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iモードに絵文字を生んだ男の、やりきる力。やがて絵文字はemojiになった|栗田穣崇の履歴書

「絵文字」を生み出した栗田穣崇さん(株式会社ドワンゴ専務取締役)の履歴書を深掘りします。ドコモの支店の販売員からはじまり、iモード開発やゲーム会社などを経て、“コンテンツサービスの作り手”としてキャリアを重ねてきました。やりたいことを模索しながらも、人から求められたことに応え続ける栗田さんの仕事観に迫ります。

栗田穣崇の履歴書アイキャッチ

※この記事は2019年12月に取材・撮影した内容です

「楽しみにしているねハート」などとテキストに感情を乗せたいとき、当たり前のように「絵文字」が使われるようになりました。

今や、私たちの生活にすっかり馴染んだ絵文字ですが、それを生み出したのが栗田穣崇(くりた・しげたか/ @sigekunさんです。NTTドコモ(旧:エヌ・ティ・ティ移動通信網)に新卒入社した後、異例の社内公募でiモードの開発チームに所属。大きな企業「らしくない」メンバーに囲まれて全力を尽くします。絵文字は、2016年にその世界的な価値が認められ、ニューヨーク近代美術館に収蔵されました。

デザイナーやエンジニアの経験はなく、ましてや「ネットと遭遇したのは、ドコモに入社してから」。その状況からどのようにして、いまや世界のスタンダードとなった絵文字を生み出し、ユーザーを楽しませるサービスの作り手になったのでしょうか。絵文字開発後に歩んだキャリアの全貌とは? キャリアグラフをもとに、さまざまな会社で求められてきた栗田さんの頭の中に迫ります。

栗田穣崇の履歴書アイキャッチ

新入社員の頃は「ネットサーフィンをしているだけ」だった

栗田穣崇さんのキャリアグラフ1

──栗田さんは1995年、現在のNTTドコモ(以下、ドコモ)に入社されました。iモードの開発チームに参加するまで、どのような仕事をされていたんですか?

入社1年目は、千葉にあるドコモの支店の窓口で、当時普及しはじめた「携帯電話」と「ポケベル」を売っていました。窓口で何でも答えられるようにと、自社製品やサービスを使い倒しているうちに、お客さんに分かりやすく説明できるようになりましたね。慌ただしい仕事ながらも、18時半には帰宅して、19時のニュースを見ながら夕飯を食べるルーティンな生活でした。

──新入社員として順調なスタートのように感じます。グラフがいきなりマイナスになっているのは、なぜでしょう?

栗田穣崇さんのキャリアグラフ1

入社後の2年間は、自分のことを「ダメ社員」だと思っていたので(笑)。というのも、2年目からは法人営業になったのですが、仕事といえば支店にあるパソコンを触るだけ。

当時のドコモが進めていたデータ通信事業のために、パソコン通信の担当者に抜擢された……と言えば聞こえはいいのですが、要は「ネットサーフィンをしているだけ」でした(笑)。

──1996年は、前年にWindows95のブームがあったものの、まだ「パソコン」よりも「ワープロ」が使われていたような時代です。当時から、パソコンが得意だったんですか?

いえ、そんなことはありません。僕のほかにパソコンを使えそうな新入社員が支店にいなかったので。単に「難しい機械のことは、若手社員に任せておこう」となっただけです。とはいえ、23歳の僕もパソコンでできるのはゲームとフロッピーの書き込みくらいで、「プロトコル」という単語さえ分かりませんでした。だから、「パソコンを使えるようになるのが仕事」みたいな状態でしたね……。

支店のなかでは「いらない社員」だと思われていただろうし、あのまま何もしなかったら、窓際社員になっていたとも思います。そこからは、ほぼ独学で勉強して、それなりにパソコンやインターネットに詳しくなれましたが。

