※この記事は2019年6月に取材・撮影した内容です
シリアル・アントレプレナー(連続起業家)と呼ばれる人たちがいます。いくつもの事業を次々と、あるいは同時に立ち上げるそのバイタリティは、いかにして培われるのでしょうか?
日本におけるクラウドファンディングの草分け、CAMPFIRE代表の家入一真さんも、著名な連続起業家の一人。しかし、10代の頃は引きこもりも経験し、その後、20歳で働きはじめたものの何度も会社をクビになったといいます。「誰にも会わずに仕事ができる」という、後ろ向きな動機からスタートした起業家としての歩み。以後、およそ20年にわたり社会を変えるインターネットサービスを次々と立ち上げてきました。
その中には、他人から見れば「失敗」と映るものも。しかし、当人は失敗ではなく「保留」と言い、いつか花開くと信じています。そんな家入さんに「履歴書」を振り返ってもらいつつ、サービスづくりの背景にある思いを語っていただきました。
会社を次々クビになり、「仕方なく」起業
──家入さんは22歳の頃、地元・福岡で起業されていますが、それ以前は会社員だった時期もあるそうですね。
もともと、就職する気はまったくなかったんです。画家になりたくて、何浪しても何歳になっても東京芸大に行こうと思っていました。ところが、親父が交通事故で働けなくなり、長男なので就職しなければいけない状況に…。それが20歳の頃ですね。
──最初に就職したのはどんな会社でしたか。
福岡にある、社員10人くらいのデザイン会社です。でも、やっぱりうまくなじめなくて。それ以降に入った会社も同じで、だんだん居づらくなり、無断欠勤してクビになるパターンの繰り返し。クビになったことを家族に言えず、会社に行くふりをして漫画喫茶で夜まで時間を潰したり、現実逃避のために宝くじを買ったりというドラマみたいなことを本当にやっていました。
──なぜ会社になじめなかったのでしょうか。
コミュニケーションに難があった、これに尽きますね。それまで引きこもり期間が長く、人や社会と断絶していましたから。あとは、当時から時間にルーズでした。寝坊して明らかに遅刻しそうな時って、会社に連絡しづらいじゃないですか。だから連絡せずにそのまま無断欠勤してしまう。人として、終わってますよね…。
22歳で起業する*1んですけど、それは会社勤めがうまくいかないから仕方なく。成功したいとか、社員をたくさん雇いたいとか、そういう気持ちは一切ありませんでした。1人でできる範囲で、月20万円くらい稼げたらいいなと。
今思えば、起業家って“起業家以外になれなかった人たち”、つまり起業するしか道のない人たちなのではないかと。当時の僕は社会のレールを半ば脱線させられたような思いでしたし、いまだに「敷かれたレールの上を走りたい感」がありますし…。
──しかし、家入さんがpaperboy&co.(以下ペパボ)を起業してはじめたレンタルサーバ「ロリポップ!」*2はすぐに軌道に乗ります。
初月から売上がたちました。当時はオンラインバンクもなかったので、口座への入金を確認してサーバーを開設する、という手続きを毎回踏んでいたのですが、一回記帳すると通帳が一冊終わるようになっていき、自分でも驚きました。
──同時に、ペパボの社員数もどんどん増えていくわけですが、また誰かと働くことに抵抗はなかったですか?
そんなこと言っていられないほど忙しかったのもありますが、やっぱり心のどこかで人とのつながりを求めていたんだと思います。誰とも会わずに済む仕事をしようと立ち上げた会社でしたけど、だんだんパソコンじゃなく人と向き合いたくなった。
それで、僕が個人でやっていた掲示板によく書き込みをしてくれていた佐藤健太郎さん(現GMOペパボ株式会社代表取締役社長)に声をかけ、その後も少しずつ仲間が増えていった。最初の頃は社員と目が合うのが恥ずかしいので、全員のデスクを壁に向かって並べたりしていましたけどね(笑)。
──それでも少しずつ、人と関われるようになっていったんでしょうか。
そうですね。もともとあった場所じゃなく、自分がつくった場所に仲間が入ってくるのは、すごくしっくりきたんです。「ぼくの国にようこそ」みたいな感じで、ようやく自分の居場所ができたと思えたんです。
──キャリアグラフも順調に上がっていますね。
業績も順調でしたしね。ただ、福岡時代は経営らしい経営をしていなくて、「みんながんばっているから、今月から給料1万円アップ! イェーイ!」みたいな大らかなノリ。起業家のギラギラした雰囲気もなく、地方の中小企業で、みんな仲良く幸せに生きていければいいよねって感覚でした。
「これからは家入さんじゃなくて、社長と呼ぶように」
──起業から約3年、家入さんが25歳の時にGMO(現GMOインターネット)の出資を受け、同社の連結子会社になりました。
サービスが急拡大していく最中、25歳の時にライブドア(当時)の堀江貴文さん、GMOの熊谷正寿さんなどから別々に出資のオファーを受けました。当時は出資とかM&Aとか言われても全然分からなかったけど、とりあえず話だけは聞いてみようと。話だけ聞いて、断るつもりでした。
──当時の堀江さん、熊谷さんはどんな印象でしたか?
