※この記事は2020年1月に取材・撮影した内容です
「教科書には出てこない課題が山積みだった」
自らのキャリアをそう振り返ったのは、星野リゾート代表の星野佳路(ほしの・よしはる/ @skier1960 )さん。大学院で経営学を修めた理論家、という一般的なイメージからは想像できない一言かもしれません。
破綻した数々のリゾート施設を再生させてきた経営手腕が評価され、ついた渾名は「リゾート再生請負人」。今や、日本発のラグジュアリーホテル「星のや」に上質な温泉旅館「界」など、圧倒的な知名度のホテルブランドを率いています。
そんな“ホテル業界の革命児”も、これまでのキャリアは試行錯誤の連続でした。
家業にもかかわらず、副社長職を解雇された過去。その後も、不良債権案件の引き受け、未曾有の震災に直面するなど、想像を絶する困難が続きました。そんなピンチの中でも常にチャンスを見い出し続け、「教科書には出てこない課題」と向き合ってきたバイタリティの秘密は何でしょうか。キャリアグラフをもとに、自身のルーツも交えて振り返っていただきました。
元々の星野温泉を引き継いでいこうとは、全く思わなかった
──星野さんのキャリアグラフは、家業である星野温泉の代表取締役社長に就任した1991年からスタートしています。
そうですね。91年から今まで、代表として仕事をしているという意味では、ここがスタートです。
ただ、自分自身のキャリアは、89年に始まったという感覚はあります。大学院を卒業した後に星野温泉へ入社し、1年後には解雇されて退社するなど色々ありましたが、副社長として仕事をしていたためです。
副社長だった当時は、親族が株主の大半を占めており、何をするにも親族の説得が必要でした。さぞかし大変だったでしょうと言われますが、実はあまり気にしていなかったですね。(当時社長だった)父親や親族の存在は、経営を考えるうえで、私にとってはさほど影響を与えるものではなかった。
──とはいえ、子どもの頃から世話になってきた親族に耳の痛いことを言うのは、大変難しいように思いますが......。
父親や親族のことを特別視しないというのは、学生時代の経験に拠るものが大きいかもしれません。
アイスホッケーの選手として学生選抜に入ったり海外大会に出場したりと、充実した選手生活を送っていたのですが、大学を卒業するとき、「家業を継ぐから」と、やめたんです。
それまでは、「アイスホッケーが上手い」ということが自身の大事なアイデンティティだったのですが、それを失ってしまった。
転機は大学院時代でした。周りから「後継ぎ」と言われることが嫌で、海外の大学院に進んだのですが、そこで色々な人との出会いや学びを通じて、「経営者」という生き方は、自分の新たなアイデンティティになるかもしれない、と思えました。「優秀なアイスホッケー選手になること」と「優秀な経営者になること」は、実は同じではないかと気づいたんです。
アスリートならば、毎日筋トレをして走り込んで、チームワークを磨きます。こうしたパフォーマンス向上のプロセスはまさに、優秀な経営者になるプロセスと同じだ、と考えました。自分は「後継ぎ」ではなく「優秀な経営者」になるんだと、心が決まったタイミングでした。
優秀な経営者ならば、言うべきことを言う、やるべきことをやるのは当然のことです。それは「後継ぎ」として良くも悪くも親族と一心同体になることとは違う。だから、こんな言い方は良くないかもしれませんが、元々の星野温泉を引き継いでいこうという発想は、全くなかった。
結果、会社の方針をめぐって父親と対立し解雇という形にはなったのですが、私の中では、経営者として当然の行動をとってきたという自負があったので、ある意味では納得しました。
──91年に話を戻すと、スタート時の状態は最も低い-5ですね。理由は何でしょうか?
