
※この記事は2019年5月に取材・撮影した内容です
世界最高峰の音楽フェスとの呼び声も高いコーチェラ・フェスティバル*1。出演者のPerfumeは米ローリングストーン誌の「ベストアクト16」に選ばれ、リアルタイムで配信を観ていたファンから「AR技術がヤバい」「これを一発勝負でやるのはすごい」などと、驚きの声が上がりました。
演出技術の開発を担当したライゾマティクスリサーチを率いるのが、インタラクションデザイナーやプログラマ、DJなど複数の顔を持つアーティスト、真鍋大度(まなべ・だいと/ Daito Manabe )さんです。ビョーク(Björk)とのコラボレーションやケイティ・ペリーのオープニングライブの演出、NHK紅白歌合戦でのPerfumeとのコラボレーションなどで、「誰も観たことのない景色」を音楽と数学を軸に表現しつづけています。
国際的広告賞「カンヌライオンズ」グランプリをはじめ国内外の賞を多数受賞し、グローバルに活躍する真鍋さんですが、履歴書を手にこれまでを振り返ってもらったところ、「決してイケイケではない」と、拍子抜けするほど謙虚な様子。果たして、これまでのキャリアから見えてくるのは、どんな仕事観でしょうか。

典型的な“落ちこぼれ”の学生だった

──世界的に活躍されている真鍋さんですが、キャリアグラフは最近ようやく±0のフラットな状況になった、という認識なんですね。正直、意外です…。
そんな感じですね…。決してイケイケではないです。高校も第一志望には進めなかったので、「成功した」とは言えない感じですし、大学入試もセンター試験の日に寝坊したので、「リングにすら立てなかった」。大学(東京理科大学理学部数学科)に入学したのも「英語と数学の2教科で受けられるから」で、ものすごく数学がやりたかったというよりは数学しかできなかったんです。大学でも典型的な“落ちこぼれ”の学生だったと思いますよ。1年生のときには英会話と英文法を間違えて受講したのが原因で留年しましたしね(笑)

真鍋大度さん:1976年、東京生まれ。アーティスト、インタラクションデザイナー、プログラマ、DJ。2006年に株式会社ライゾマティクスを設立、2015年よりライゾマティクスの中でもR&D的要素の強いプロジェクトを行うライゾマティクスリサーチを石橋素氏と共同主宰。身近な現象や素材を異なる目線で捉え直し、組み合わせることで作品を制作。高解像度、高臨場感といったリッチな表現を目指すのでなく、注意深い観察で発見できる現象や、身体・コンピュータそのものが持つ本質的な面白さ、アナログとデジタル、リアルとバーチャルの関係性や境界線に着目し、デザイン、アート、エンターテイメントの領域で活動している。

──そこからどうやって、自分自身のやりたい領域を見出していったのですか。
当時は何を生業にするかについて、理想と現実のギャップが大きかったように思います。高校時代から趣味でDJをやっていて、大学の頃にはプロとして生計を立てられるくらい稼いでいる時もあったのですが、留年したのをきっかけに辞めました。
そこからパソコンを使った曲作りをはじめ、企業PRビデオの音楽を作るバイトなどもやりながら、「音楽制作で食べて行けないかな?」とは思っていました。
でも、そうそう食える職業でもないし、新卒で就職できるのは1回しかないしな、と就活することにしたんです。それでゲーム会社やIT関連の会社を何社か受けましたが、ゲーム関連の会社には引っかからず、大手メーカーのシステムエンジニアの職を選びました。

──時代的にはちょうど就職氷河期ですよね。そんな厳しい時期に大手電機メーカーへの就職が決まって、親御さんはさぞ喜んだのでは?
僕の両親はミュージシャンで父はまだ現役ですが、不安定でリスクの大きい音楽関係への道を選ぶよりもエンジニアになることを願っていたような気がします。就職が決まったときは喜んでくれました。
そういえば就活をはじめたころ、(父親から)お金をポンと渡されて「これで株をやれ。それで社会と経済のことはわかるから」と言われ、しばらく株式投資をしていた時期がありましたね。当時、リアルタイムで株の情報がわかるのは2ちゃんねる(現:5ちゃんねる)くらいしかなく、「つかまされた」こともありましたけど(笑)。

