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上場を目指すも「こんなんやってられん」と社長を辞めた|さくらインターネット田中邦裕の履歴書

田中邦裕さん(さくらインターネット代表)の履歴書を深掘りインタビューしました。 18歳でレンタルサーバービジネスを立ち上げた田中邦裕さん。社長一時辞任、会社の債務超過といったピンチを経て、見えてきたものとは。履歴書をもとに、これまでのキャリアをご本人の言葉で振り返ります。

さくらインターネット田中邦裕さん

Twitterのタイムラインや、メルカリにあるお目当てのアイテムの情報はどこから来るのでしょうか。答えは、サーバーです。インターネットにはさまざまな情報をしまっておくサーバーの存在が不可欠です。

いまから23年前、このサーバーに魅せられ、人にサーバーを貸す「レンタルサーバー」をビジネスにしようと考えた18歳がいました。現在、レンタルサーバーだけでなく、数多くの情報通信を支えるインターネットサービスを手がける「さくらインターネット」の代表、田中邦裕(たなか・くにひろ/ @kunihirotanakaさんです。

田中さんが生み出したビジネスは、日本にインターネットが定着していく流れに並走し、良いことも悪いことも含めた紆余曲折をたどってきました。その中で、田中さんの仕事観はどのように変化してきたのでしょうか。田中さんが記入した「キャリアグラフ」とともに、ご自身の履歴書を振り返ってもらい、成功と失敗の裏側を聞いてみます。

さくらインターネット田中邦裕さん履歴書

新社会人にして社長。でも「自分は経営者ではない」

ーーまずは、田中代表の社会人としてのキャリアの出発点を教えてください。

小学生の頃、ロボットを作りたいと思ったことでしょうか。その後、ロボットづくりにのめり込んでいったのですが、エンジニアとして生活していくという、自分のキャリアや人生の出発点はここだと思います。

ーーでは自分はあくまでエンジニア、という認識だったのですか。

5年ほど前までの僕にとっては経営ではなく、エンジニアリングこそ最もプライオリティが高い仕事だったんです。

田中邦裕さん:1978年、大阪生まれ。1996年、工業高等専門学校在学中に、18歳でレンタルサーバー事業をつくり出す。1998年に現在のさくらインターネットの前身となる会社を設立し、代表取締役となるが、2000年には一時退任。2007年に再び代表取締役社長に就任し現在にいたる。

ーーそれがいまは「経営者」であることが最もプライオリティが高い、と。では、田中代表のキャリアを振り返っていただきたいと思います。

さくらインターネット田中邦裕さんキャリグラフ全体

ーーさくらインターネットの最初期のビジネスは、田中代表が18歳のとき、当時通われていた高専の寮のなかで始まったと聞いています。

そのとおりですね。

ーーサーバーを貸す、というアイデアがビジネスとして成立すると当時から考えていたのですか。

考えていました。友人たちから「お金を払ってでも、サーバーを借りたい」という声を聞いていたので。当時、“サーバーを立ち上げる”という行為は比較的ハードルが低くなりつつありましたが、一方でサーバーを“使えるようにする”のはまだ世間では難易度が高かったんです。この難しさがビジネスになると考えたんです。

創業当初の田中さん。90年代後半〜00年代初頭はIT業界が盛り上がりを見せ、ホリエモン率いるライブドア社やサイバーエージェント社といった企業が急激に成長を見せていた頃。

ーー創業当時、いまのようにビジネスが成長すると考えていましたか。

いや、当時は「レンタルサーバーを仕事にすれば、食っていけるやろ」程度にしか考えていませんでした(笑)。ちゃんと会社にしようとか、上場しようなんて意識は全くなかったんです。上場企業なんて、テレビでしか見られないものだと思っていましたから。そもそも、きちんと組織化しよう、なんて考えたのもここ5年くらいの話ですよ。

ーー割と最近ですね(笑)。

以前は会社という組織があっても、「自分の仕事を手伝ってくれる分身がいる」くらいの感覚でしかなかったんですね。ですから「みんな、なんで自分と同じことができないんだ」と感じることも多かった。

ーーそうした考え方であると、20歳前後の社長業は苦痛だったんじゃないですか?