当時はとにかく、働いてくれる人がいなかった。人材採用で悩み続けていたからです。今でも忘れませんが、社長就任後、信濃毎日新聞に出した最初の求人広告への応募はゼロでした。理由として考えられたのは、軽井沢近辺には大手企業の工場がいくつもあり、そうした工場での仕事は、週末はしっかり休みが確保され、福利厚生も充実しています。さらに時給も高かった。待遇面で比較すると、観光産業は、なに一つ太刀打ちできない状況だったんです。
奇跡的に興味を持って施設見学に来てくれた方に、「こんなボロボロの旅館で働きたくない」と直接言われたこともあります。そもそも興味を持ってもらいにくい求人で、そのうえ施設に魅力がないのですから、働きたいと思ってもらえるわけがない。さらに、給料を上げられるわけでも施設を改装できるわけでもない。悪循環でした。
私は、コーネル大学のホテル経営大学院で経営学を学んだつもりでいましたが、実際の経営の現場は、教科書には出てこない課題が山積みでした。マネジメントの授業では、人材にどう接しどう評価するべきかを学びますが、私の場合は、そもそも接する相手がいない。どう採用するかから始めないといけなかったのです。
──採用にも施設にも、お金をかけられない。でも人が必要という中で、結局、何をアピールされたんですか?
「リゾート運営の達人になる」という私たちのビジョンです。私が示せるものは、ビジョンだけでした。目指しているものに真っ直ぐ進む。それ以外のことは一切やらない。そして、ビジョンに共感して飛び込んできてくれた人たちのことは、絶対に残ってもらうぞという気持ちでした(笑)。
当時はプライベートの時間を削って毎日のように若い社員と食事に行ったりカラオケに行ったりしていました。新卒採用で一番多かった応募理由が「(東京の)実家を出たい」だったからです。軽井沢には若い人が遊ぶところはほぼなかったし、(彼ら彼女らが)寂しくて都会に帰りたくなるだろうと想像できたので気をつけました。少しでも、社員のみんなの寂しさを解消してあげたかったんです。
戦国時代にこそ逆転は起こる。守りに入っちゃ「達人」になれない
──その後の10年間、ホテルブレストンコートの開業、ヤッホーブルーイングの設立など、様々な挑戦が続きますが、グラフはずっと低いまま。「リゾナーレ小淵沢(現・リゾナーレ八ヶ岳)」の運営開始のタイミングも、変わらずキャリアグラフは低いですね。
リゾナーレ小淵沢は実は、星野温泉旅館(現・星のや軽井沢)を大改装しようという計画を進めていたさなかに着手した、不良債権処理案件だったんです。
10年間、軽井沢で経営基盤を固めるために大きなコストをかけてきて、徐々にその成果が現れ、増収増益が続いていたころでした。
だからこそ、私は当初「余計なことに手を出すべきではない」と大反対しました。困り果てた金融機関から、引き取ってもらえないかと何度打診されても、受け入れる気はなかった。しかし、「現場を見るだけ見てくれ」と言われたんです。
見に行ってから断ろう、そう思って迎えた視察の日、大ホールに100人を超えるスタッフが集まっていたんです。彼ら・彼女らの様子から、私たちと一緒にやりたいという思いが伝わってきた。それで、気持ちが動いたのです。加えて、自社が順調だからといって守りに入っているようでは私が目指す「リゾート運営の達人」に近づけはしない、という思いもあり、(リゾナーレ小淵沢を)引き取ろうと決めました。
「借金を返したいから不良債権を引き取ってほしい」という金融機関の懇願以上に、従業員が私たちを強く求めてくれた事実を、見過ごすことはできなかった。91年の社長就任以来、人がいないと困り続けてきたからこその感覚かもしれません。実は、今のマーケティングの責任者は、この時にホールにいた人物ですし、彼らと一緒になれたことは、その後の私たちの成長にとってとても大きな出来事でした。
──難しい案件を引き受けることで、むしろ勝負に出たという感覚でしょうか?
そうですね。経営のセオリー通りではありませんでしたが、100年に一度起こるかどうかという、バブル崩壊のタイミングこそ、既存の大手企業と、私たちのような小さな企業の立場を逆転させられるチャンスです。戦国時代のような混迷期こそが、下克上を生み出す。私たちも逆転劇に手を挙げるぞという意思決定でしたね。
──お話をおうかがいして改めて感じますが、増収増益が続いていることと、キャリアグラフがプラスになることは、イコールではないのですね?