栗田穣崇さん

栗田穣崇さん:1972年生まれ、岐阜県出身。1995年にNTTドコモ(旧:エヌ・ティ・ティ移動通信網)に入社。1997年4月に、社内公募でゲートウェイビジネス部(その後のiモード事業部)へ配属され、iモードの立ち上げに参画。「絵文字」の生みの親として知られている。2001年からは、モバイルコンテンツのコンサルタントとして、ドコモ・ドットコムにて数多くのサービス立ち上げに携わり、楽天株式会社やぴあ株式会社を経て、株式会社バンダイナムコゲームスに入社。株式会社ドワンゴで執行役員や株式会社カスタムキャスト取締役に就任したのち、2017年からは動画サービス『niconico』の運営代表を務める。2019年2月には株式会社ドワンゴの専務取締役に就任した。

──そのあと、社内公募していたiモード開発チームに応募されたそうですね。

「携帯電話とネットを結びつける仕事」という公募内容を見て、ピンときたんです。携帯電話には将来性を感じていたし、パソコン通信でネットの面白さには気づいていましたから。社内ではネットに関心のある人が少なかったので、これはチャンスだな、と。

誰にも相談せず勢いで動いたので、試験を受けたあとは、直属の上司に「どうして勝手に応募したんだ」と叱られてしまいました。ただ、支店での僕は「パソコンで何かしている謎の新入社員」という位置付けで、エース社員だったわけではない。そのおかげで上司に引き止められることもなく、iモード開発チームには、わりとすんなり異動できたわけです(笑)。

新入社員の栗田さん

新入社員時代の栗田さん(右端)。

彼女とのやり取りで、「絵文字」の便利さに気づいた

──1997年に配属されたiモード開発チームでは、どんな仕事を任されたのですか?

「iモード」という名称の選定から、携帯端末やiモードメールの仕様決め、取扱説明書やパンフレットの作成と、「iモード」と名のつく仕事はほとんどやりましたね。ただ、もともとサービス開発の経験があったわけではありません。何も分からないままただ必死に、やらなければならない仕事をこなしていただけです。

今振り返ってみると、あれは本当にワクワクするプロジェクトでした。ただ、当時はリリースまで2年間しかなくて、目の前には山のように仕事が積まれ、「もう、やるしかない!」という状況だったんです。家に2〜3日帰れないことだってよくありました。今までの人生のなかで一番長い時間働いていたんじゃないかな、と。

──グラフはフラットになっていますが、膨大な仕事量を「つらい」とは思わなかったのでしょうか?

栗田穣崇さんのキャリアグラフ

思いませんでした。アイディアを形にするやりがいがあったし、20代半ばで体力もありましたから。上司だった榎啓一*1、松永真理*2、夏野剛*3もよく面倒を見てくれました。

ドコモという大企業でありながらも、僕がいたのはたった7人から始まった、ベンチャーのような雰囲気のチームです。だから、上司と面と向かって議論する土壌がありました。

iモード開発チーム時代の栗田さん

iモード開発チーム時代の栗田さん(写真右から2人目)。上司の夏野剛さん(中央)と。

絵文字開発についても、僕が「絵文字の機能を入れてほしい」と提案したら、真理さんから「いいんじゃない。じゃあ、栗ちゃんが担当して」と言われて始まったんですよ。ただ、iモードは絵文字がなくても成立するサービスではあったので、空いた時間でどんな絵文字を入れるべきか考えることになって……。最終的には、企画を担当することになった僕ひとりで、10日間で絵文字の候補をリストアップし、1週間でデザインラフをつくるなどして、およそ1か月間で約200個の絵文字を考えたんです。

──あの絵文字は、たった1か月で生まれたんですね! そもそも、絵文字の機能を入れようと考えたのはなぜでしょう?