社長業以上にエンジニアリングに注力していたので、苦痛なんてなかったですよ。当時の私にとってはサービスを開発することが全てでした。なにしろ、90年代末から2000年の初めはIT市場が盛り上がっていて、サービスを出せば売れる、という状況でしたので。振り返ると、ユーザーサポートも足りていなかったかもしれません。

1999年、さくらインターネットが初めて借りた大阪の事務所。ここが初代データセンター(サーバーを集めて置いておく場所)となった。

ーー「出せば売れる」状況だったからこその強気を感じますね。

もちろん現在は違いますよ。顧客満足度を高めることには非常に注力しています。しかし当時は「気に入らなければ他社のサービスを使ってもらえばいい」と考えていた部分がありました。

お客さまだけでなく、会社の仲間にも同じように思っていたかもしれません。「嫌なら辞めていい」と。IT業界以外は不景気でしたし、仕事でエンジニアリングを学べるとあらば、人はたくさん来る状況でしたので。

会社は絶好調。でも組織に違和を感じるエンジニアとしての自分

ーーキャリアのグラフを見ていると、21歳(1999年)で、最初のピークを迎えていますね。

さくらインターネット田中邦裕さんキャリグラフ初期

会社は伸びていて、できて2〜3年程度の会社にもかかわらず、「300億円で会社を買いたい」という方が現れたり……。IT界隈が盛り上がっていたので、まあ、調子に乗っていました。

ーー当時の会社やビジネスの成長の要因はどのように考えていたのですか。市場の勢いに支えられていると考えていたのですか。

インターネットが社会的に「キテる」ということは明白だったので、市場の勢いはもちろん認識していました。そして、「サーバーを低価格で提供する」という自分のビジネスやエンジニアリングが持つ優位性にも自覚的でした。

当時、よその企業では何百万円もする高価なワークステーションでサーバーを立てていたのに対し、僕ならば10万円くらいで同じことができるのだから、それは破壊的なビジネスです。傲慢、ではなく自信があったという方が正確かもしれません。

創業当時のサーバーラック。手作り感あふれる見た目だが、これを武器に初期のビジネスは急成長していった。

ーー市場に勢いがあり、ビジネスの筋も良い。まさに勢いを感じる状況ですが、22歳以降、一挙にグラフが降下していますね。

ちょうど社長を一時退任したときですね。当時は上場を目指していたのですが、そうすると、社内の管理が必要、とか会社としての指針を示そう、といった話題が多くなるのですが、エンジニアリングが大事だった自分にとっては「そんな話をするために会社を作ったんちゃうぞ」と。

そもそも僕は、いいものさえ作れればいいと思っていた人間です。ある日、エンジニアリング以上に社内管理に注力するべきだ、みたいな議論をしていて「もうこんなんやってられん。辞めるわ」となってしまったんです。

ーー社長の辞め方としては……、あまり聞かないパターンですね。

「辞められたら困る」と慰留されて副社長として会社には残りましたが、そんなこんなでモチベーションが下がっているところに、IT市場の勢いもなくなって(ドットコムバブルの崩壊)、金策を考えなくてはならない。モチベーションもない、お金もない、全てがない、という状態で、かなりしんどかった記憶があります。

会社が債務超過の大ピンチ。「熱量」と「責任」の重要さを痛感

ーー「会社化」していく会社に違和感があっても、グラフを見ていると、2005年のマザーズ上場の後に向け、再び上昇していますね。

さくらインターネット田中邦裕さんキャリグラフ中期前半

上場してしばらくは業績は伸びていましたし、「上場企業の創業者」なので、みなさんチヤホヤしてくれるじゃないですか(笑)。調子に乗ってよく六本木なんかに遊びに行きましたし。

ーーすごく意外です(笑)。次のピークは29歳のときですね、なにがあったのですか。

会社が債務超過に陥り、僕が再び社長になったんです。オンラインゲームや、受託開発(他企業のシステム開発を受託し、開発を代行する)といった新たな事業が全く上手くいかなかったことがあって、負債が膨大なものになってしまったんです。

ーーそもそもなぜサーバービジネス以外の事業をやろうと思ったのですか。

オンラインゲームに関して言えば、当時の社長が「やりたい」と言ったことがきっかけでした。僕に関して言えば、ゲーム事業の是非を限界まで議論したかというと、おそらく答えはNoでしょう。議論してぶつかりあうことを避ける空気は、組織にとって望ましいものではない。そしてこうした空気感が生まれる根本は、僕自身にあるかもしれません。

2004年に主力事業だったレンタルサーバーの価格を1000円から125円に下げました。価格は僕が決めたものですが、絶対的な根拠があるわけでもなく、「まあ、125円でもいけるやろ」程度の感覚です。

ーー80%オフですか! 周囲から反対の声はなかったのですか。

当時は人数も少ない典型的な中小企業だったので、僕が「125円でいく!」と言えば、周囲は受け入れざるを得ないわけです。みんな「田中には何を言ってもムダや」と思っていたでしょうし。

