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佐久間宣行の履歴書|「お笑いでは結果を残せないかも」悩み続けた先に『ゴッドタン』があった

『ゴッドタン』『あちこちオードリー』など人気お笑いバラエティ番組のプロデューサーを務める、テレビ東京・佐久間宣行さんの履歴書を深堀りします。「ずっと、自信がなかった。でもその自信のない性格が、僕をここまで連れてきてくれたように思います」。そう語る佐久間さんは、今ではテレビ番組のプロデューサーとしての活動だけではなく、自身のラジオ番組を持つなど各所から引っ張りだこです。20代でのたくさんの悩みや回り道があったという佐久間さんに、現在の場所にたどり着くまでのエピソードを伺いました。

佐久間宣行さんの履歴書メインカット

※この記事は2021年1月の遠隔取材をもとに構成しています。

佐久間宣行(さくま・のぶゆき/ @nobrockさん。『ゴッドタン』『あちこちオードリー』など、数々の人気番組のプロデューサーであり、深夜ラジオ番組の金字塔「オールナイトニッポン0(ZERO)」でパーソナリティを務め、全国のリスナーから「船長」と呼ばれ親しまれる──。彼のエンタメ界での活躍ぶりを目の当たりにするほどに、さぞかし華麗なテレビマン遍歴を持つのだろう、と私たちは想像します。しかし、佐久間さんはご自身のこれまでの歩みを振り返り、「自分に向いている仕事が何なのかずっと分からなかった」と語ります。

怒られてばかりの現場で、転職を考えてばかりだった1年目。お笑い番組を手がけるも、数字が取れない日々。組織の中での葛藤。おぎやはぎ・矢作さんの一言でやっと見つかった自分の強み。もがき続けた先に大きなヒットを手にした、佐久間さんに、これまでの仕事人生をじっくりとお聞きしました。

佐久間宣行さんの履歴書

佐久間宣行さん:1975年生まれ。福島県出身。テレビ東京プロデューサー。早稲田大学卒業後、テレビ東京に入社。『TVチャンピオン』などで経験を積みながら、入社3年目の社員では異例のプロデューサーデビュー。その後『ゴッドタン』のプロデュース・総合演出を務めるほか『有吉のバカだけど…ニュースはじめました』『あちこちオードリー』などを担当。ニッポン放送『オールナイトニッポン』シリーズで、現役テレビ局社員として史上初のレギュラーラジオパーソナリティを務めるほか、活躍範囲を広げている。

エンタメは生涯「見る側」だと思っていた学生時代、テレビ東京入社のきっかけは記念受験

──キャリアグラフを見る前に、佐久間さんがテレビ東京に就職することになった経緯をお聞きしたいです。先日、Twitterで「就職活動の時にニッポン放送落ちて凹んでたあの頃の俺に」と書かれていましたが、やはりマスコミ業界を目指して就職活動をされていたのですか?

佐久間宣行さんインタビューカット1

実はとくにマスコミを目指していたわけではなく、就職活動ではメーカーや商社なんかも含めて30社ほど受けているんです。その中にマスコミも何社か含まれていますが、それは記念受験のつもりで受けていました。というのも、大学で広告系のサークルに約2年間所属していて、そこで作り手としての才能に恵まれた人をたくさん目の当たりにして、自分は「作る側」の人間ではない、と思い知ったんです。

だから、就活はメーカーと商社が中心。実際に複数社から内定をいただいていたんですよ。とくにメーカーの就活がうまくいったな。ガンガン内定が取れたから、僕はきっとメーカーに向いてるんだろうって思っていました(笑)。

──そうなんですか!てっきりマスコミを志望されていたのかと思っていました。

いやいや、そんなことないんです。でも、学生時代も今と変わらずエンタメを見るのが大好きで、とにかくさまざまなジャンルのコンテンツを見ていましたね。フジロックをはじめ、代表的なロックフェスの初回にはほとんど行っているし、舞台も当時盛り上がっていた三谷幸喜さんや大人計画さんの作品はほとんど観ている。僕は、「作る側」じゃなくて「見る側」の人間として、一生いろいろなものを見て楽しく生きていこう、なんて思っていました。

