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サイバーセキュリティ専門家・名和利男の履歴書|決して逃げない。彼がサイバー攻撃と戦う理由

サイバーセキュリティの専門家、名和利男さんの履歴書をご本人の言葉とともに深堀りします。ハードな日々を送った自衛隊時代。サイバーセキュリティに関わるなかで直面した、残酷な現実。ときに自身の限界を感じながらも、それでも、折れることなくサイバー脅威と戦い続ける名和さんの覚悟の根源を聞きました。

名和利男さんの履歴書メインカット

サイバーセキュリティに携わる人で、彼の名を聞いたことがない人はいないでしょう。名和利男(なわ・としお)さん。サイバーセキュリティのスペシャリストであり、日本における先駆者の一人です。

名和さんの社会人としての最初のキャリアは自衛隊。湾岸戦争をはじめとする激動の90年代を自衛隊で過ごすなかで、サイバー攻撃の脅威にいち早く気付き、セキュリティに向き合い続けてきました。ときに絶望を感じながらも、それでもキャリアをサイバーセキュリティに捧げる。その根底にあるものと、これまでの仕事の遍歴を、名和さんとともに振り返りました。

名和利男さんの履歴書

名和利男さん:高校卒業後、海上自衛隊に入隊。その後、航空自衛隊に再入隊し、業務のなかでサイバーセキュリティに関わるように。2003年に自衛隊を退職以降は、民間からサイバー脅威と戦う道を選ぶ。現在はサイバーセキュリティ研究所の上級分析官を務めつつ、数多くの組織にセキュリティアドバイサーや委員として携わる。近年では海外の組織と盛んに関係性を築き、国の垣根を越えてサイバー脅威に対抗している。

働ければ、なんでもいい。言われるがままに自衛隊に

──社会人としてのキャリアは、高校卒業後に入隊した「海上自衛隊」とあります。サイバーセキュリティのスペシャリストという現在の印象からは、少々意外に思えるスタートですね。

実家の経済的な事情で、大学進学ではなく就職の道を選んだのですが、正直言って「働ければどこでもいい」という感覚で、自衛隊の地方リクルーターに声をかけられたのがきっかけで入隊したに過ぎないんです。ですから当然、どんな組織かもよく分からない。その時点では自衛隊が陸・海・空に分けられていることすら知りませんでした(笑)。

子どものころは算数が大好きで、中学時代も図書館にあった本、それも誰も読まないような英語で書かれた数学や物理の本を読んで、問題を解いて解きまくって、やがて物理学にのめり込んでいました。当時は「将来は物理学者になる」なんて思っていましたね。

名和利男さんの笑顔

──そんな少年が自衛隊に進む、というのも意外ですね。

私が生まれ育った北見市は全国有数のタマネギの生産地で、見渡す限り地平線。遊ぶにもおもちゃなど買ってもらえるような環境でもなかったので、早く他の世界に飛び込み、「なにかやってみたい」という一心でした。

海上自衛隊に入隊したのも、受けられる試験がそこだったから、というだけです。ただ、その後の厳しい訓練は、それまで18年生きてきて培われた価値観を大きく変えるような体験でした。

名和利男さんのキャリグラフ1

──最初の仕事は護衛艦の電測員だったと聞いています。これは希望していた仕事だったのでしょうか。

配属前に知能チェックや身体能力チェックなどの適性検査を受けて、電測員(情報の収集、作図、整理、配布、電測器材の操作や保守に関する業務)にフィットしていると判断されたようです。当時は希望を聞いて配置する、と言われていたものの、各職種の定員を合わせる都合があったようで、希望を書き込む書類の「希望欄」は他の人より多かった記憶があり、あれを希望制と呼べるかは悩ましいところです(笑)。電測員に決まったときは、「君の希望が通ったな!」と言われて、当時なにも事情がわかっていない私は純粋に喜んでいましたね。ただし、これはかなり昔の話です。今は隊員に寄り添った配置がされていると聞いています。

数学や計算は好きでしたし、実際に計算作業には自信があった。昔の電測員は平たい丸いレーダーの出力画面の上で、定規とペンだけでベクトル計算し、相手の艦の位置を測定します。業務で数学が使えるということには、誇りを感じる部分がありました。

──ただ、訓練や業務など日常はかなりハードだったのでは。

そうですね、非常に厳しい日々でした。仕事をするのも食事も寝るのも護衛艦のなか。住民票の居住地も護衛艦で登録されていたので、文字通り護衛艦が“住所”ですね。そのなかで電測員として業務と訓練をこなして、下っ端の私は士官室係やCPO(先任海曹室)係といった配膳業務もしなければならず、寝る時間がほとんどないこともある。海の上なので遊びに行く場所どころか、逃げる場所もない。自分のスペースと呼べるのは3段ベッドの真ん中だけ。艦内に1箇所だけあまり人気のない場所があるのですが、泣きたくなったらここに行くのがお決まりでしたね(笑)。

