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「面白そう!」から始まった81歳のアプリ開発。好奇心が自分の世界を拡大する|若宮正子の言葉

80歳を超え、スマホアプリ開発を始めた若宮正子さん。パソコン通信、インターネット、そしてVRなど、興味に導かれるままにテクノロジーに触れ、ご自身の世界を拡張し続ける、その好奇心はどこからくるのでしょうか。そして、シニアだからこそ伝えられる、言葉とは。

若宮正子さんメインカット

AppleのCEO、ティム・クック氏は彼女を「世界最高年齢のアプリ開発者」と紹介しました。若宮正子さん、このとき82歳。「面白そう」の一心で、58歳でパソコンに触れ、やがてプログラミングを学び、独自にシニア向けスマホアプリ「hinadan」を開発し、リリースしました。

以降、講演や書籍執筆、ときに政府に招集された有識者など、幅広く活躍するようになりましたが、若宮さんは「面白そうと思うものに飛び込んでいったら、たまたまこうなった」と、きわめて自然体です。

今回は『ぼくらの履歴書』特別企画として、「履歴書」にとらわれることなく、人生を充実させる若宮正子さんに、その半生を振り返っていただきました。パソコン通信、インターネット、そしてVRなど、興味に導かれるままにテクノロジーに触れ、ご自身の世界を拡張し続ける若宮さんの、尽きない好奇心がどこからくるのか。若宮さんの言葉は、「これからを生きる人たち」にとっても、示唆にあふれるものでした。

若宮正子さんのプロフィールカット


若宮正子さん:1935年生まれ。高校卒業後、三菱銀行に入社。1993年に自身初のパソコンを購入し、デジタルライフを積極的に楽しむように。1999年にはパソコン通信フォーラム「FMELLOW」を前身とする、シニア向けオンラインコミュニティサイト『メロウ倶楽部』の設立に参画。現在も同クラブの副会長を務める。2017年にスマホアプリ「Hinadan」を制作したことがきっかけとなり、Apple社が主宰するカンファレンス「WWDC 2017」にゲストとして招かれ、CEOより聴衆に紹介された。以降、講演、書籍出版活動などを行うかたわら、デジタル庁の有識者会議メンバーなども務め、「シニアとデジタル」を軸に積極的に発信を続けている。

新しいものに取り組むのが好きで企画開発部に異動になった会社員時代。そして、パソコンとの出会い

──アプリ開発やエクセルアートなどITを使いこなす高齢者として知られる若宮さんですが、お仕事に就かれたころは、まだコンピューターは一般に普及していなかったころだと思います。

銀行に勤めていましたが、私が入社したころはまったく機械化されておらず、すべて人手に頼っていました。やがてコンピューターが導入されるようになってきたのですが、当時の銀行のコンピューターというと、「メインフレーム」っていうとても大きなもので、それ専用の部屋があった時代です。重役の部屋をさしおいて、真っ先にメインフレームが置かれたお部屋には冷房が入れられるような扱いでしたから、まるで“コンピューター様”ですね(笑)。それほど高価で貴重なものでしたから、そもそも一般社員が触るという機会はほとんどなく、コンピューターのメーカーの方が常駐していて、稼働を見守っていました。私ももちろん直接仕事で使ってはいなかったんですが、企画開発セクションに異動になったことで、コンピューター部門の人と交流を持つようになりました。

──キャリアの途中で部署を異動されたんですね。

それ以前の部署にいたときから、新しいものに取り組みたいという思いをいつも持っていました。やたらに業務改善提案を出していたので、その結果、企画開発部に異動になったのだと思います。昭和40年代頃のことです。


企画開発部では、複数の金融機関の間の口座振替を一括代行するするサービスを手掛けたりしていました。他の銀行との提携などを担当していたんです。その後、管理職に就いたのですけれど、当時は女性の管理職っていう存在が珍しかった時代なので、取引先に行くと、関係ない部署の人が見物に来たりして(笑)。

──今とは隔世の感がありますね。

その後、コンピューターの方もだんだん小型化してきて、最後にはみんなの机の上にひとつずつ乗っかるような時代になりましたから、本当にそのとおりだと思います。

若宮正子さんの笑顔

──1990年の初頭にパソコン通信に出会います。なにがきっかけだったのでしょうか。

雑誌をパラパラとめくっていたら「パソコン通信」っていうのがあるということを偶然知って「これは面白そうじゃない!」と思ったのがきっかけでした。なにか明確な目的があったということではないんですけど、とりあえずパソコンを買っちゃった。40万円ほどした記憶がありますので、かなりの衝動買いですね(笑)。