こんな空気があるから、みんな指示されたことを淡々とこなすだけで、「それは違う!」と意見するような雰囲気ではありません。だから、オンラインゲーム参入を決めたときも、徹底的な議論が生まれなかったのかもしれません。そして、ゲームや受託開発が不調でも、それを口に出してなんとかしようとする人間も少なかった。

ーー誰も積極的に関わろうとしなかったのですか。

仕事の成功要因は、市場とかいろいろ言われますけど、僕は「中の人が、その仕事をやり続けたいか」という熱量が全てだと思うんですよね。特に僕らの仕事は、製品を売り切って終わりではなく、サービスを継続し続けないといけない課金ビジネスですから。

ーーしかし、ゲームも受託開発も誰かが「やりたい」と言ったビジネスだったのではないですか。

ゲームは確かに当時の社長が「やりたい」という想いを持っていましたが、それは会社の総意ではなかったのかもしれません。受託開発にいたっては「売り上げが上がりそうだから」という理由で始まったもので、誰かの熱量よりも、売り上げが優先されていたわけです。熱量を持てない仕事は当然のように上手くいかないんだ、と痛感しましたよ。

さくらインターネット田中邦裕さん横顔

ーー田中代表も、ゲームや受託開発には熱量を持てなかったのですか。

僕自身は、正直に言ってそこまで興味がなかった。ただ、本気で新事業に取り組む熱量が僕にあれば、言うべきことがあったはずです。「一つのサービスに集中すべきではないか」とか、状況が悪ければ「早々に撤退すべきではないか」とか。

会社が崖に向かって走っていることを知っているのに、止める人間がいない状況です。僕自身、無責任でした。

再度社長に就いたときは、僕から「自分が引き受ける」と伝えたんです。会社の状況が悪くなっていったのは、当時の社長だけの責任では決してない。初めて自分が責任を持たねばと感じた瞬間だったんですよ。

効率化の先に感じた、「成長しないとあかん」

ーー同時にグラフも山場を迎えています。

さくらインターネット田中邦裕さんキャリグラフ中期後半

就任当初はかなりモチベーションが高かったので。ただ、社長を再度引き受けるといったものの、かなりきつい仕事が待っているわけです。社内への説明はもちろん、大変なのは金策です。

債務超過を乗り越えるために資金を用意しないといけなかったのですが、2007年の暮れから翌年始にかけて、いろんな人に会っては、自分が持つ会社の株を担保に「お金を貸してください」と頭を下げ続けなくてはいけない。なんとか資金は借りられましたが……。

正直に言えば、途中で自分自身「もうあかんかもしれん」と考えたこともあります。ただ、会社の幹部に「田中さんが諦めるなら仕方がない。でも、それでいいんですか」と言われ、「せやな。諦めたらあかん」と思えたんです。

同じように苦境に陥って、そのまま解散してしまう会社もたくさんあります。でも、当たり前の話ですけれど、たとえ光明が見えなくても、諦めなければ続いていくんです。

ーー諦めずに急場をしのげても、当然そこで終わりではないですよね。

そうですね。当時の僕のやるべきことは、会社から出ていくものをいかに少なくするか、いわゆるリストラクチャリング(事業の再構築)です。幸いなことに、売り上げはありましたので、コスト、経費を削減できればなんとかなるという見通しはありました。債務超過以降、辞める人も多かったので人件費もセーブできた。

ーーいわば効率化ですね。

そう、当時考えていたのは効率化“だけ”ですね。新しいビジネスを作るこもともなく、撤退すべきことから撤退する。それが全てです。

ーー社長再就任以降、グラフが落ち始め、その後しばらくフラットな状態ですが。

さくらインターネット田中邦裕さんキャリグラフ後半

グラフが落ちることに明確なきっかけがあったわけでなく、会社を再建していく中で、「社長らしく振る舞う」ことに疲れてきたことがあります。その後、効率化を推し進めていった期間がグラフのフラットな部分です。

ただ、会社自体には動きがあった時期です。例えば、2011年に日本では当時珍しかった郊外型のデータセンターの「石狩データセンター」を作っています。これは、実はコストカットの一環として取り組んだものだったんです。都心部にサーバーを集約したデータセンターを作るよりも、郊外に作った方がコストはかかりませんから。

しかし、このデータセンターが業界内外ですごくポジティブに受け止められたんです。反響を聞いていくうちに、石狩のプロジェクトはコストカットではなく、チャレンジの一つとして、僕の中でも位置づけられるようになっていったんです。同時に2011年前後はクラウドが徐々に浸透してきて、サーバーを取り巻く市場やトレンドが大きく変わりつつある時期でした。