──では、記念受験したマスコミ企業の中に、テレビ東京があったと。

そうですね。僕が就活をしていたのは1999年なんですが、当時はマスコミ業界の面接の開始時期が、どの業界よりも早かったんですよ。だから多くの学生は記念受験、もしくは面接の練習のために、とりあえずマスコミは何社かエントリーしておく、みたいな流れがあったんです。僕もご多分に漏れずにそうでした。

でも、いざ受けてみると、フジテレビの入社試験ではなぜか役員面接まで進んだんです。

──フジテレビといえば、かなりの難関ですよね。なぜそこまで進めたのだと思いますか?

たぶん、エンタメ関連の知識が他の人よりもあったからじゃないかな。僕にも「自分ほどオールジャンルにエンタメを見ている人ってめったにいない」という自負はあった。試験が進むなかで、ある面接担当の方に「きみ、マスコミ業界を目指した方がいいよ」と言われて、そこから「じゃあ他にも受けてみるか」と。そのタイミングで出願が間に合ったのがテレビ東京だったという感じです。

──それで内定をいただいたんですね。

そうです。でも、学生時代は自分がどんな仕事に向いているのか、本当に分からなかった。だからテレビ東京から内定をもらったときも、承諾していいものかどうか、すごく悩みました。人当たりがいいとかプレゼンがうまいとか、大学時代に見つけた自分の長所を考えたときに、僕に向いているのはメーカーの営業職なんじゃないかな、と本気で思っていたので。

テレビ東京から内定をもらったことはとても嬉しかったですし、もちろん行きたいと思っていましたが、それ以上に「僕にできるのかな?」という不安が邪魔をしていました。「テレビ局はハード」って話はよく聞くし、自分がおもしろい番組を作れる才能があるとも思えない。テレビ局に入っても、制作部で通用しなくて結局他の部署に飛ばされるんじゃないか、みたいにネガティブなことばかり考えていました。結局、さんざん考えて、たくさん悩んで、最終的には「一番行きたいのはテレビ局だ」と思い、飛び込んでみることにしたんです。

入社1年目、同期で唯一深夜ドラマチームに配属。ハードすぎる毎日で転職を考える日々

──晴れてテレビ東京に入社。しかし入社早々、キャリアの状態がどん底ですね。

佐久間宣行さんのキャリアグラフ1

そうなんです。先ほどお話ししたように、僕は「テレビ局でやっていけるのかな」という不安しかなく、「こういうディレクターになりたい」みたいな確固たる指針があったわけではありませんでした。コント番組を作りたいと思っていたけれど、「テレビ東京でコント番組の制作をするのは厳しいよ」と配属面談で言われ、そうなのかーって(笑)。当時、テレビ東京ではコント番組の前例がなかったんですよね。結果、初期配属は深夜ドラマのチームでした。ADを担当したのですが、その現場がものすごくハード(笑)。

──深夜ドラマのAD……。想像するだけでも、とてもしんどそうです。

めちゃくちゃきつかったですね。深夜ドラマって本来は新卒が配属される現場ではないんですが、僕が入る2週間ほど前に、アルバイトのADさんが2人も突然辞めてしまって。それで、身長が183センチほどあって体力がありそうな新入社員がいるということで、僕が急遽ADとして配属されることになったんです。会社からすると「応急処置」のようなものだったと思います。

佐久間宣行さん入社1年目、深夜ドラマのAD時代の写真

入社1年目、深夜ドラマのAD時代の1枚。エキストラでチーマー役を演じたときに髪をスプレーで染めた。

制作でやっていく覚悟もなかったのに、ダントツでハードといわれる現場に配属されて、家に帰れない日が続いて、毎日がしんどくてしんどくて……。ドラマのADってとにかく怒られるんですよ。現場の監督さんにも怒られるし、先輩たちにも怒られる。つらくて転職することしか考えていなかったですね(笑)。

──そのときに辞めようと思わなかったのはなぜですか?