ただ、パソコンといっても当時のものは買っただけでは通信はできず、外付けのモデムもソフトも用意しなくちゃいけないんです。なにをするにも作業は大変で、たとえばバックアップをとるには、フロッピーディスクを何枚も何枚もコンピューターに入れたり出したりしなくてはいけなかったのですよ。

──費用もかかると思いますが、手間もたいへんです。始めるだけでも、すごいハードルが高いですね。

3ヶ月ほど悪戦苦闘して、ようやくパソコン通信のNIFTY-Serveにつながって、「ようこそ」というメッセージが出てきたときは嬉しかったですねえ。

NIFTY-Serveはテーマ別にフォーラムが設けられていて、興味のあるものに参加して掲示板に書き込むことで交流ができます。私は旅行やお料理、あと、「FMELLOW」というシニア向けのフォーラムに参加して、コミュニケーションを楽しんでいたんです。そうしたら、そこには今までとは全然違う人との出会いがあったんですね。「これは面白い世界だ!」と思いました。

ある日、お料理のフォーラムのオフ会があるというので参加したときのことです。きれいなお姉さまが大きいハンドバックを持って参加していらしたんですけど、いざ食事となって、そのバッグを開けると中には2段に分けてぎっしり世界中のスパイスが詰まっていたんです。てっきりお化粧品が入ってるんだと思っていたのに(笑)。そんなユニークな方々と、パソコン通信を通じてたくさん出会える。私もどちらかというと型にはまった考え方をしない質なので、相性がよかったのかもしれませんね。

パソコン通信が閉鎖され、仲間とともにインターネット上に拠点を移す

──若宮さんが参加していたフォーラム「FMELLOW」はシニア向けということで、ほかの趣味のフォーラムと比べると異色です。

「FMELLOW」はそこに集う方々同様、出自もユニークでした。当時の通産省のちょっと変わったお役人さんの「パソコン通信の中に老人会を作りなさい」という指導の影響のもとにできたフォーラムだったんですね。NIFTY-Serve以外のパソコン通信にもシニア向けのフォーラムはあったんですけど、他はあまり盛り上がらない中、なぜか「FMELLOW」はずっと続いていて、会員の方も増えていきました。

参加したてのときは、私もリテラシーがなかったので、いろいろ失敗しましたよ。投稿した文字が全部文字化けしちゃったり、同じ文章を何回も投稿したままにしていたり。ずいぶん先輩方に叱られましたね(笑)。

といっても、私自身はあまりそうは思っていなくって、後からメンバーのお友達に「よくめげずに続けられましたね」と言われてから、「あ、私は叱られていたんだ」と気付くくらいでしたから(笑)。でも、叱りながらも教えてくれるわけですから結構なことで、私にとって「FMELLOW」は学校みたいなものだと思っています。

パソコンを操作する若宮正子さん

──なるほど、そういうことを教えてくれる人たちがいる「場」の役割があるわけですね。

「場」があって、そこに集う方々から教わるというのが、一番自然な学びかたなんです。でも、そのあと「場」がなくなってしまった。私たちは“家なき子”のようになっちゃったんです。

──というと?

1995年にWindows95が発売されて、それとほぼ同時期にインターネットが一般の家庭に普及すると、パソコン通信は振り向かれなくなってしまったんです。やがてNIFTY-Serveが、閉鎖されてしまうことになってしまった。

そこで、当時の「FMELLOW」の仲間たちといっしょに、「だったら、もう自分たちで会を立ち上げよう」ということで、会員制の「メロウ倶楽部」を作ったんです。自前でサイトを作ったので、借家から一戸建てへお引越ししたようなものですね(笑)。近年だとFacebookのWorkplaceを使った活動をしています。

──「メロウ倶楽部」ではみなさんでどんな活動をされているんですか?