別に流行らせたかったわけじゃなく、単純に20代の僕が「使いたいな」と思ったからです。絵文字の便利さについては、当時付き合っていた彼女とのポケベルでのやり取りから、「感情が伝わりにくい短文でも、語尾に『ハート』がつけばポジティブな印象になる」と実感していたんです。

それに、iモードの開発中に頭を悩ませていた問題が、絵文字で解決できました。発端は、メールの文字数制限です。当時、iモードのメールは全角250文字しか送受信できない仕様で開発を進めていました。ある競合サービスは全角1000文字以上のメールを送受信できたため、単純に文字数で比較するとiモードが劣っていました。だからこそ、機能面で何かひと工夫して、ユーザーさんを楽しませる方法を模索していた。そのとき、「ハートマーク事件」が起こったんです。

──「ハートマーク事件」といえば、ドコモが1998年に発売したポケベル「インフォネクスト」の文字セットから「ハート」を外したことで、大量のドコモユーザーが競合他社(東京テレメッセージ)の「ハート」が使えるポケベルに乗り換えてしまった一件ですよね。

そうですね。それによって、ユーザーさんが抱える絵文字ニーズが見て取れ、これはきっとiモードの魅力になると思えたんです。

しかも、絵文字であれば「モノクロ液晶」かつ「画像ファイルを表示できない」という、初期のiモードの環境でも実現できる。狭い液晶の中での表現力も上がる。我ながらよいアイディアだな、と。

ニューヨーク近代美術館(MoMA)に収蔵された絵文字

©️NTT DOCOMO, INC.ニューヨーク近代美術館(MoMA)に収蔵された絵文字
栗田さんが制作したドコモの絵文字。こちらの写真ではカラーだが、iモードがリリースされた当時はモノクロでしか表現できなかった。

──たしかにそうですね。絵文字の種類については、どのように決めたのでしょうか。

僕が使ってみたいものだけではなく、高校生に「何の絵文字を使いたい?」とグループインタビューをして、客観的な意見を取り入れましたね。

──最初に完成したのは?

ハート(傘)」です。これをデザインして携帯の液晶で見たとき、「モノクロでも意外とちゃんと見えるな。想像よりも良い出来になったぞ」と手応えを感じました。

1999年にとうとうiモードがリリースされ、絵文字はキラーコンテンツのひとつとなりました。ユーザーから「絵文字を使いたいからキャリアはドコモを選ぶ」と聞いたときは、「作ってよかった」と心から思いましたね。

iモードをリリースしたら、「違う忙しさ」が待っていた

──iモードをリリースしたあと、グラフがさらに上昇していますね。

栗田穣崇さんのキャリアグラフ

iモードがブームになるのに伴い、自分の仕事も裁量も増えていき、仕事がどんどん面白くなっていったからです。リリース後は、忙しさから解放されるかと思いきや、また違う忙しさが待っていました。リリース後の1年半は、多くのユーザーを抱えるiモードに参入したい企業さんから持ち込まれるコンテンツの企画書を見て、サービスを立ち上げるお手伝いをする日々です。毎日、8社くらいの企画書を見ていたので、まるで「企画書1000本ノック」をしているような気分でしたね。

──そのあと、2000年にはドコモ・ドットコムに出向されています。ここは何をする会社だったのでしょうか?

iモードにコンテンツを提供する会社をコンサルティングする会社でした。上司の夏野いわく、「栗田のために作った」そうです(笑)。当時は「iモード上で会員数を増やす」といったノウハウを持つ会社がほとんどありませんでした。iモードの開発に一から携わり、さまざまなジャンルのコンテンツサービスに関わっていた当時の僕には、iモードユーザーが何を求めて、何に喜ぶのか知見がありました。そこで、iモードに参入したいという会社に僕自身がコンサルし、ドコモの審査を通過してリリース後も会員数が増えるようサポートしました。あらゆる企業と協業できましたし、僕自身が欲しいと思えるさまざまなサービスを実現して、世の中に届けられましたね。

今につながる人脈が生まれたのも、このときです。KADOKAWAとはiモード関連の雑誌を作りましたし、2001年にはドワンゴの川上量生(元代表取締役社長)に声をかけられて、着メロサイト『いろメロミックス』の立ち上げを手伝っています。

栗田穣崇さん

──過去のインタビューで、iモードはインフラ会社であるドコモにコンテンツサービスの視点を持ち込んだ「亜流の文化」だったと述べられていたのが印象的でした。いわば「亜流」のサービスは、なぜ成功できたのでしょうか。

