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型破り出版社「Discover 21」が、逆風からベストセラーを生み出すまで|干場弓子の履歴書

出版社と書店を結ぶ「出版取次」を介さず、全国5000店舗の書店と直取引する、新発想の営業・販促スタイルを武器に成長してきた出版社、ディスカヴァー・トゥエンティワン。設立に携わり、創業35周年を前に取締役社長を退いた干場弓子さんの履歴書を深掘りします。干場さんの歩んできた決して順風満帆には見えない道のりとは。

干場弓子さんの履歴書メインカット

※この記事は2019年12月に取材・撮影した内容です

ディスカヴァー・トゥエンティワンの設立に携わり、30歳で取締役社長に就任。以来経営全般に携わり、自らも編集者として数多くのヒット作を生み出してきた干場弓子(ほしば・ゆみこ/ @hoshibay さん。

自著やさまざまなインタビューで、現代のビジネスシーンにおける当たり前や常識に小気味よく切り込む印象から、私たちは干場さんに“強い女性”を期待してしまいます。しかし、ご自身を振り返り語られたのは、劣等感、焦りに突き動かされてきた来歴でした。

2019年12月下旬、取締役社長を退く直前の干場さんに、キャリアグラフを紐解きつつ、これまでの歩みを聞きました。

干場弓子さんの履歴書

念願だったファッション誌編集部を1年半で退職

──22歳で世界文化社に入社され、『家庭画報』編集部のファッション班に配属されたのですね。キャリアグラフも好調です。

干場弓子さんのキャリアグラフ1

当時は第二次オイルショックの後で、ものすごい就職氷河期だったんです。しかもその時代、一般企業で文系の女性に開かれていたのは、今で言うところの一般職のみ。そんななかでも、男女平等に採用活動をしていたのが出版メディアと公務員でした。

当時は雑誌の全盛期で、もともとファッションが好きだったこともあり、ファッション雑誌では当時一番だった文化出版局と、たまたまくじ引きで学校推薦が当たった世界文化社を受けることにして、結局、世界文化社を選びました。かなりの狭き門だったので、内定をもらったときは大喜びしましたね。しかも配属は、念願の『家庭画報』のファッション班。「やったー!」みたいな。

──干場さんをメディアでお見かけすると、いつもおしゃれな装いをされているなと思っていました。色使いやひとクセあるジュエリーの使い方とか、すごく洗練されていて。昔からファッションがお好きだったんですね。

近くのスーパーに行くにも、帽子やマフラー選びに余念のない両親の下で育ったものですから。『家庭画報』に入って、いいものにたくさん触れることができたこともあって、ますますファッションにのめり込みましたね。

いわゆる「着まわし」とかにはまったく興味はなかったんだけど、デザイナーのスピリットや哲学、細かいディテールが光る職人技や服に込められた女性の生き方、ポリシーみたいなものに魅了されましたね。とはいえ、世界文化社に在籍したのは1年弱だったんですけど。

──この時期に結婚して、世界文化社を退職。配偶者の方の転勤にともない、一緒にアメリカへ行かれました。勇気のいる決断だったのでは?

憧れの職場に入社して「ずっとここで働き続けます!」と宣言しておきながら、辞めちゃったことは、ちょっとダークな歴史かもしれません。当時の役員からはいろいろ嫌味も言われましたよ。「ひとり採用するのにいくらかかると思ってるんだ!」って。でも、辞めることに迷いはあまりなかったんです。

──どうしてですか。

戻ってきたときには別の仕事が見つかるはずだという、根拠のない自信があったんです。むしろアメリカのファッションをこの目で見られるのはチャンスだと捉えていました。当時の『家庭画報』では編集者がフォローすべき業務範囲がすごく広くて、超過酷な職場だったこともあったかもしれません。

モデルをキャスティングして、ロケ場所を決めて、衣装の貸し出しに行って、モデルに服を着せて、原稿を書いて……。月の残業はどう考えても明らかにアウトなラインでしたね。多忙すぎる状況を変えたかった、という思いも、アメリカ行きを後押ししたかもしれません。半年くらいして帰国してからは、『家庭画報』編集長の紹介で別の雑誌社に入社して、ファッションや美容を扱う生活情報誌を作ることになりました。