俳句の部屋とかプログラミングの部屋とか、いろいろな活動があります。Zoomを使って勉強会とかお楽しみ会をやったりもしますね。みんなでいっしょにZoomで音頭を踊ったり(笑)。

──Zoomを使いこなすというのは、コロナ禍ならではですね。

シニアだってやればできる、と言われます。そして、確かにやればできるんです。そもそもメロウ倶楽部はオンライン上ですべてのサービスが楽しめるようになっているので、コロナ禍にあっても影響を受けず、活動を続けられました。20年以上前に設立したときから、年次総会もオンラインです。

──たしかに、そもそもの始まりがオンラインのフォーラムでした。しかし、長い間、ずっとつながりが続いているというのは驚きです。

メロウ倶楽部ができたのが1999年で、パソコン通信の時代を入れると30年近くになります。今90代でアクティブな方も7人ぐらいいます。メロウ倶楽部の方々が、だんだん自分の家族みたいになってきました。いつのまにか、絆ができ上がっていましたね。

エクセルアートとアプリ開発で時の人に

──若宮さんが注目されることになったことのひとつに、「エクセルアート」があります。普通は事務に使われるExcelをまるでデザインソフトのように使う斬新な発想ですが、どのように生み出されたのでしょうか。

私と同世代の人にパソコンを教えていたときに、「コンピューターとは何か」というコンセプトをつかんでもらうためにはExcelが妥当だと思ったんです。でも、Excelってみんなあまり好きじゃないのね(笑)。だったら、前向きに興味を持ってもらえるよう、人目を引く「ショー」を実演するのがいいんじゃないかと思ったんです。罫線をひいたり、セルに色を塗ると図形を書けるので、それで使い方を覚えてもらおうと。ところが、やってるうちに自分がはまっちゃって(笑)。描いた柄を布地にプリントして、洋服まで作るようになっちゃった。自分の着たい服を自分で作るって面白そうでしょ。

若宮正子さんのエクセルアート

──それなら、みんな楽しんでパソコンに取り組めそうです。

「楽しい」ってとても大事です。私がパソコン教室を始めたのも、自分が楽しいと思ったパソコンを同年代の人にもぜひ知ってほしいと思ったからなんです。だから、スマートフォンが流行りはじめると、これも楽しんでもらいたいと思うようになって。でもね、お年寄りでも楽しめるアプリがない。それなら誰かに作ってもらえばいいじゃない、とあちこちに頼んでいたら、「お年寄りが喜びそうなものは、僕らじゃわからない。若宮さん、自分がお年寄りなんだから自分が作るのが一番いいよ」って言われたんです。それで、自分で作ることになっちゃった。と言っても、いろいろな方に教えてもらって、イラストもナレーションもお友達に手伝ってもらって、それででき上がったのが「hinadan」です。

hinadanの画面

若宮さんに注目が集まるきっかけとなったアプリ「hinadan」。もちろん、いまもダウンロード可能だ。


──お雛様の並べ方を学べるゲームですね。これが「最高年齢のアプリ製作者」として、若宮さんがAppleのCEO、ティム・クック氏の目に留まるきっかけとなりました。

もともと仲間内のイベント「電脳ひな祭り」でささやかにお披露目をするつもりでやっただけだったんですけど、面白いから公開しちゃおうよ、って周りの人たちにそそのかされてしまった(笑)。

アプリ自体は正直いって幼稚なものなので、まさか世界中で騒ぎになるなんて思ってもみませんでした。だからAppleからWWDCへの招待メールが来た時も、はじめはペテンじゃないかと思ったし、一度お断りしちゃったんです(笑)。だけど、「CEOのティム・クックが会いたいと言っている」と聞いて、会社で一番偉い人からのお誘いをお断りするっていうのも失礼でしょ。それで参加しました。

──ところでエクセルアートの布で作った服は実際にお召しになりました?