堀江さんはイケイケで、当時ドメイン事業をやっていた僕に「ドメインなんて無料で配ったほうがいい」とか言うし、いい意味でぶっとんだ人だなと。
熊谷さんは堀江さんとはまったく違うタイプで、ビシっとスーツを着こなし経営者として輝いて見えました。それまでの僕には経営者という自覚がほとんどありませんでしたが、この人から経営をはじめ、いろんなことを学んでみたいと思ったんです。
──それでGMOグループ入りを決め、福岡から東京へ拠点を移すことになったと。
そうです。それまで手探りで会社を経営していましたが、上場企業であるGMO型の経営手法がインストールされていくうちに意識も変わっていきました。福岡時代のアットホームな感じもよかったけど、人も組織も停滞すると澱んでしまうんじゃないかと思うようになった。当時の僕にとって、ハイスピードで物事がどんどん変わっていく東京の環境は、とてもエキサイティングでした。
また、25歳で東京に来て初めて、同世代の起業家がこんなにいるんだと気づいた。グリーの田中良和さん、メルカリの山田進太郎さん、ミクシィの笠原健治さん、はてなの近藤淳也さん、ドリコムの内藤裕紀さん。76世代と呼ばれていた彼らは、二言目には「上場を目指している」と言っていました。彼らと同じステージに行きたい、負けたくないという気持ち、焦りのような感情もあったと思います。
──当時はかなり無理をして、気を張っていたところもあったと、著書で振り返っておられますね。
背伸びをしていた時期はありましたね。「行動指針をみんなで読む」といった体育会系のノリは嫌でしたが、熊谷さんみたいになりたい一心で、毎日スーツを着て、社員にも「これからは家入さんじゃなくて、社長と呼ぶように」と。
高校時代にいじめられて引きこもりになったことも、当時は隠していました。 でも、やっぱり取り繕うとボロが出て、心がしんどくなるんですよね。自分はカリスマ経営者にはなれないし、僕には僕の経営スタイルがきっとある。いつしか、そう考えるようになりました。
そんな時、引きこもりだったことをインタビューでぽろっと喋ってしまい、その記事がYahoo!ニュースに転載されて一気に拡散してしまったんですよね。「引きこもりから社長へ」ってタイトルを付けられて。
──「隠したい過去」が、いきなり広まってしまった。
そう。原稿チェックもなく、そのまま世に出てしまった。でも、そしたら引きこもりの当事者や親御さんからすごい数の相談・応援メールが来たんですよ。「勇気をもらいました」と言ってくださる方もいて。なかったことにしたかった過去が、初めて肯定された気がしました。辛かった過去やコンプレックスも、武器になるんだと気づいた。以降は、自分の弱い部分もさらけ出せるようになったと思います。
どん底どころか、マイナス100くらい
──以降、ペパボが上場するまでグラフは上昇し続けていますね。
いろいろありましたけど、ペパボ時代は基本ずっと上がっていって、最高潮が29歳で上場した時ですね。
──しかし、その後ほどなくして社長を退任されています。
次期社長も育っていたし、僕自身は次のステージへ行きたいと。とはいえ、上場から社長退任まで間がなかったこともあり、怒られもしましたけどね。
──その次のステージというのが、飲食事業。インターネットとはまた違う世界への挑戦でした。
僕が子供の頃、両親がずっと喫茶店をやっていたからか、人が集まるリアルな場所に憧れがあったんだと思います。最初はペパボが入るセルリアンタワーの近くにハイスコアキッチンというカフェをつくって、本業の傍らでオーナーをやっていました。でも、そちらをメインにしたい思いが日に日に強くなった。片手間の道楽で飲食をやっていると思われるのも嫌でした。
──それで飲食に軸足を移すわけですね。以降は出店数も増えて順調かと思いきや、ここからグラフが急降下していきますね。
結論から言うと、飲食事業はうまくいかなかったです。個人資産もカフェの立ち上げ・運営資金に投下し続けていたら、お金もなくなった。最終的には借金もしたりして。
シェアハウスやアパホテルを転々として、精神的にも本当にしんどかったです。数十億円あった残高がゼロになり、最終的には財布に常に小銭しか入ってないような状態。上場後の急落がすごかったですね。
──飲食事業がうまくいかなかった要因を、どう分析されていますか?