干場弓子さんプロフィールカット

干場弓子さん:世界文化社『家庭画報』編集部等を経て1985年、株式会社ディスカヴァー・トゥエンティワン設立に参画。2019年12月に退任するまで35年に渡って取締役社長を務める。編集者としても勝間和代さんをはじめとする、多くのビジネス系著者を発掘。グローバル展開にも積極的に取り組み、日本書籍出版協会の理事を務め、国際ブックフェアへの出展を他出版社にも働きかけるなど、世界の出版界における日本コンテンツのプレゼンス向上に努めた。現在も国際出版連合(IPA/International Publoishers Association)の日本代表理事を務める。著書に『楽しくなければ仕事じゃない』(刊:東洋経済新報社)がある。個人サイト:hoshibay.com

30歳で社長になるも、同期との差に募る焦燥感

──そんな頃、干場さんの人生を左右することになる伊藤守さんと出会っていますね。どんなきっかけがあったのでしょうか。

学生時代の友人から紹介されたんです。当時伊藤は社員3人の会社の「青年実業家」。まだ「アントレプレナー」「スタートアップ」「ベンチャー」なんて言葉もなかった時代です。当時、彼はストレスマネジメントの事業を始めようと奮闘していて、出版社も作りたいと。

同じ時期、私はといえば、ある先輩の紹介で2社目の出版社から歴史のある『流行通信』へ転職しようかどうかというタイミングだったんです。でも、転職は結局頓挫してしまった。

──『流行通信』に転職するのはとても魅力的な話に思えますが……。キャリアグラフもどん底ですね。一体何があったのですか?

干場弓子さん横顔

先輩が私のキャリアをかなり盛って社内に共有していたんです。そうしたら『流行通信』のいち編集部員として入社するはずが、新創刊される雑誌の編集長としての椅子を用意して待っている、みたいな話に変わっていて……。当然、そのときの私にはスキル的に無理。

当初の話通り『流行通信』の一編集部員としてならOK、という話に落ち着いたんだけど、「一度ケチがついてしまったところに入社するのはあまりよくない」と周りから止められちゃった。ただ、私の方にも逃げ出した理由はあったんです。実は、私を誘ってくれた先輩に対する劣等感というか、きっとこの人の近くにいたら、一生勝てないな、という感覚があったんです。

──劣等感! 干場さんのイメージからはあまり想像がつきませんね。

そうかもね(笑)。自分の売りはバランス感覚だと思っていたんですよ。何か突出した武器があるわけではないけど、ほどほどに勉強ができて、ほどほどにおしゃれで、遊びもひと通り知っていて、モデルさんやヘアメイクさん、評論家まで、どんな人とでも対等に話せるコミュニケーション能力もあるし、とか。

でも、その先輩は、すべての能力において私より頭ひとつ抜きん出ていた。そこへの嫉妬でしょうね。先輩の下に付くのは最初はよくても、いつかきっとよくない関係になるだろうという予感がありました。だから、新しい挑戦から逃げてしまった。それで結局は転職をせずにくすぶっていた私に、伊藤が目を付けたのかも。

──なるほど。その出会いがきっかけで、30歳という若さでディスカヴァー・トゥエンティワンの社長に就任されたのですね。

創業時の干場さん

創業時の干場さん

社長と言ったって、当時は私1人しか社員はいなかったのですが(笑)。最初にやったのは、伊藤の手がけるストレスマネジメントに関する教材とアセスメント作りでした。いきなり出版社として機能できるわけではなく、教材作りのための翻訳チームを結成し、社会学者や心理学者、医療関係者を集めて問診票を作って。やってみたら案外面白くて、気づいたら4年くらい経っていました。そんな頃に『家庭画報』の同期会に行って、ものすごい焦燥感を覚えたんです。

──キャリアグラフも一気にどん底じゃないですか……。

干場弓子さんのキャリアグラフ2

ショックだったのは、『家庭画報』に残っているメンバーは、私の倍のお給料をもらっていたこと。そして帰るときに、会社の支給だと言ってタクシー券をくれたこと。本当に惨めで……。大変だった『家庭画報』の仕事も、いざ離れてみると、すごく華やかな世界に見えたんです。

それからは、仕事をしていても、ふとした瞬間に「私、何やってるんだろう」みたいな気持ちに襲われるようになってしまって。でも、立ち直りも早いから、伊藤にバーッと愚痴を言って、伊藤が「うんうん、そうだね」と聞いてくれて、なんとなく持ち直しちゃうみたいな感じでした(笑)。

「誰かのために」があってこそ、がんばれる

──干場さんらしさがようやく現れてきたような気がします(笑)。さて、ディスカヴァー・トゥエンティーワンの事業の特徴は、書店に直接書籍を届ける、“直取引”です。書籍の世界では、出版社→取次(出版社から書籍を仕入れ書店に卸す事業者)→書店という流通形態が一般的だと思うのですが、なぜ、直取引というやり方を採ったのでしょうか。