まだ1年目でしたし、第二新卒として他社を受けられる期間のうちに、この会社を辞めるかどうか判断しようと思っていました。僕の場合、3年目になるまでに判断しようと思って働いてましたね。だから、ただ後ろ向きに仕事するのはやめて、2年間だけは一生懸命やってみようと思っていたんです。

入社3年目で異例の大抜擢でプロデューサーに。直後に訪れた挫折

──2年目からはバラエティ担当に異動されています。これは佐久間さんの意向、それとも会社からの指示でしょうか?

会社からの指示ですね。ヘルプで入った深夜ドラマが終わり、新入社員がとおる王道のルートにやっと戻されたという感じです。でも、ほかの同期はバラエティのADをすでに1年間やっているのに、僕だけ経験ゼロ。同期がみんな番宣(番組宣伝)とか作り始めているのに、僕は右も左もわからない状態で、それはもう嫌でしたよ。

──だからキャリアの状態もマイナスのままなんですね。

そうそう。みんな成長して“業界人”みたいになってきているのに、僕だけ何も知らない状態。ただひとつラッキーだったのは、配属先の業務が深夜ドラマに比べて体力的に楽だったんです。制作会社がVTRのほとんどを作り、局は仕切りを担う、という体制の番組がたまにあるんですが、そういった体制のチームに配属されたので、時間に余裕ができたんです。それで企画書を書き始めました。半年に1回、企画の社内公募があるからそれに応募しようと。

佐久間宣行さん入社3年目、番組で一緒になった伊集院光さんら出演者との写真

入社3年目、番組で一緒になった出演者との1枚。

──そうやって作られた『ナミダメ』という企画が通り、見事3年目のときにプロデューサーに抜擢されたと。

はい。2年目の終わりに出した企画で、3年目を迎えたときに企画にゴーサインが出たんじゃないかな。「出演者に泣けるアイテムを使って泣いてもらい、一番泣けた人が賞金100万円をもらえる」というお笑い番組の企画でした。そのときは本当に運が良くて、「月火水の深夜枠は若いメンバーに任せてみよう」という社内の方針と重なったんです。それで僕の企画が水曜日の枠に選ばれた。月曜日と火曜日の枠を担当することになった人は、少し年上の先輩だったので、まさか僕の企画がとおるなんて、とびっくりしましたね。

ただ、それまではADだったので、制作会社のこともいまいち分からないし、タレントさんをどうやってブッキングしたらいいのかも分からない。「本当にできるのかな」って思いながら手探りで番組を作っていました。

──キャリアの状態がグンと上がっているのは、初めて自分の企画が通って嬉しかったからですか?

佐久間宣行さんのキャリグラフ2

そうですね。純粋に嬉しかったことと、「自分がおもしろいと思ったことが実際に実現しちゃうテレビってすごいな」とあらためて思ったんですよね。僕が冗談で言ったようなことが実現するんだな、と。でも、半年間で番組は終了してしまって、そのときはかなり落ち込みました。

──そのあと4年目で、『TVチャンピオン』でゴールデンタイムのディレクターになっていますが、このときのキャリアの状態がプラスでもなくマイナスでもなくフラットなのは……。

『ナミダメ』の打ち切りが、かなり尾を引いています。『TVチャンピオン』でゴールデンタイムのディレクターになれて、仕事自体はめちゃくちゃ楽しかったんですが、初めて自分で立ち上げた番組が半年で終わったのはやっぱり相当ショックだったんです。そんなビッグチャンスが今後も回ってくるとは思えなかったので、せっかく獲得した貴重なチャンスを無駄にしちゃったなと、悔しさでいっぱいでした。このときが一番、会社を辞めるか辞めないか悩んだ時期でしたね。

自分の考える「おもしろい」と、視聴者の感覚のずれに悩み始めた入社4年目

──そのときに、会社を辞めずに続けられたのはどうしてですか?