「ちゃんと経営していなかった」というのが正直なところですね。オーナーという立ち位置で、コンセプトや内装、メニューなど最初の立ち上げには関わるんですけど、オープン後の運営フェーズに入ると特にやることがない。数字を細かく見ることもせず、フタをあけてみたら赤字をめちゃくちゃ垂れ流していた。
そんな状況なのに、飲み歩いたり、投資も気前よくバンバンやったりして。当時、そんな僕を「お前、評判が悪いぞ」って怒ってくれる人もいたんですけど、やめられなかったですね。お金を使うとみんなちやほやしてくれるので、失われた青春を取り戻すかのごとく散財しました。…でも、お金がなくなり、みんないなくなった。
──まさに、どん底だったと。
どん底どころか、マイナス100くらいです。毎晩のように泥酔して、翌朝はいつもゲロまみれ。クレジットカードもそのタイミングで一度全部使えなくなりました。
もともとゼロだったのが振り出しに戻っただけ
──しかし、そこから再起をはかります。飲食事業から撤退した翌年の2011年、32歳で株式会社ハイパーインターネッツを設立し、CAMPFIREをはじめとするインターネット事業に再び乗り出しました。
お金も周囲の人もいなくなり、ゼロベースから何か始めようかと思っていた時に、ハイパーインターネッツ共同創業者の石田光平くんと出会い、「クラウドファンディングって知ってますか? ぜひ家入さんと一緒にやりたい」と声をかけてもらいました。それから石田くんと毎日「喫茶ルノアール」にこもってデザインやコードを書きました。久々に手を動かしている実感がありました。
──どん底からの再挑戦。しんどいこともあったと思いますが……。
いや、もともとゼロだったのが振り出しに戻っただけですからね。むしろ、もう一度ゼロから仲間を集めていくことにワクワクしていたと思います。それに、昔も今も、僕が事業をやる動機は野心のためではなく、喜ばせたい人がいるから。そのために組織が必要ならつくるというだけで、特に心理的な負担はなかったです。
──実際、その後「Liverty・リバ邸」や「BASE」「XIMERA」「NOW」など、さまざまな会社、サービスを次々と立ち上げていきます。このあたりから、どちらかというと社会課題に向き合う事業が増えてきたような印象です。
ペパボの社長退任後は、カフェをやりながら何十社もの事業に投資してきました。結果的にお金がなくなったわけですけど、そのぶん視界も広がった。ビジネスよりも「社会」に目が向くようになったというか、チャレンジしたくなったんです。30代後半に入ってからは、社会実験のような事業や非営利の活動も少しずつ広がっていきましたね。
──そして2014年、35歳で東京都知事選挙に出馬されます。
当時は「僕が出ずに誰が出るんだ!」という使命感や衝動みたいなものがありました。でも、徐々に上がってきたグラフが、ここでまた下がるんですけど。
──なぜですか?
それはもうシンプルに落選したからですね*3。その後も、政治活動を続けるつもりはあったんです。でも、自分はビジネスを通じ、民間から活動をしたほうが性に合っているし、スピードも速いし、そっちのほうが社会を変えていけるんじゃないかと気づきました。出馬には反省点も多く、失ったものも多々ありましたが、改めて自分のやるべきことが分かったのは良かったですね。
失敗かどうかを決めるのは自分自身
──家入さんは振り幅が大きい人生ですが、失敗の経験もしっかり糧にされている印象です。
ありきたりな言葉になってしまいますが、失敗を失敗と捉えないようにしています。他人からは失敗に見えても、自分の中では終わっていなかったりする。何事も失敗ではなく、いったん「保留」という箱に入れてあるだけという感覚ですね。
たとえば、2012年に「studygift」という学費支援のプラットフォームを設立した時に、断念せざるを得ない事態に陥りました。でも、学費に関する課題は今後も増えていくと思っていたので、失敗したという認識はまったくなかった。反省すべき点は反省しつつも、いつか復活させようと。実際、今は「Crono」という奨学金の提供・返済支援プラットフォームでstudygiftでやりたかったことに再挑戦しています。
──奨学金をアップデートするという、7年越しの念願が叶ったんですね。
そうですね。うまくいかなかった時、一旦保留フォルダに入れておけば、以後もアンテナを張り続けられるんですよ。studygiftだって7年前に保留フォルダに入れたまま学費支援のNPO団体の方々などと情報交換をしてきて、ようやく花開こうとしている。選挙も同じで、社会に関わる手段としてやっぱり政治が有効だと思えたら、また出馬することだってあるかもしれない。
本当は失敗フォルダに入れて、綺麗さっぱり忘れてしまったほうがラクなんです。でも、たとえ10年、20年かかっても、悪あがきしながらチャンスを狙っていく。そういう姿勢は失わずにいたいです。他人に「失敗だったね」と言われるとイラっとするんですよね。失敗かどうかを決めるのは自分自身なので。ただ、気づくと保留フォルダがパンパンになっちゃっているんですけど(笑)。
──最後にお聞きしたいのですが、家入さんの挑戦の原動力になっているものは何ですか。
やはり「居場所をつくること」だと感じます。特に、声を上げたくても上げられない人のための居場所づくりです。それは、自分が10代で引きこもり、声を上げられる唯一の場所がインターネットだったことが原体験としてあるんじゃないかと思います。
もちろん、声を上げたからといって必ず成功するわけではないけど、それすらできない世界はしんどいじゃないですか。
だから、僕の人生をかけたミッションは、「誰もが声を上げられる社会をつくっていく」こと。そしてゆくゆくは、僕のもとから巣立ったさまざまな人が、僕なしで居場所をつくるようになればいい。僕が「概念」になれたら最高です。
──ありがとうございました!
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取材・文:榎並紀行(やじろべえ)
撮影:小野奈那子