会社員時代の真鍋さん。2000年頃。
──けれどもそのメーカーをわずか1年で退職されたんですね。
システムエンジニアの職に就いたのは2000年で、通信やデバイス制御関連の開発業務に携わっていたのですが、同時期に齋藤精一(ライゾマティクス・アーキテクチャー主宰)がコロンビア大学を卒業して、そのままニューヨークで活動しはじめていたんですよ。彼とは大学時代からの親友で、昔から「会社を辞めて、一緒に何かやろうぜ」って、ことあるごとに誘われていました。
大規模システムの開発設計も面白かったのですが、理科大数学科の同級生だった千葉秀憲(ライゾマティクス取締役)に声をかけてもらったのをきっかけに転職して、半年ほどITベンチャーに勤めました。でも、そこはあっという間に経営が傾いたため退職し、しばらくハローワークに通っていたんです。
失業保険をもらいながら今後のことを考えたのですが、結局、ニューヨークに行って齋藤の仕事をしばらく手伝って広告仕事をやりました。彼は当時、Arnell Groupというデザインファームで映像クリエイター、アートディレクターとして勤めていたんです。彼はかなりイケイケでしたね。僕は齋藤がつくるCGから音を自動生成するソフトやプラグインなどを開発していました。でも、そこで限界を感じるようになったんです。
アートで生きていくことの難しさ

──限界、というと?
プログラミングは大学でも会社でも学ぶ機会がありましたが、クリエイティブに関することはすべて独学だったので、一度しっかり学ばなければならないと思ったんです。プログラミングもエンジニアリングもできるし、音楽制作もできるから、スキルセット的にベーシックなところは揃っている。それを全部組み合わせたら何ができるか、きちんと「メディアアート」を学んでみようと、岐阜県にある国際情報科学芸術アカデミー(IAMAS)*2へ入学しました。
──そのタイミングでメディアアートに出会ったわけですね。IAMASでの学びはいかがでしたか。
それまで、お題やフォーマットを設定された制作しかやってこなかったので、問題提起やコンセプト設計の難しさにぶち当たりましたね。「作品をつくる」というのはある種、言語化が必要で、そこも苦戦しました。タイトル一つ取っても意味が要求される。さらに歴史も分かっていないので、教授からは「それ昔に誰々がやっていたよね?」と問われることもあり、サーベイの重要さも痛感しましたね。
頭の中で考えていたものが形になる、という意味ではとても楽しかったのですが、ゼミでレビューされるたびにどんどん自信を失っていました。
作品を批評されることに慣れていないと、必要以上に自己肯定意識を持って、ネガティブなコメントにダメージを受けてしまうんですよね。ある種の強迫観念のようなものが生まれて、思考の幅が狭まるんです。
でも、IAMASの先生方や同期や先輩たちと一緒に過ごす中で次第に解放され、作品制作とは何かということを少しずつ理解していった気がします。全然自信はなかったですけどね。
──とはいえ、一度就職した後、自分の表現を追求しようと新たな道に進んだわけですから、卒業後にはアーティストとして活動していこうと考えていたのでは?
いま思うと、卒業後の進路については、かなり目を背けていましたね(笑)。どう考えても作品制作では生活できないと思っていましたから。
IAMASにいる当時は小さなシステム開発のお手伝いの仕事をやっていて、そうしたことから「プログラミングさえできれば、なんとかなるかな」と思っていました。結果的にはIAMAS卒業後、東京藝術大学の非常勤講師としてなんとか職を得ることができ、さらにはそのときに石橋素(ライゾマティクスリサーチ主宰)とも出会えたので運が良かったです。

「Nike Music Shoe」制作の様子。
企画:ワイデン アンド ケネディ トウキョウ 制作:ライゾマティクス
IAMASで作っていたプロトタイプや習作が、その後「Nike Music Shoe」(2010)としてNIKEのCMに展開できたり、Perfumeのライブで使われたりしましたから、ラッキーなことではあるけど、制作段階から狙っていたわけではありません。齋藤や、クリエイティブディレクターの伊藤直樹さん、演出振付家のMIKIKOさんが持っていたアイディアを実現するために、たまたま昔つくっていたものが応用できたというだけで。
たとえば、僕の卒業制作の「体をスピーカーにする椅子」は、まだビジネス展開されていませんが、そこで培った低周波や振動子の制御に関する知見はさまざまなプロジェクトに応用されています。
当時の経験が違った形で実装されていく形の方が多いかもしれませんね。
ヒット作に固執しては、クリエイターとして短命に終わってしまう