テレビ番組の『徹子の部屋』に着て出演したり、2018年の園遊会にも着ていきました。園遊会では天皇陛下に面会するわけですから、普通はそれなりのお着物を着て、美容院でふさわしいメイクをやってもらったりするらしいんですけど、自分の好奇心が「それじゃ面白くない、ダメだ」って私に囁くんです(笑)。

それじゃ、ということでお友達の縫物の上手な人に頼んで、エクセルアートの布を使ってちゃんとくるぶしのところまで丈があるロングドレスを縫ってもらいました。バッグもどうしようかなと思って、これも月並みなハンドバッグじゃダメ。そこで、子供たちが遊びに使うアイロンビーズでベースを作り、プログラムができる子供向け基盤の「IchigoJam(イチゴジャム)」を入れて、LEDがピカピカ光るようなハンドバッグを作っちゃったんです。本当はパチパチ音がしたらもっと楽しいと思ったんですけど、友達に「入口で時限爆弾と間違えられるからやめなさい」って(笑)。

若宮正子さんが園遊会に出席した際の衣装

園遊会に出席した際の衣装。若宮さんの手によるエクセルアートでデザインされたドレスと、手に持つのはLED仕掛けのオリジナルハンドバッグ。(画像は若宮さんより提供)

──それは大事になってしまいますね(笑)。

忠告を守って音は出さなかったので、セキュリティも無事に通過できました(笑)。当時の美智子皇后陛下がご覧になられて喜んでくださっている様子がテレビに映って、そうしたらドレスを縫ってくれた友達や、バッグを作るのにいろいろ教えてくれた秋葉原のお店のお兄さんもすごく喜んでくれたんです。ほんとうは私はあまり前に出たいという人間ではないんです。でも、皆さんが喜ぶのであれば自分がその中継ぎをやるのもいいなと思っています。

シニアにデジタルの力が持つ意味を伝える。いま、注力すること

──一躍有名人になってしまった若宮さんですが、その後もどんどん活躍の場を広げていらっしゃいますね。

海外で評判になって日本に帰ってきたらいろいろ声がかかるようになったんですね。内閣官房から「人生100年時代構想会議」の有識者として呼ばれたり。私自身、知らないことばかりなのに“有識者”なんてとんでもないと思ったんですけど、その一方で、私の中の好奇心がまた「首相官邸に入って大臣が普段どんなことやってるのか見られるなんて面白いじゃない」って言うわけです。その好奇心と、必要とされる以上は精一杯やってみようと思う気持ちもあって引き受けることにしたんです。

若宮正子さんの横顔

政府は「誰一人取り残さないデジタル化」を掲げています。私は高齢者の立場から物を申せということで、メンバーに連なっているのでしょうから、私と同じ高齢者の方々のためにも頑張って言葉を伝えていかないといけないと思っています。

いまデジタル庁や、その他の役所のさまざまな会議に三日とあけずに参加しています。この前も議論があったんですけど、「デジタルシフトを望まない人は、そうと考える権利がある」と。もちろん、その通りだと思います。しかし、そもそもデジタル化のメリットについて知らない人、気づいていない人もいるんです。知ったうえでデジタルシフトを望まないというのであれば、それはひとつの選択ですが、そうでないならデジタル化の意味をきちんと知らせなければいけないですよね。でもデジタルデビューさえしていない人には、オンラインでどんなに言葉を尽くしても届けられません。

──当事者でなければ、はなかなか指摘できない要素ですね。若宮さんはたくさん講演もされていて、発信活動にはとくに注力されているように見えます。

デジタルの力を活用すれば、さまざまな立場の人を救える、と講演ではお伝えしています。印象的なことといえば、東日本大震災の被災地で講演したときのことですね。つらい体験をされた高齢者の方も来てくださっていて、私なりに精一杯のプレゼンテーションをやりました。

そのときは、避難指示がでると携帯電話やスマートフォンには届くけど、固定電話には届きにくい。でも、一刻も早く非難しないといけない高齢者が使っているのは固定電話なんです。固定電話への防災情報配信サービスもありますが、一斉同報の避難指示は素早く届きません。デジタルの力で、もっと届きやすくなるよう解決していかないといけない、というような話をしました。そうしたら、講演後に、わたしよりももっと高齢の女性が私のところに来て、自分がしていたスカーフを私の首に巻いてくれたんです。寒い日でしたね。本当は私があの方にスカーフを巻いてあげなきゃいけない立場なのに、と心を動かされました。

若宮正子さんのスローガン

──自分たちのことを同じ立場で考えてくれている人がいるということに感銘を受けて、そういう行動をされたのかもしれませんね。

講演の内容もご理解いただけたと思いますけど、自分と同年代の人がきて、こういうスライドを使ったプレゼンテーションをしているということ自体から、活力を得てくださったのではないかと思います。

活動のステージはVRへ。まだまだ拡大する世界

──今の活動のきっかけとなったアプリづくりはその後も続けられているそうですね。

2本目のアプリとして、七草の種類をクイズに答えながら学べる「nanakusa(七草)」をリリースしました。この制作のときは、コーディングの前に音づくりに凝っちゃって(笑)。BGMだけじゃなくて、ゲームに成功したときのファンファーレとか、SEも全部自分で作りました。

nanakusaを操作する若宮正子さん

──前作よりさらにクオリティがアップしていますね。そのほかの活動はどうですか?