それは、『TVチャンピオン』が本当にいい番組だったからです。『ナミダメ』のあとに配属されたのが『TVチャンピオン』じゃなかったら、たぶん会社を辞めていたと思います。

当時の『TVチャンピオン』の制作の仕方は本当に素晴らしくて、定例会議では誰もが企画書を出すことが認められているんですよ。ディレクターはもちろん、アルバイトのADさんまで、本当に誰でもです。チームのトップのプロデューサーも自ら企画を持ってきて、対等にプレゼンするんです。

──すごい。『TVチャンピオン』は、毎回さまざまな分野の達人たちが真剣勝負を繰り広げるエンタメ番組ですよね。

そうです。毎回特番のような番組なので、企画がとおると、自分がその回のディレクターを担当できる。本当に公正な競争で、上司のプロデューサー2人も、積極的に企画を出すおもしろい方たちでした。こんな作り方をしている番組って、他局でもたぶんなかったと思います。

テレビ東京って今でもそうですが、他局に比べて人数も少ないし予算も少ない。実力があればチャンスに恵まれる確率が高い一方、「若手はここに置くもの」みたいな、昔ながらの慣習を元に人員配置されることもあるので、必ずしも自分が望む現場に入れるわけでもない。

だから、『TVチャンピオン』に携われたのがすごい嬉しかったですね。僕はそこで何本かの企画でゴールデンタイムのディレクターになれたのは本当に幸運なことでした。『TVチャンピオン』じゃなければ、まだしばらくはADのままだったと思います。

──打席に立つ回数が多いと、気づくことも多そうです。

自分に対する評価って、低くなったり高くなったり常に揺れ動くものだと思うんですけど、この頃は「自分の感覚はニッチで、自分がおもしろいと思うものでは結果が残せないかもしれない」と思っていた時期でした。

『ナミダメ』という番組は、けっこう尖っているけど、自分ではすごくおもしろいと思って制作したものでした。でも、全然数字が取れないまま終わってしまった。『TVチャンピオン』でも、めちゃくちゃ数字をとった企画とそうでない企画があった。「この業界でまったく戦えないわけじゃないけれど、お笑いのようなディレクターとしてのセンスが要求される番組は僕には向いていないんじゃないか」と、漠然と思うようになっていました。実践が増えてきて楽しく忙しく働く毎日の中で、ずっと自問があった。

30歳のとき、自分のストロングポイントが見えてきた

──ですがそのあと、『ゴッドタン』の前身となるお笑いバラエティ番組『大人のコンソメ』の総合演出に抜擢されています。

「お笑いでは結果を残せないんじゃないか」と思っていた時期だったので、総合演出の声がかかったのはうれしい驚きでした。

そして僕にとって大きな出来事があったんです。『大人のコンソメ』の制作をしていたある日、おぎやはぎの矢作さんが「佐久間さんは編集がうまくて番組をおもしろくしてくれるから、出演者として安心して任せられる」みたいなことを言ってくれたんです。それは、自分のストロングポイントが初めて見えた瞬間でした。「ああ俺、編集が得意なんだ。だったら、まず編集をちゃんと頑張ろう」って。そこで他の人と差をつけた方が、活躍できる場が増えるなと思ったんです。

佐久間宣行さんとおきやはぎのお二人の写真

おぎやはぎのお2人との1枚。『TVガイド2014年10月17日号』掲載の映画『ゴッドタン キス我慢選手権 THE MOVIE 2 サイキック・ラブ』取材時のアザーカット。

編集って、センスに依存する部分もありますが、素材を全部見たかどうかなど、費やした時間が結果に大きく反映されるものです。僕は根性だけは結構ある方だったので、そこは手を抜かずに一歩ずつ頑張ろうと思えたのが『大人のコンソメ』でした。

──根気と努力を生かせる「編集」を突き詰める、と決めたんですね。

はい。他の人と差をつけられるポイントが分かったので、どの仕事をやるときも編集を頑張ろうと思えました。

でも、そんな『大人のコンソメ』も半年で番組が終わっちゃったので、「やっぱりセンスを問われる番組は俺には向いてないんだなあ」「お笑い番組は、これで最後かもな」と思いましたね。周囲の方々は「いやいや、おもしろかったと思うから、またどこかで」みたいには言ってくれたので、それからもお笑いの企画は出し続けていましたが。