そもそも、小さな、しかも新興の出版社では取次と取引すらできない現実があったんです。取次との取引には信頼と実績が必要ですし、運良く取引できたとしても、実績がないと取引条件が不利になります。

──出版社の規模の大小が関係しているのでしょうか。

問題は、大小ではないんです。むしろ大小ならいいんですよ。大になればいいんだから。ディスカヴァー・トゥエンティーワンにとって、取次の取引条件は決していい条件ではないと感じていたので、既存の仕組みには乗らない直取引を始めました。不利な状況に屈したくなくて、自分たちで道を切り拓いていきたかったんです。

とはいえ、簡単に書店さんと取引できるようになったわけではありません。いまでこそ、直取引も目にするようになってきましたが、私たちが直取引に乗り出したころは、一般的なやり方ではなく、書店さんも戸惑ってしまう。

ようやく念願の出版が始められたのが89年。CDサイズの本『あなたならどうする100の?〜自分を哲学する、究極の質問』が記念すべき第一号でした。そして、その本がじわじわと売れたんです。小さなアパートみたいなところに事務所を置く会社ではあったけれど、きちんと事業として回していける実感が少しずつわいてきて。

1年ほどで軌道に乗り始めたことが感じられたんです。91年に出版した伊藤の著書『この気持ち伝えたい』が大ヒットして、取引書店数も一気に500店を超えました。でも、順調かと思われたそのタイミングで、5人いたスタッフのうち3人が退職するという事態になったんです……。

──一難去ってまた一難、ですね。どんな理由があったのですか?

干場弓子さんの横顔2

うーん、やっぱり先行きに対する不安でしょうね。理由は三者三様で、実家に戻って仕事を探すとか、趣味のバンドに本腰を入れるとか。1人が辞めると言い出した途端に「辞められなくなる前に自分も辞めよう」みたいな感じでバタバタと。正直、私も辞めちゃおうかな、と思いましたよ。

今ならまだ雑誌の世界にも戻れるかもしれない、という考えもありましたし。でも結局、残ると決断してくれたもう1人のために持ちこたえた。「自分のために」という動機だけでは人はがんばれない、「誰かのために」というのがあって初めて、人はがんばれるんだなって気づいた瞬間でした。

当時は、女性は結婚したら家庭に入って、外で仕事をしないことなんて当たり前の時代。自分のためだけにやるのだったら、無理にがんばる必要もなかったわけで。そこから先は、完全に開き直りです。

──いざとなれば辞めてやる、という感じですか?

新卒採用社員を迎えての社内旅行

1997年。初の一般公募の新卒採用社員(左から2人目)を迎えての社内旅行で

そうね。何かを守るために妥協するとか、自分が悪くもないのに人に頭を下げるくらいなら辞めてやる! という気持ちでした。世の中には、後には引けないという極限状態でハングリー精神を発揮できるタイプの経営者もいるけど、私は違う。セーフティネットがあるからこそ力が発揮できるタイプだとそのとき気づきました。

そんな私を「甘い」と批判する人もいましたよ。伊藤の会社に大手人材会社の営業から転職してきた若い女性がそうでした。「私は仕事を取るためなら土下座も厭わない。身体だって使う」とか言っていて。私としてみたら「はあ?」という感じでしたけどね。

そうでもしなければやっていけない世界もあるのかもしれないけど、私はそんなことしなくたって実力で勝負してみせる、と。もともと自己肯定感は強いタイプだったんでしょうね。

幼稚園受験時のストレスを「仕事」に昇華

干場弓子さんのキャリアグラフ3

──その後、伊藤さんの著作で次々にヒットを飛ばし、いよいよ本格的に事業が軌道に乗るわけですが、ライフイベントとしては出産があったんですね。仕事に支障はなかったですか?

なかったですね。当時は年に6冊くらいしか出版していなかったし、CDサイズの本には固定のファンがついていたので出せば売れるという、比較的安定して利益が出るような状況で。育休中には、寝ている子どもの横で読者の失恋にまつわるエピソードを集めた『I miss you』という書籍を編集して、それがまたヒットになって。だから子育てと仕事の両立のストレスはほとんどなかったです。あるとすれば、幼稚園のお受験かな……。

──詳しく教えてください。

子どもを近所の私立幼稚園に通わせたいと思ったたんですけど、そこが実はめちゃくちゃ名門幼稚園だったんです。ただ、そこに通う親子連れがとても上品で素敵で。「いいなあ」と漠然と思っていただけでしたが、通っていた幼児教室のお母さんたちに「あら、干場さま、あの幼稚園は紹介がないとご無理ですのよ」なんて嫌味っぽく言われたりして。

そんな世界があまりに新鮮すぎて、後に『お嬢さまことば速習講座』という本を作っちゃったくらい(笑)。縁あって入園できたんですけど、そこはやっぱりすごい世界で、「士・農・工・商・働くママ」って感じでした。

──働くママに対する差別ということですか?