──そして2006年にライゾマティクスを設立されました。ここでも…キャリアグラフは低いままですね。
当時フリーランスの仕事を一緒にやっていた齋藤と千葉の3人で立ち上げたんですけど、「大きなクライアントの仕事を受けるには、法人化が必要だ」ということで、別に大それた目的意識があったというよりは必要に迫られてつくりました。
ライゾマがはじまった頃には既に石橋がメディアアートを応用したインタラクティブコンテンツをファッションや広告に展開していたので、ライゾマの初期は石橋が切り拓いた道に続いていきました。
ライゾマを立ち上げて2、3年目は商業施設の常設インスタレーションなど、徐々に大規模な案件が舞い込んできました。メディアアーティストたちが特殊な環境で実証実験していたことが、どんどん社会実装されるのを体験できた時代だったので本当にスリリングでしたね。ただ、今に比べると本当に誰も知らないことをやろうとしていたので、プレゼンはとても大変でした。
この頃は、ショールームや商業施設のインスタレーションをメインにやりつつも、一方で誰にも頼まれないような、趣味の領域に近い作品づくりを地道に続けていました。

ライゾマティクス設立当初の真鍋さん。2006年頃。
──そのタイミングで“バズった”のが、「electric stimulus to face」(顔面筋電位センサー動画、2008)だったんですね。
それこそあれなんて、「何かにつながる」とはこれっぽっちも思っていませんでした。照岡正樹さんというバイオアートの研究者に手伝ってもらい、「自分の顔の表情を友人にコピーできないか」と相談して、筋電センサーと低周波刺激装置とソフトウェアを独自に開発しました。単純な好奇心でスタートしたので、最終のアウトプットは映像になるかライブになるかということも考えていなかったですね。
当時、Twitterも日本に上陸していなかったし、「バズる」という概念すらなかった。とりあえず実験の様子をYouTubeにアップして、mixi日記で「ちょっと観て、これ面白くない?」ってURLをシェアするくらいでした。
でもしばらくしてGizmodoの海外版で紹介されて、CNNやMTV、ディスカバリーチャンネルとかに取り上げられるようになって、世界中から取材のオファーが来て…30都市くらいでプロジェクトを発表したでしょうか。そういう意味では、ヒットした作品と言えるんでしょうね。

「electric stimulus to face」制作時の真鍋さん。
──公開したときに「イケるかも」みたいな手応えはあったのですか。
「メチャクチャ面白いことになっている」と思ってはいましたが、何かを狙ってつくった動画でもないですしね。いま振り返れば、もうちょっとキレイに顔にテープ貼っておけばよかったな、とか思いますけど(笑)。
ただ、まったく映像編集をしていないその生っぽさが、逆によかったのかもしれません。ちょうどYouTubeが出はじめたころで、ある意味その文脈というか、DIYカルチャーに則っていたから、世界に広がったのかな、と。名刺代わりになる作品になりましたし、尊敬しているメディアアーティストのザッカリー・リーバーマン*3からも動画をリリースしてすぐにコラボレーションのオファーが来ましたし、最近になってコラボレーションしたOK GO(オーケー・ゴー)やビョークも、僕のことはあの作品で知ったという感じでしたね。
ニッチな業界の中での出来事に過ぎなかったと思いますが、強いインパクトの作品をつくる重要性は感じますね。メディアアート自体の認知度という意味では、Perfumeとのプロジェクトがより幅広い方に知ってもらう機会になったというか、ポップな形で世に出たものだったんだろうと思います。
──Perfumeとのコラボレーションがはじまったのは2010年ですね。
2009年くらいからザッカリー、U2やMASSIVE ATTACKとも仕事をしていたUnited Visual Artists(UVA)*4でJoel Gethin Lewisと海外の大型コミッション案件をやっていたのですが、いわゆるスタジアムクラスのステージでどんな設計で演出するべきか、ノウハウやヒントをかなり教わりましたね。
Perfumeとの初のプロジェクトは東京ドームだったのですが、彼らに色々アドバイスをもらいながら進められたのは大きかったと思います。実装はザッカリーと一緒にやりました。