──どんなに悩んでも、行動を止めないのがとても印象的です。『大人のコンソメ』が終わり、そのあと担当されていた『シブスタ』ではまたキャリアの状態が下がっています。

佐久間宣行さんのキャリアグラフ3

これはね、仕事をしている人なら経験したことがある人も多いと思うんだけど、自分が作りたいものと、上司、ひいてはチームの方向性が少し噛み合わなかった時期なんです。さらに『シブスタ』は生放送の番組だったので、やっと見つけた「編集」という自分のストロングポイントがまったく生かせなかった。だからまたゼロから自分の価値を見つけ出さなくてはいけないと、途方に暮れていたころでした。

──上司と合わない、せっかく見つけた自分の強みを生かせない……。考えただけでもつらいです。

そうですね。でもまあ「仕方がない」と気持ちを切り替えて仕事をするしかない。ディレクターとしては悩んでいる時期だったんですけど、生放送で経験を積むうちに、「フロアディレクター」という新しい自分のストロングポイントが見えてきたんです。

──「フロアディレクター」とはどのようなお仕事ですか?

いわゆる番組での仕切りなんですが、僕の仕切りがめちゃくちゃうまいと、社内でちょっとした話題になったんです(笑)。いろいろな番組に呼んでもらえるようになり、とにかくたくさんフロアディレクターをやらせてもらいました。するとタレントさんや社内の別部署の人たちにも顔を覚えてもらえるようになって、だんだんと、自分の存在が社内で知れるようになっていったんです。

並行して、『大人のコンソメ』のようなお笑いの企画書はずっと出し続けていて、やっと企画が通ったのが、2005年の『ゴッドタン』の特番だったんです。

──やっと巡ってきたチャンスですね。

この番組にすべてをかけたほうがいいな、という思いがありました。放送作家のオークラさんと2人で夜な夜な企画を考えて……、おぎやはぎさんと劇団ひとりさんをメインにして、それまで自分が培ってきた力をすべて注ぎ込んで挑んだんです。

佐久間宣行さんと劇団ひとりさんの写真

『ゴッドタン キス我慢選手権 THE MOVIE2 サイキック・ラブ』プロモーション時の劇団ひとりさんとの1枚。(写真提供:テレビ東京)

自分がおもしろいと思うことを信じ続けることで状況は好転する

──これまでのお話を聞いていて、番組の終了や予期せぬ異動など、「自分のやりたいこと」と「会社の方針」が合わなくてモヤモヤされたこともあったのではと思います。

もちろんありました。たくさんありましたが、自分の希望を堂々と言えるのは、自分が会社の武器になっている、会社の役に立っていると自信を持ててからだと思っていたんです。一方、当時の僕は、「不満が言えるほど実力もないし、結果も出していない」という自覚が強くあった。

僕はたぶん悲観的なタイプなんです。ポジティブな人だったら、「俺がおもしろいと思うものを分からないなんて、上のやつらは馬鹿だな!」と思えたかもしれません(笑)。けれど、僕の場合は20代の頃、自分の実力をどうしても信用できないところがあった。だからまずは、会社が望むものをちゃんと作ろうと思っていました。でも、それもきちんと作れなくて悩んで……。20代はずっと悩んでいたように思います。

──『ゴッドタン』の特番以降、30代は佐久間さんのキャリアの状態がまったくマイナスになっておらず、何か抜け出されたように見えます。これには何か明確なきっかけがあったのでしょうか?