最近はVRの仲間ができています。「熱中小学校」というプロジェクトがあって、そこで先生をしている人に誘われて始めてみたんですけど、VRはとても面白いですね。これは、いままでとは別のところから生まれたつながりです。

──「熱中小学校」は、地域創生のためにさまざまな職業・地域の大人が生徒となって集い、学び、交流するという大人の学び舎ですね。若宮さんも先生をやっていらっしゃいます。

この熱中小学校の先生も個性に富んだ方が多くて面白いんです。誘ってくれた方はハワイに住んでいるんですけど、「僕や仲間が教えるからVRやろうよ」って。新しい技術はやっぱり、詳しい人たちに交じって学ぶほうがいいですね。自分だけじゃ設定も大変ですから。

この前、私がVRにつないでいる様子がテレビ局に取材されたんですけど、私はお釜みたいなヘッドセットをかぶっていますから、外の人からは見ている風景がわからない。そうしたら、お仲間が家に来て、パソコンにつないでみんなからも見えるようにしてくれたので、ハワイの方と、ハグしたりしているところがテレビに映っちゃいました(笑)。

──VRの世界に入ることで、空間も年齢も超越してしまっていますね。

それだけじゃなくて、実はVRって、高齢者の健康維持やリハビリにも役立つように思います。例えば卓球でも、VRだと打ちかえすと派手な音がして、ゲームとして楽しいからどんどんやりたくなります。対戦相手に気を使わなくてもいいし、家でもできて、気づくと腕が前より動くようになっているんです。こうした運動効果が得られるから、シニアにもお勧めできる。ただ、ちょっと疲れますね。私も朝、目を覚ましてなんだかぼんやりするなと思っていたら、そういえば前の日に長時間VRをやっていたなって(笑)。

──テクノロジーの進化をいち早く利用して、次々と新しいものにチャレンジし、いろいろな仲間を増やしている様子には驚きます。それ以前はどうしていたのでしょうか。

もともとが好奇心旺盛で、新しいもの、見たことのないものに触れるのが大好きだったんですね。大人になってからは、旅行によく行っていました。外国への興味は子供のころからあって、中学校の時に初めて東京に来てまずしたことは、海外旅行のパンフレット集めでした。当時、世界中のエアラインがオフィスを構えるビルが有楽町にあって、そこへ行って海外旅行のパンフレットを集めていたんです。まだ辺りは焼け野原の時です。

実際に初めて海外旅行できたのは1970年代で、40歳を過ぎての頃。たしか香港に行ったんじゃなかったかしら。そのあとは、いろいろなところに一人で出かけていくようになりました。

──当時は旅行に行くことで新たな人に出会い、世界を広げていったのが、テクノロジーの力で実際に行かなくても実現できるようになった。若宮さんにとっては最高の時代ですね。

普通、友達を持つというと、身近な家族や近所に住んでいる人、あと仕事仲間とかですから、血縁・地縁・職縁ですよね。でもネット上では、どこに住んでいようとも、どんな仕事をしていようとも関係なく、人と知り合えます。

若宮正子さんの笑顔再び

いろいろな人と付き合っていろいろ世界を知ると、もっともっと知りたくなる。好奇心があとからあとから湧いてくるんです。常識って一人ひとりがみんな持っているもので、ひとつではないんです。自分の世界が広がると、それがよくわかります。

ご近所さんにも「若宮さんの時代が来たのよ、だから毎日忙しいのよ」なんて言われます。昔は「変な婆さんだ」なんて目で見られたこともあります。でもね、「変な婆さん」をしていて、嫌だったかっていうとそうでもない(笑)。ずっと楽しんで時間を過ごしてきたんですから。

取材・文:森嶋良子
撮影:小野奈那子

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