干場弓子さんの笑顔

差別というより、共稼ぎしないとやっていけない階層の方として見られる感じ。専業主婦のお母さまたちが、唯一認めるのが女性弁護士か医師。「出版社をやっています」と言ったら、「まあ、うらやましいわ。わたくしたちはこの後テニスくらいしか予定がございませんの」という具合。

まあストレスはありつつ、面白がりつつ、子どもが仲間はずれにならないために、適度に付き合いましたけどね。

──事業の方に話は戻りますが、2000年に取引先の取次が倒産し、事業が存続の危機に見舞われるとあります。これは一体どういうことでしょうか。

取引先の取次が倒産する2年前

取引先の取次が倒産する2年前

ディスカヴァー・トゥエンティワンは「直取引」といって、取次(出版社と書店やコンビニをつなぐ流通事業者)を通さず、書店さんと直接取引するビジネスモデルが最大の特徴でしたが、当時、直取引に対する風当たりは強く、取引書店数は1500店から頭打ちになっていました。

そこで、大阪の中小規模の取次会社を経由して、新たに1500店の書店さんと取引できるようアプローチしました。事実上、直取引に近い営業をする方法を新たに採り入れたんです。しかし、その取次さんが年末、突然倒産しちゃったんです。うちの営業部長が年末のご挨拶に行ったら、シャッターが降りていて、その前で社員さんもうろうろしているという。

勝間和代さんとの運命の出会い

──ショッキングな展開ですね……。

すでに納品していた1億円分の年末年始フェア用の書籍だけでなく、翌月からの取引先の半減という事態です。泣き出す社員もいました。

でも、ともかく取引先を確保しなくては、と、お正月の三が日以外は休み返上で全社一丸となって、といっても当時は十数人しか社員はいなかったわけですが、とにかく皆で電話をかけまくりました。直取引してくれないと、ディスカヴァー・トゥエンティワンの本は届けられなくなってしまいます、と。

おかげさまで、冬休みのうちに8割の書店さんが直取引に応じてくださいました。残りの2割も、1年くらいかけてなんとか。そして、売上はなんと翌々月には倍増! 1年後には最初のマイルストーンの年商10億を達成することができました。

──その後、事業は伸びに伸びたという感じだったのですか?

干場弓子さんキャリアグラフ4

事業が成長した背景には、もうひとつ大きな要因がありました。2004年に刊行した「ミリオネーゼ*1」シリーズの大ヒットです。ミリオネーゼシリーズの元になったのは、同時の営業担当の女性が思いついた「女性ビジネス書」という概念でした。今でこそビジネス書って、書店の新刊台に「話題の1冊」みたいに並んでいますけど、当時はカジュアルに読めるビジネス書や自己啓発書ってすごく少なかったんですよ。

本当に堅い経営理論書や、40〜50代くらいの男性のために書かれたような実用本しかなくて。私たちが目指したのは「女性でも気軽に手に取れるようなビジネス書」でした。

とはいえ、急にはいい著者も見つからず、洋書のなかに面白い1冊を発見して、『ミリオネーゼになりませんか?―8ケタ稼ぐ女性に学ぶ7つのビジネスルール』というタイトルをつけて2003年に出版したんです。ここから、本格的な女性ビジネス書を始めました。

──そのタイミングで運命的に出会ったのが勝間和代さんだったんですね。

干場弓子さん笑顔2

勝間さんがブログで、「私の友人がミリオネーゼシリーズの本を出している」と紹介してくれているのを発見したんです。「ミリオネーゼの友達はミリオネーゼ!」とピンときて、連絡を取って会いに行きました。お話するほどに、この人は絶対に著者に向いていると思いましたね。

そして思惑通り2007年、勝間さんの『無理なく続けられる年収10倍アップ時間投資法』がヒットしました。以後、「勝間和代の発掘者」として、私自身もメディアで紹介されるようになったのですが、今でも勝間さんとお会いすると、お互いに「あなたのおかげでここまでやってこられました」と言い合ってますよ(笑)。

「自分と社会の関心ごとが重なる機会」を逃さない

──そして2008年には、山田昌弘さんと白河桃子さんによる共著『婚活時代』が続けざまにヒット作となりました。素朴な疑問なのですが、干場さんはヒットしそうな企画についてどのようにしてアンテナを張っているのですか?