ーーレンタルサーバーが、文字通りサーバーを貸すビジネスであるとすれば、クラウドはサーバーの持つ「機能のみ」を提供するものですよね。さくらインターネットでも2011年に新サービスの「さくらのクラウド」を提供されています。

そうですね。市場変化の影響もあって、会社全体の成長が鈍化していると感じるようになってきたんです。しかし一方では、「さくらのクラウド」のような一部の新サービスは成長している。こうした状況を目の当たりにして、「会社全体が成長しないとあかんな」と心底思ったんです。成長する余白が必要なんだと気づき始めていました。

仲間の技術を信じ、経営者になる

ーーそれが2014年頃ですね。コストカットや効率化が命題だった頃と比べると、大きな転換ですね。

同時期にスタートアップ企業がどんどん出てくるようになってきて、私もそうした新興企業の社外取締役やメンター(指導的な役割)をお願いされることが増えてきたんです。すごいスピードで成長するスタートアップを見ていると、成長できていない自分や会社では顔向けできない、というのも転換の理由の一つです。

ーー先におっしゃっていた、ご自身が経営者になった、という転換点もこの頃でしょうか。

そうですね。会社の転換点、そして自分の転換点になったのにはもう一つ理由があって、それはテクノロジーの多様化です。いろいろなテクノロジーが次々と生まれるので、僕一人ではとても対応できません。

過去、社員の技術を頼ることはありましたが、それは自分にやる時間がないから頼んでいたにすぎません。それが、「自分にはできない専門性を持った社員に任せる」という感覚に変わっていったんです。

ーー社員の方を「自分の分身」と見ていた頃とは状況が大きく違うわけですね。しかし、ずっとエンジニアとして自分のキャリアを定義してこられた方にとって、他者の技術力に依存する状態を認めるのは難しいことではないでしょうか。

確かに、少しハードルはありました(笑)。ただ、実際に社員が結果を出して、会社の業績が上がっていることを目の当たりにしたら、素直にみんなに頑張ってほしい、楽しく仕事に臨んでほしいと思うようになりましたね。

例えば自社サービスに触れてみて、管理画面なんかを見ていると、「これはよくできてるな」と思うこともありますし、営業面でもそうです。最近、国の大型案件を獲ったりもしますが、結果を見れば「よくそんな営業ができたなあ」と。プロジェクトメンバーは単純にすごいと思いましたよ。

ピークは自分の手で、いい会社を作ったと思えたとき

ーーいまの会社の状態はどうですか。

会社はだいぶ良くなってきていて、働きやすさという意味ではだいぶ高まったと思います。しかし、僕はみんなの仕事が社会の役に立っている、誰かの役に立っているという状態を作りたい。もっとも僕自身はそんなに仕事が好きなわけではないのですが(笑)。

ーーそうなんですか!?

仕事を辞めたらどんな生活になるだろう、と考えますよ(笑)。ただ、僕はダイビングが趣味なんですけれど、仕事を辞めて毎日ダイビングをしていたら刺激的かというと、決してそうではないですよね。好きではないけれど、続けられるのは、仕事の先に得られるもの、刺激があるからです。

ーーお給料以外の得られるもの、ということでしょうか。

お金だけが目的でもつまらなくなるでしょう。しんどさを上回る刺激、給料以外に得られるものがあるから、仕事を続けていけるという状態が一番健全なのだろうと思います。

働きやすさ、というのは仕事を「辞めない」理由ですが、大事なのは「続ける」理由です。社員が仕事を続けたいと思うのは、誰かから仕事上で良いインパクト受けること、そしてインパクトを受けたら今度は他の誰かにインパクトを与えるという関係性です。こうした関係性がある会社にしたいと思っているんです。

ーーまさに経営者的な視点であり、喜びですね。最後ですが、今後、田中代表のキャリアがどのような状態になったら、グラフが最も高くなると思いますか。

全てがデータで証明されたときでしょうね。社員の働きがいがピークに達する。売り上げも株価も上がって、「時価総額1000億円!」のようになる。こんな風に、これまでやってきたことの正しさが定量的に証明されたら、きっと大きな達成感を感じるでしょうね。そんな瞬間を作りたいんです。

市場に恵まれたから、という外的な要因ではなく、自分の手でいい会社を作り出したと言えれば、それがきっと自分にとってのピークなのだと思います。

ーーなるほど。

そして最もいい状態のときに僕は辞めたいなと思います(笑)。

ーー聞かなかったことにしておきます(笑)。

まだまだ辞める予定はありませんので安心してください(笑)。

ーーありがとうございました!

撮影:赤司聡