僕も上司も「本流」のエリート社員ではなかったのが良かったのかもしれません。僕は新卒社員でありながら社内公募でチームに入り、その後もスーツだらけの社員の中、私服で通勤するようになったりと自由に働いていたので、決して出世していくような本流の社員ではなかったと思います。一方の夏野や真理さんといった上司もまた、ドコモの生え抜き社員ではありません。亜流だからこそ、会社の都合やしがらみに囚われることなく自由な発想をiモードの開発に持ち込めたのだとも思います。

現在のiPhoneに入っている機能の多くは、2000年前半、すでにiモードのなかで構想されていました。あのときの夏野がその後も自由にサービスを開発できていたら……。タラレバの話になってしまいますが、今頃ドコモがスマートフォン市場をリードし、スティーブ・ジョブズのような立場に夏野がなっていた、なんてこともあり得たのかもしれません。

──その後ドコモを離れ、2004年には楽天オークションに出向されています。

これ、ひどい話なんですよ(笑)。いきなり夏野からご飯に誘われ、そんなことめったにないので、「怪しいな」と思ったんです。そしたら案の定、「お前、楽天に行かないか?」と……。

僕としては、携わるコンテンツが次々とヒットし、プレイヤーとして働くのが楽しくて仕方がない時期でした。楽天は当時エンタメ系コンテンツを扱っていなかったうえに体育会系の会社だと思っていたので、「僕にはノリが合わないだろう」と、その場では返事を保留したんです。それなのに次の日、夏野に会議室に呼ばれて行ってみたら三木谷浩史社長がいて、夏野に「こいつ、行かせますんで」と言われました。それで出向が決定したという(笑)。

ただ結果的には、ドコモとはまた違った体質の会社で、大勢の若いメンバーと一緒に働けてよかったな、と。ディレクターとして『楽天オークション』の立ち上げにゼロからチャレンジできたのですから。

──そして、2年後の2006年にはドコモに帰任されました。グラフの数値がゼロに戻っていますね。

栗田穣崇さんのキャリアグラフ

課長として帰ってきましたが、ドコモが想像とは違う組織になっていたのが、その原因です。当時流行りの『着うた』や動画コンテンツを担当できたので、決して仕事がつまらなかったわけではありません。ただ、iモードの拡大に伴って組織が硬直化して「ルールを守ること」が目的となり、以前よりも融通がきかない状態になっていました。自分が過去に決めた「サービスのメニューリスト」さえも簡単には変更できず、「いや、その変更ルールを決めたのは、そもそも僕なんだけど……」と思うこともあって(笑)。夏野も辞めてしまいましたが、会社の都合やしがらみが優先される組織になってしまっていたんですよね。それに部下をマネジメントする立場だったものの、いち課長としては関われる範囲や権限が狭く、新しいチャレンジができませんでした。

今後のキャリアを考えはじめたとき、ぴあの取締役にもなっていた夏野から「もうさ、お前、ドコモ辞めようよ。ぴあに来てくれ」と声がかかりました。元ボスに言われたら逆らえませんよね。だから、「あ、はい」と(笑)。自分としてもちょうどいいタイミングでしたね。

ドコモ退職直前の栗田さん

2009年、NTTドコモ退職直前の栗田さん。

「1年目で黒字にして」。窮地に立たされた結果……

──2009年に入社した「ぴあ」では、どのような仕事をされていたんですか?

プレイヤーとしても動きながら、1年半ほど、チケット販売サイト『チケットぴあ』のリニューアルに携わりました。サイトのUI・UXを改善して、使いやすいサイトにしたんです。やりがいはありましたが、「やっぱりエンタメのコンテンツ作りが好きだ」と実感しましたね。だから、グラフはそこまで上昇していません。

──「コンテンツ作りが好きだ」と改めて思ったのは、なぜでしょうか?