「自分の関心ごと」と「まだギリギリ顕在化されていない社会の関心ごと」、この2つが一致するとヒットになる。これが私の持論です。だからそこをうまく狙う。つまり自分の関心ごとをいかに社会の関心ごとに近づけられるか、それが一番重要だと思います。

もっとも、いつだって自分と社会の関心が重なり合うわけではありません。特に私の場合、まずは“自分の関心ごと”が先に立ってしまうことも多い。雑誌を作る現場にいたこともあって、どうしても社会の半歩先を狙いたくなってしまうからかもしれません。例えば、『パリのマダムに生涯恋愛現役の秘訣を学ぶ』や『人生を美しく生きる女は、服の下から美しい フランス女性に学ぶ大人のランジェリーのすべて』という本は、正直に言って思ったように売れなかった(笑)。

これから先、シニア層が増えていく社会の中で、シニアの女性にもっと豊かに生きてもらいたいと考えて出した本だったのですが、まだ早かったのかもしれません(苦笑)。

──私はその2つのテーマ、気になります。

今の50代女性が、60代の女性を見て「あんなふうに年を重ねたい」と思っているのか、疑問に感じられたんです。そういう人たちに、これから先の人生でも、人間として、女性として楽しいことがまだまだ待っているよ、と伝えたかったんです。きっと、いま50代を生きる彼女たちは潜在的に、そういうメッセージを求めているはずだから。要するに自分が求めているんですね。私自身の願望。「自分のための本」過ぎました(笑)。

──干場さんは著者さんを、どんなふうに発掘されているのですか?

講演会を聴きに行くとか、新たな出会いがありそうなパーティにも面倒くさがらずにできるだけ参加してみるとか。将来的に優れた著者に成長される方もいるかもしれないので、「とにかく接点を持ち続ける」の精神ですね。

実際にお会いしてみて、話が噛み合いにくいと感じた人のことはすぐに諦めるんですけど、最初から本音で話ができる人のことは大事にしますね。個人的にも楽しいし。相手が学生でも年配の方でも、著者候補の方には敬語で接するようにしています。

過去は食べられないから、今と勝負しながら生きていく

干場弓子さんキャリアグラフ5

──キャリアグラフに話を戻します。2000年以降売り上げは順調に推移したものの、2016年には低迷とあります。これは出版不況の煽りということでしょうか。

もちろんそれもありますし、ヒット率も減ってきたということですね。出版業界全体の売上が落ちてきているなかで、ディスカヴァー・トゥエンティワンとしても、新しいことにもっと果敢に挑戦しなくてはならないと思っています。私自身は2019年12月で退任なので、後のことは次期社長にすべて託していますが……。

退任後、個人的にやりたいことはいろいろありますが、残り少ない人生、“私にしかできない”手段で「やりたいこと」を実現したいと考えています。仕事は目的じゃなくて、あくまで手段でしょう? 現段階では手段を決める前に、やりたいことに優先順位をつけるところから始めたいと考えています。

──未来は未定、なのですね。35年間お勤めだったディスカヴァー・トゥエンティワンを退職される感慨についてはいかがですか?

干場弓子さん正面

先日壮行会で、過去を振り返るスライドをみんなが作ってくれたんですけど、全然涙も出てこなくてみんなの期待を裏切っちゃったんです(笑)。そのときに我ながらいいスピーチをしたんです。「過去は食べられません」、これに尽きると思います。

もちろん過去のおかげで今があるし、過去の素晴らしい出会いは私にとってかけがえのないものですよ。だけど、もう終わったことをいくら懐かしんだところで、やっぱり過去は食べられないから。私は、その過去によって成り立った「今」を食べたいし、「これからを」を食べたいんですよ。

皆さん、特に社員にもそうしてもらいたい。社員のみんなはまだまだ若くてこれからなんだから。もちろん寂しい気持ちはあるけど、お互い「Tomorrow is another day」という気持ちで、これからも前向きにやっていきたいですね。

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取材・文:波多野友子
撮影:安井信介
編集:池田園子(プレスラボ)

*1:ディスカヴァー・トゥエンティワンが2004年に提唱した「恋も遊びも仕事も子育ても楽しむおしゃれな女性」という新しい女性像(当時)。「ミリオネーゼ」シリーズ創刊を機に、女性ビジネス書を続々と世に送り出した。