──たしかに、その頃からプロジェクションマッピングが世の中にも広く認知されはじめ、Perfumeのライブ演出などで一気に話題になった記憶があります。
ただ、僕らは“ひねくれ者”みたいなところもあって、プロジェクションマッピング案件のオファーが来ても、やらなかったんですよ。なんか“プロジェクションマッピング屋さん”みたいになっても、しんどいかな、って。それで単にプロジェクションを使うのではなくレーザーを使ったものや、畜光塗料を使ったものなどを提案していました。
一つのヒット作品をつくって、それを長く継続しながら、同じ表現を拡張していく、みたいな方向性もあるだろうけど、長い目で見ればクリエイターとしての寿命は短くなってしまう。
それよりは、毎回新たなことにチャレンジしていきたいし、一緒に仕事しているメンバーもそういうモチベーションでやってきている側面はあります。だから、その後は新しい表現を見つけるための研究開発テーマを設定して、違うことをやっていますね。
プロジェクションマッピングという意味だと、ライゾマに来ていたオファーは2010年から2013年くらいがピークですね。当時はプロジェクションのツールキットから開発していましたが、今は制作環境も充実して誰でもできるようになったのでコンテンツ勝負というところですね。
前例のない道を切り拓くほうが“リスクも少ない”

──真鍋さんはどのようにチームをディレクションしているのですか。
僕らは、「プロジェクト」と「リサーチ」の二つのベースで動いているんです。リサーチのほうはある程度テーマがあって、それをひたすら研究開発している。それこそ、2008年くらいに発想したことがやっともうすぐ陽の目を見るかな、みたいなものもあります。
一方、プロジェクトはクライアントやパートナーの意向で予算やスケジュールが決まるものがあり、「今度のライブ演出でいま取り組んでいる技術や表現が使えそうだよね」みたいな感じで、リサーチと接続させていく。
単なる研究発表ではなく「世の中へいかに届けるか」というところが大事で、そこはエンジニアも含めて共通認識としてあります。
その辺はリサーチャーやエンジニアだけでなくクリエイティブコーダー、デザイナーを抱えているライゾマだからこそできることですね。
──しかも、プロジェクトが大規模になればなるほど、さまざまな要因に左右される可能性も出てきます。2016年リオデジャネイロ五輪の閉会式*5なんてまさに世界的に大きなインパクトのあるものでした。そういった難しいプロジェクトをどうやって着地させているのでしょうか。
僕らは、前例のないところで真っ先に前例をつくって、そのあとの道を切り拓く、みたいなことをずっとやり続けているんですけど、大きなプロジェクトの前には必ずその実証実験みたいなことをやっているんですよね。
たとえば、紅白歌合戦でインタラクティブな表現をはじめたのは2012年からなのですが、その前にNHK杯国際フィギュアスケート競技大会のエキシビジョンで同じような演出を試しているんです。NHKホールでドローンを飛ばしたときも、その前に『プロフェッショナル 仕事の流儀』に出演し、生放送でドローンとARの実験をしたり、AIにプロフェッショナルというワードを自動生成させたりする試みを行いました。
これも紅白歌合戦とNHKスペシャルで使用するための実証実験でした。五輪や紅白など、大きな現場になればなるほど、セッティングやリハーサルの時間が短くなるという問題があるので、実際の現場で実証実験は必須ですね。
──なるほど。
最初に切り拓くのって、やっぱり大変なんです。でもしっかり戦略的に実証実験の機会をつくって、一つずつ証明していくしかない。最初にPerfumeの演出をサポートしたときにも、それこそ2008年くらいからずっとオファーしていたんです。オファーをやっと受けてもらえたのは、やはりザッカリーや元UVAのJoelたちと海外で取り組んだプロジェクトで成果を出せたから。だから、少しずつ信頼を勝ち取り、道をつくっていくしかないんです。
──先日のPerfumeのコーチェラ・フェスティバルでのリアルタイム配信もそうでしたが、本番一回勝負の緊張感の中、すべて見事に成功させてきているように見受けられます。これまで、何か失敗したと感じたことはありますか。
リアルタイムの映像配信に関しては、かなり綿密なバックアップのプランがあります。フェイルセーフ設計といって、ベストのプランがやれなくても失敗に見えないようなバックアップを持っておくスタイルですね。会場の状況がわからずプランを二つ持っていき、セカンドプランになったというパターンもありますね。
──そのセカンドプランも、私たちが見たことのないまったく新しいものなのかもしれませんね。
完全にお蔵入りさせず、違った機会に形を変えて発表したものもあります。
コーチェラや五輪は自分たちのプロジェクトではないから絶対に失敗できませんが、自分自身のライブであればハードルをあげることもできますよね。その辺のハードルの高さは責任の重さによっても変わってきます。
とはいえやはり、ステージ上でパフォーマンスする人たちが抱えるプレッシャーとリスクが一番大きいので、それをどこまで減らせるかということは常に大きな課題となっていますね。
五輪もコーチェラも会場でのリハーサルはなく、本番になってはじめてステージ上で踊るわけです。パフォーマーやダンサーのほうが圧倒的に大変ですし、僕らが「緊張してる」なんて、口が裂けても言えません。