ぴあで流通事業に関わるうちに、エンタメのコンテンツ作りの方が自分にとってはモチベーションが上がるなと思ったのです。もちろん、これは「流通とコンテンツ作り、どちらが優れているか」という話ではなく、僕の志向の問題です。同じ商材を扱う以上は価格優位性がものを言う、つまり安さこそが最大の武器となる流通事業に対し、コンテンツ事業は作り出した商品に価値があれば、価格が高くても買ってくれる人がいる。自分が手掛けた商品の価値が見えやすいんです。そのビジネス構造が面白いなと思っています。

そんなとき、今度はバンダイの社外取締役をしていた真理さんから「バンダイナムコゲームス(現:バンダイナムコエンターテインメント)を手伝ってほしい」と声をかけてもらって。新しいチャレンジがしたいと考え、2011年に3年間の契約で引き受けました。

──バンダイナムコへの転職後はグラフが上昇して、そのあと急降下していますね。

栗田穣崇さんのキャリアグラフ

グラフが上昇したのは、任されたプロジェクトの規模が大きくて、やりがいを感じたからです。億単位の開発費をかけて、プラットフォーム上にアニメなどのコンテンツを載せるサービスを開発することになり、部下を公募したりもしました。

ただ、そのプロジェクトが、2012年にピンチに陥ったんです。一般的に、コンテンツプラットフォームは収益化までの道のりが長いのですが、会社側から突然「1年目で黒字にしてほしい」と求められまして……。そのほかにもさまざまな課題があり、ビジネスの難しさを実感しました。

結局、プラットフォームの方向性を、決済・アカウント管理に変えることで、会社から与えられた課題をなんとかクリアしました。こうして生まれたのが、今もサービスが継続している『バンダイナムコID』*4です。

──プロジェクトをあるべき姿に着地させたあと、2015年にドワンゴに転職されたんですね。

そうです。以前から、ブランディングなどリターンが保証されない部分にも思いきって投資するドワンゴの社風に、面白さを感じていました。川上から声をかけられ、執行役員として入社しています。

ただ、これまでの出向や就任と違い、入社時点では自分が何をするかまだ決まっていなくて。任された企画をある程度形にしましたが、それを川上が「僕がやるわ」と持っていってしまった。「あれ、じゃあ僕は何をすればいいんだ?」となった(笑)。ですから、グラフはそこまで上がっていません。その後は企画本部長を任され、主に川上のやりたいことをサポートしていました。

──そんな中、2016年に絵文字がニューヨーク近代美術館に収蔵され、世界的にもその価値が認められました。

栗田穣崇さんのキャリアグラフ

自分の仕事を歴史に残すことができて、うれしかったです。ただ、収蔵を狙って開発したわけではないし、「本当にご褒美をいただけた」という感覚なので、グラフの数値は高くありません。そもそも、人生のピークを自分で決めたくないんですよね。最高潮を経験したら、あとはピークアウトするしかなくなりますから。だから僕の理想は、何度でも目指しやすい「MAXまでいかないけどGOODな状態」なんです。

ニューヨーク近代美術館にて

2016年、ニューヨーク近代美術館にて。

「やりたいこと」を独りよがりで終わらせないために

──この頃、川上さんのサポートという立場で「niconico」(2012年にサービス総称を「ニコニコ動画」から改名)の運営にも携わっておられたと思います。しかし、2017年11月に開催された、新しいバージョン「niconico(く)」の発表会は、画質や読み込み速度が改善されていない、とユーザーから批判が相次ぎ、炎上状態となりました。その翌月、「niconico」の運営責任者に就任しています。

栗田穣崇さんのキャリアグラフ3

サービスのことで、ユーザーからこれだけのネガティブな気持ちを受け取ったのは、初めての経験です。発表会の壇上に立っているときは、「今後どのようなリアクションを取って進むべきか」の想像がつきませんでした。もちろん全て我々の責任ですが、精神的には来るものがありましたね……。

ただ同時に、人生の大きな転機にもなったんです。発表会のあとは、有志の社員といっしょに、Twitterに寄せられたユーザーの意見を取りまとめたり、謝罪してユーザーと意見交換するために「運営生放送」を配信したりもしました。

