたんだよ。東北の水産業の流通や消費の受け皿をつくりたかったんだ。もちろん、立ち上がって数年の間は、「復興」という目的のためにうまく機能していたように見えた。でも、その後、全国の漁場復興へと活動を広げていくと、どんどん課題が出てくる。組織内のそこかしこで意見対立が起こって、仲裁のために全国を飛び回らなければならなくなってしまう。とても自分一人の手に負えるものではなく、ましてや役人が片手間でできる仕事ではなくなってしまったわけだ。

だから、「Re-Fish」のようなやり方、つまり自分が旗を振って牽引役になる、というやり方は、いまはやらない。それよりも、自分にできる具体的なことに、一つひとつブレずに対峙していきたいと思っている。


▲全国の料理教室で指導を行うだけでなく、YouTubeを活用した魚料理の指南も行う。収録はもっぱら自宅キッチンだという。

──2015年、水産庁を退職されていますね。

当時はね、執筆依頼とか講演依頼とか、漁師さんへの指導依頼とか、依頼仕事があまりにもたくさんあった時期だったんだ。週の大半は外に出て依頼をこなしつつ、役所の仕事も処理しなければならなくて、だんだんと両立が難しくなってきていた時期だった。

それにね、これは自分の落ち度なんだけど、ある原稿依頼の報酬を庁に報告することを怠っていてね。すると、あるとき上司に呼び出されて、違反を犯したまま、今の部署に置いておけない、と。当時の俺は「水産加工流通課 水産物普及業務特任課長補佐」という役割で、全国から届く依頼に応えていたんだけど、もしも違う部署に異動になってしまったら、困って依頼してきてくれた人たちに応えられなくなってしまう。だったら、水産庁を辞めて、自分の手で依頼してくれるひとたちの力になろう、と思ったんだ。もちろん、一瞬迷ったよ。役所を辞めて、本当に食っていけるのかな、とね(笑)。

でもね、いざ辞めてみたら、依頼は絶えるどころか、むしろ増えていった。役所を辞めてよかったと思うのは、現場にじっくりと向き合えるようになったことだね。たとえば、役人のころは活け締めを教えてくれと依頼されて、現場に赴くと、そこに二度行くのは難しい。役人は全国をまんべんなく指導しなければならないからね。しかし、活け締めでも調理でも、一度教えれば、それでいいわけではないじゃない。ちゃんと技術を身につけるためには、何度も付き合わななければならないからね。役人を辞めてしまえば、自分の意思で、好きな場所に好きなだけ滞在して、現場に向き合えるから、これはいいなと思ったね。ちゃんと自分の仕事ができる。自分が果たすべき責任を負えるようになったんだ。

──「本当に大切なこと」にアプローチするには、独立しかなかったということでしょうか。

いや、水産庁だって、大切なことをたくさんやっているよ。俺はね、水産庁に感謝しかないんだよ。他の組織ではできないような経験をたくさん積ませてくれたからね。批判はすれども、感謝しかない(笑)。ただね、俺にとっての「大切なこと」というのは、水産庁が扱わないような、社会のボトム、この国に生きる人々のなかにある。俺は本気でこの国の水産のことを考えているし、日本の魚を食べる人のことを考えている。そうした姿勢は、水産庁だって違うはずがないんだけれど、いってみれば、俺個人とはアプローチが違ったというわけだ。

──退職と同時に、「ウエカツ水産」を起業されていますね。どんな仕事をしようと考えていたのですか。

起業以降も、いろんな依頼が舞い込んでくるんだけど、あるとき料理店の料理人を指導をしてほしい、と依頼が来てね。それまでに培った魚料理の仕組みを伝えてみると、メキメキと育ってくれた。すると、今度は、あるスーパーマーケットから魚の扱いや売り方を指導してほしい、とくる。もちろん、ずっとやってきた漁師さんへの技術指導もやるし、水産加工品の開発提案も、家庭料理の指導もする。いろいろやっているけど、結局自分の使命はなんだ、と考えると、「生産」「流通」「小売」「飲食」「家庭の食卓」を柱に、そこにかかわる人たちを育成するのが仕事なんじゃないかと最近は思っている。

育成、といっても、俺は「教える」のではなく、仕組みを伝えて相手に気づいてもらう、いわば対話みたいなもんだと思っている。他に適当な言葉がないから、自分がやっているのは育成業です、なんていうと、税理士さんには「そんな仕事はありません」といわれちゃうけどね(笑)。

上田勝彦さんの著作『ウエカツの目からウロコの魚料理』

▲上田さんが著した魚料理の教科書『ウエカツの目からウロコの魚料理』には、レシピはほとんど載っていない。煮る、焼くなどの調理方法が、魚の味わいにどのような影響をもたらすか、といった、料理の「仕組み」に多くのページが割かれている。「仕組みを理解すれば、多くの料理に応用できるし、人にも伝えやすい。俺も料理から仕組みの大事さを学んだんだ」と上田さんはいう。

──本当に一貫して、魚に関わってこられているのですね。

物心ついたときから、ずっと魚に関わってきたからね、魚というのは、いわば俺の人生の背骨みたいなもの。そして、魚を軸に追求し続けた結果、環境とか地域とか人とか、魚を取り巻くいろんな事象にかかわるようになったわけだ。こうした過程は、「この地球で人はどう生きるか」にかかわってきた、と言えるかもしれないね。

──魚と関係のないキャリアや人生を考えたことはないのですか。

人が生きていくうえで、食、魚、つまり自然とは無関係ではいられるはずがないんだよ。俺は仕事するなかで、いつも「諦めと使命感」を感じている。いまいったように、人は自然との関わりから逃れることはできない、という「諦め」がある。では、逃れられない関わりのなかで、人はどのように生きるのが豊かなのか。その方法を考え、実行していくのが、俺にとっての使命感だよ。

上田勝彦さんの笑顔

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撮影:小野奈那子