そうですね。増収増益といっても、当時は仕組みで勝っているわけではなく、毎年小手先でやっている感覚でした。成長のモデルができていなかったのです。医療に例えるなら「名外科医がいるだけ」というような状況です。企業としての本質的な実力はまだない、と危機感は常に持っていました。
“体育会系”で培われた「根拠のない自信」
──キャリアグラフが初めてプラスになるのが、2010年。地方の温泉旅館をリブランド*1させた「界」ブランドなどが黒字化、すなわち再生したタイミングですね。
「界」という温泉旅館は、お客様に何をお約束する施設なのか。いわゆるブランド戦略を各施設でとり始めたのが09年からで、それがプラスに転じた理由です。個別の処方箋で物事を解決するパターンから、企業のブランド力で集客するパターンへと変化していくタイミングでした。
リゾナーレ小淵沢の事例のような「困っている施設を立て直す」というケースとは違い、お客さまが求める場所へ、能動的に施設を作っていく自由がようやく実現してきたんです。
──ブランド化し、型で勝つスタイルが見えてきた。しかし、翌年の東日本大震災は観光業界にも大きな打撃を与えたのでは。
日本にとって、もちろん私たちにとっても、大変な出来事でした。震災後、ファンド系の投資家たちは、日本の旅館から一斉に手を引いてしまったのです。つまり、私たちがファンドと一緒に取り組んでいた施設を維持するためには、自分たちで土地や施設を引き取らざるを得なくなった*2。
その時考えたのは、短期視点で利益が出たら売り抜くのではなく、長期的に安定して伴走してくれる投資家を探さなければいけないということです。パートナーとして伴走し続けてくれる存在でなければ、災害をはじめ大きな出来事が起こるたびに、私たちは右往左往しなければいけないですから。
震災は未曾有の出来事でしたが、パートナーとの関係性を考え直す機会でもありました。13年に、星野リゾート・リート投資法人を立ち上げて、東証に上場しましたが(キャリアグラフでは+2)、長期的視点での投資を基本とするリート*3の発想にたどり着くきっかけは、東日本大震災でのピンチにあったと思っています。
──自分たちではどうにもできない大きなピンチに見舞われる中でも、活路を見出し、むしろチャンスに変えていかれた印象です。
これまで一度も、もうダメだと感じたことはないんですよ。根拠のない自信のようなものがずっと自分の中にある。これは、学生時代の体育会で鍛えられたものだと思います。実は私は、小学生の頃からスピードスケートの選手でしたし、先ほども申し上げましたが、大学での4年間はアイスホッケーに打ち込みました。
当時の体育会の生活というのは、今となれば問題視されるようなことが日常茶飯事でした。自分の限界を超えるということが、常にテーマに掲げられていました。毎日のトレーニングで追い込まれて、もうこれ以上できないという状態になっても許されない。気を失いそうになりながら、もう立てない、というところまで疲弊する。でも不思議なことに、翌朝になればまた走れてしまうものです。
限界とは自分で勝手に決めているものにすぎず、必ず突破できる。だから、苦しくても、もう打つ手がないと思っても、何とかなる。私の中にある根拠のない自信は、体育会の理不尽な世界で培われたものなんです。
最後に頼れるのは結局、自分自身だから
──2020年。キャリアグラフとしては、最高値の+5ですね。
もちろん、課題を挙げろと言われれば、いくらでも挙げられますけどね(笑)。しかし、ありがたいことに「星のや沖縄」や「界長門」、「サーフジャック ハワイ」など、国内外で複数の施設の開業が相次ぎました。さらに今後は、海外の運営拠点を増やしていくことを大きな目標に掲げています。これは2021年に間に合うかどうか、という計画ですが、北米進出も視野に入れています。
──では、北米大陸への一歩目は、61歳での挑戦になりますね。
そうですね。キャリアグラフを見ていただいてお気づきになったかもしれませんが、私にとっては1という数字がつく年齢は鬼門なのです。振り返ってみれば、31歳・41歳・51歳と、1がつく年齢で、大きな事件が起きている。
そうなると、2021年、61歳を過ごす年は普通には推移しないはずです(笑)。きっと何かが起こるだろうなとは思っています。これまで何度も厳しいことが起きてはいますが、その度にチャンスを得てきたので、61歳に起こるだろう出来事を楽しみにしたいと思います。
──震災をはじめとした未曾有の危機に見舞われても、前に進んでいく。その強さはどうやったら持てますか?
自分のキャリアのどこかで、自信を持つプロセスが大事だと思います。自分の全てに自信がある人はいないと思いますが、なにかひとつの能力に長けている・自信があるという状態は大切で、それを持てるだけの努力をする時期を持つことです。最後の最後に頼れるのは、結局自分自身しかないわけです。
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取材・文:伊勢真穂
撮影:関口佳代