──それにしても…今回はキャリアグラフのなかで、ターニングポイントやブレークスルーした瞬間を聞けたら、と思っていたのですが、±0を超えることはないんですね。
そうですね…。ゼロまで上がったらすぐにまたマイナスからスタートするというイメージですかね。マイナスというのは課題がたくさん残っている状態ですが、一方で学べることが多い良好な状態でもあるんですよ。
「この映像技術まだ10フレームしか出ないけど60フレームに到達したら使えるね」とか、「このデバイスを1000台使えるチャンスがあったらこんなことできるね」とか、基本的にはいつも夢をたくさん抱えています。ただ、単なる技術デモではなく表現として発表する必要があります。技術的な課題からはじまり、表現としての課題にシフトしながら、課題を一つずつクリアしていっているような感覚ですね。
最初に実績をつくって切り拓くことが一番大変なのですが、僕らが道をつくると、その後に続く人たちが出てきますよね。ライブのインタラクティブコンテンツについてはそれを強く感じることがあります。けれどもそこでその地位を守ろうとすると、結局コンテンツやスケール、下手するとマーケティングの争いになってしまうので、すごく消耗するんですよ。だから、自分としてはいつも新しい道を切り拓いていくのがいちばん楽しいし、実はいろんな面でリスクも少ないんです。
──前人未到の場所を目指しつづけるモチベーションは、どんなところにあるのでしょうか。
意外と、単純なことかもしれないですね。「ここでこんなことやれたら、ヤバいよね」みたいな。五輪という長い歴史のなかで、リアルタイムでジェネレートしているグラフィックをAR合成したのも、ライゾマがはじめてでしたから。もちろん、それを説得するために、クリエイティブディレクターやプロデューサーと一緒にプレゼンしました。僕ら実装チームだけの力ではなく、本当に多くの人たちの力で実現しています。
そこで共有されているのは「まだ見たことのない景色を見たい」というモチベーション。それをやってのければ歴史に残るし、価値がある。みんな、そう信じてやっているんです。
──シンプルながら本質的な答えだと感じます。ありがとうございました!
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取材・文:大矢幸世
撮影:小野奈那子
*1:カリフォルニア州インディオの砂漠地帯、コーチェラ・ヴァレーにて2週に渡って毎年開催されるアメリカ最大級の音楽フェス。正式名称は「Coachella Valley Music and Arts Festival」。
*2:県立の専修学校。1996年設立、2002年廃校。現在は、2001年に併設された情報科学芸術大学院大学が残る。
*3:アメリカのメディア・アーティスト、デザイナー、プログラマ。openFrameworksというオープンソースのツールキットを開発し、世界中のメディアアーティスト、デジタルアーティストの制作に貢献している。
*4:イギリス発のアーティスト集団。建築、コミュニケーションデザイン、映像、コンピューターサイエンスをはじめとしたさまざまな専門家で構成され、彫刻、建築、ライブパフォーマンス、映像など広範な領域の作品を多数生み出している。
*5:2020年東京五輪に向けてのフラッグハンドオーバーセレモニーで披露された映像のAR映像演出、プロジェクション映像ディレクション、制作、シミュレーションソフト開発、デバイス制作を真鍋さんをはじめとするチームが担当した。