佐久間宣行さんのキャリアグラフ4

30歳くらいの頃に、いったんいろいろ諦めたんですよ。いま言ったとおり、20代の頃は「会社が望むものの中で、おもしろいものをちゃんと作ろう」と思っていました。会社ともうまく付き合って、キャリアの階段を上がりながら、その中でおもしろいと思えるものを作る。そんな、「サラリーマンとしてもクリエイターとしても正しい道」を探していたんです。でも、それではうまくいかなかった。

『ゴッドタン』を作ったあたりから、自分が本当におもしろいと思うものだけを信じて企画を作り、スイングする。そのスイングがどうやったら世の中の人に当たるのかだけをシンプルに突き詰めようと、割り切って考えるようになってきたんです。会社組織のなかで偉くなろうという考えはやめて、自分が作りたいものを作るようにした。そうすると、いろんなことがうまく回るようになりましたね。

──諦めて、いろんなことが好転しだした。

はい。でもそれは、20代の自分が、ある程度苦手なことにも挑戦して、社内外の味方をつくることができていたからこそ、たどり着けた状態といえるかもしれない。自信が持てない自分の性格が、回り道をしながらも僕をここまで連れてきてくれたように思います。もし、僕がもっと自信満々な性格だったら、入社2年目とか3年目のときからすでに作りたい番組を作って結果を出せていたのかもしれませんね。まあ、結果論なので、こればかりはわかりませんが(笑)。

佐久間宣行さんと『SICKS』の監督を務めた英勉さんの写真

『SICKS』の監督を務めた英 勉(はなぶさ・つとむ)さんとの1枚。(写真提供:テレビ東京)

テレビ東京という職場への、愛

──『オールナイトニッポン0(ZERO)』での豪快な笑い声のイメージとは違い、佐久間さんは真面目で慎重な性格、謙虚な姿勢をお持ちの方だと感じました。

そうかもしれませんね。ここ2年くらい、ありがたいことに「テレビ東京以外でも仕事をすればいいのに」などと言われる機会が増えたんです。でも僕自身は「お前、本当に一人でもやっていけるのか?」と慎重に考えてしまう。

──『オールナイトニッポン0(ZERO)』のパーソナリティなど、局の垣根を超えた活動をされているので、「テレビ東京以外でも〜」と言う方々の気持ちが分かる気がします。

僕の場合、まずはテレビ東京が大好きなんです。だって、他局のラジオ番組のパーソナリティをやりたい、といったら、それを受け入れてくれるんですから。すごく懐が深い会社だと思うんです。だからこそ「『オールナイトニッポン0(ZERO)』をやるならテレビ東京の宣伝になるようにしよう」という姿勢で毎週話しています。

──ラジオではいつも「こんばんは。“テレビ東京の”佐久間宣行です」と切り出されていますね。

僕が映像の世界でキャリアを積めたのも、組織にいたからこそだとも思います。僕が20代を過ごした90年代後半から00年代前半では、映像コンテンツを作って世に出すなんて、天才映画監督でもない自分には、会社員にならないかぎり絶対に無理だったでしょうから。

それに、僕には「組織で働く」というやり方が合っているとも思うんです。もちろん、「個」を売っていけば、得られる対価は大きくなるかもしれません。でも、大ハズレしたときのリスクをまるごと背負わなきゃいけない。僕には大切な家族がいるので、いまは組織とともに安定した環境で仕事をしたい。

コンテンツ戦国時代の中で、純度高いものを作り続けたい

──これからのご自身のキャリアについて、どのように考えていますか?

佐久間宣行さんのインタビューカット2

映像コンテンツを作る人間として、僕はいま、ものすごくおもしろい場所に立たせてもらっていると思っています。配信の文化も育ってきて、地上波の中での指標も「世帯視聴率が絶対」という風潮が変わりつつあるし、作品性のあるものも見てもらいやすくなっている。YouTubeなどのネット媒体もたくさんあります。

そんなコンテンツ戦国時代の中で、自分がディレクターとして純度の高いものを作り、それがどこでウケるのかを冷静に判断して、多くの人におもしろい番組を届けていく。媒体の名前に頼って生きられる時代は終わり、「コンテンツの強さ」が純粋な勝負のポイントになっています。厳しくもおもしろい時代ですよね。

僕がまだ現役でバリバリ働けるときに、この時代が来てよかったと心から思います。管理職とか、コンテンツを「作る」立場ではなく「育てる」立場になったときにこの時代が来ていたら、かなり悔しかったと思う(笑)。まだまだこれからも現役で、純度の高いおもしろい番組を作っていきたいです。

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取材・文:あかしゆか
編集:野村英之(プレスラボ)