そのようにして「ユーザーとの対話重視の運営」を目指し、川上が退いた“運営の顔”のポジションに就くことで「自分がniconicoを守っていくんだ」と改めて決意できましたから。

今のniconicoは、ユーザーの要望を受け入れながら改善を繰り返している状態です。ユーザーアンケートの評価は上がってきていて、赤字だった経営状況は2019年9月時点で黒字に転換しています*5

──だから、グラフの数値が上昇しているんですね。

栗田穣崇さんのキャリアグラフ3

はい、雰囲気がよくなってきたいまのniconicoの良さを、もっと打ち出していきたいですね。僕もTwitterでユーザーと直接やりとりしていますが、niconicoの魅力は、ユーザーと運営の“距離の近さ”だと思っています。niconicoならではの強みを活かしながら、生き残っていきたいですね。

だからこそ、ドワンゴの社員にはユーザーの声を聞いた上で、「niconicoをこうしていきたい」「こんな企画があったらいいな」という考えを自ら持ってもらっています。大きな組織のなかでも、社員が自分たちの力でやりたいことを推進し、成功できる環境をつくっていきたい。それはiモード開発時代、リーダーの榎さんが僕にしてくれたことでもありますから。

──プレイヤー時代に経験したことを、次世代のプレイヤーにも経験させたいと考えているのですね。

20代に積んだ成功体験は、その後のキャリア形成に影響すると思っているので。今後、自分のグラフが上がるとしたら、次世代のプレイヤーの活躍を支えられるマネジメントができた時でしょう。やはり現場のプレイヤーの仕事が一番楽しいので、そこは次世代に委譲していくべきだなと。

それに、人から頼まれたことに、これからも応えつづけていきたいんです。自分のしたいことって、それが得意なのかどうか主観でしかわからないし、「やりたいからやる」だけだと独りよがりになりがちですよね。一方、人から頼まれるのは「君にはこれが向いている」と客観的に判断されたことです。そこにチャンスがある。

だからこそ、これまで転職したときも、夏野や真理さん、川上から頼まれたことに応えようとしてきました。もちろん、仕事ではモチベーションを保つ必要があるので、その2つが一致するに越したことはないんですけど。

栗田穣崇さん

──栗田さんにとってのiモード開発は、まさにその2つが組み合わさっていましたね。

そうなんです。あのときの僕は、自分にiモードを開発できるかどうかなんて、わからなかった。ただ、「ネットってなんて楽しいんだ!」と思って、それを仕事にしたかっただけ。その僕に上司が仕事を任せてくれたおかげで、今があります。

あのときに感じた「ネットの面白さ」を、若い人たちにも体験してほしくて。今って狭いコミュニティの中に閉じこもりがちだし、そこで発言するのも窮屈になってきていますよね。でも、本来のネットって、もっとオープンだったはずなんです。年齢も立場も関係なく、みんなが匿名で同じコミュニティに属して、ワイワイできるのが楽しい。そういう場所のひとつとして、niconicoをずっと残していきたいですね。

そのためにも、niconicoのことが好きな社員には、ユーザーと一緒に「これからのniconico」をつくっていってほしい。マネジメントする立場として、それをサポートすることが、これからの僕に課せられた仕事です。

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取材・文:流石香織
編集:ノオト
撮影:栃久保誠

*1:iモード開発チームの総責任者。NTTドコモの法人営業部長だったが、社長に命じられ、iモードプロジェクトを企画、牽引した。

*2:元ゲートウェイビジネス部 企画室長。リクルートで『就職ジャーナル』『とらばーゆ』の編集長を経て、iモード開発チームに参画した。バンダイやロート製薬、セイコーエプソンなどの社外取締役を歴任。

*3:元NTTドコモ執行役員・マルチメディアサービス部長。現在は、株式会社ドワンゴの代表取締役社長。

*4:1つのアカウントで、バンダイナムコグループ各社が展開するコンテンツを楽しめるサービス。

*5:2019年第2四半期(4〜9月)の連結決算では、「niconico」を含むWebサービス事業が前年の赤字から15億9100万円の黒字へと転換した。