ただ、いまは自衛官の居住や業務の環境がかなりよくなったと聞きます。私がやっていたような計算もコンピュータが高速で情報処理し、正確無比に行われ、間違えることもありません。私が計算を誤ったときは、不思議なもので“ハリセンのようなものが後頭部で炸裂しているかのような感覚”がありましたが、そんなものもなくなったことでしょう(笑)。いまの海上自衛官がうらやましいですね。

──その後、海上自衛官を中途退官、航空自衛隊に再入隊して、北海道網走市の分屯基地勤務になっていますね。

はい。ですが、網走では将来の展望が得られなかった。網走は素晴らしい観光資源こそ豊富ですが、私が求めるものが少なかったんです。仕事にやりがいはもちろんありましたが、やや単調な日々が続き、このままでは、パチンコと釣りを追求する人生になってしまうような気がしたんです。ですから、次のステップに移りたい一心で、勉強と運動に必死に打ち込みました。

北海道には航空自衛隊の分屯基地がいくつもあり、各基地対抗の駅伝大会や、銃剣道大会、それに英語による弁論大会なんかが行われていて、こういった場でどうしても結果を出したかったんです。優勝すると俸給や配属にも影響するので。銃剣道は私には難しかったので、注力したのは駅伝と英語弁論です。1日20〜30km走りながら、英語を学びましたが、その甲斐あって英語弁論大会北部航空警戒管制団(北部防衛区域)で第3位となり、全国大会で準優勝できたんです。

93年頃の名和さん

航空自衛隊に再入隊した後、93年頃の名和さん。

──その後、97年に実際に異動になっていますね。

網走分屯基地の本部は青森県にある三沢基地ですが、ここへの異動が命じられました。当時は日米が共同開発していた国産戦闘機の初号機であるF-2の導入準備を行っていたころで、英語が分かる日米間の現場調整の要員が必要だったんです。そして英語弁論大会の実績が認められ、私にその役割があてられたんです。

──つまり、自ら道を切り開いたということですね。

英語を使った調整業務は自分に向く仕事ではなかったかもしれませんが、次のステップを獲得できたことはうれしかったですね。ただぼんやりと定年を待つのではなく、マラソン能力と筋トレ、英語力を積み上げたことで、手がかりが得られた。チャンスがそこにあったから、それをつかみにいった──そんなふうに考えています。

──当時のお仕事はサイバーセキュリティとは無関係のものですよね。

たしかに当時の私の仕事は連絡調整業務でしたが、IT化やネットワーク化が進んだ米軍との交流の中で、さまざまな情報に触れる機会がありました。当時、スキルアップのために中国語の勉強を始めていたのですが、これがきっかけとなってシステムに混入した2バイト文字(日本語や中国語、韓国語などをコンピュータ上で扱うために使用される言語)のアーティファクト(第三者による作成物)の分析をする機会をもらったんです。いまで言うところのデジタル・フォレンジックですね。これが初めてサイバーセキュリティに関わった経験だったと思います。

98年頃の名和さんの写真

98年、米軍のアカデミーにいた頃の名和さん。

三沢基地ではこのような初めての経験をいくつか積み重ねましたが、一方で、F-2の開発が終わり、運用フェーズに入ると、米軍との現場調整役としての私の業務は終わるのだろうと感じていました。そうなると、また網走に戻る可能性もありましたが、周囲の支援もあり、幹部候補生になるための試験に挑む機会を得たのです。

幸い試験には合格しました。奈良県の幹部候補生学校に入校し、半年にわたる厳しい教育訓練を受けた後、最終段階で幹部としての希望職種は聞かれるのですが、適性検査の結果ではコンピュータプログラムへの適正が示されます。中学、高校と数学や物理に夢中だったことが影響しているのかもしれません。そうして私には「プログラム幹部」という職種が与えられたのです。

変えられなかったサイバーセキュリティへの意識

──現在のお仕事にも通じるものがありますね。

ここで初めて、FortranやC言語(ともにプログラミング言語)に触れました。「ADCS(Air Defense Command System:航空総隊防空指揮システム)」というシステムをイチから設計・開発・構築・運用するのが業務でした。非常に古いシステムを一新し、指揮系統向けのシステムとして組み上げるのですが、この業務の中で、サイバーセキュリティ上の問題を見かけるようになってきたんです。もちろん、誰かがこうした問題に対応しなければなりませんが、サイバーセキュリティに関する教育訓練を受けてた人材は、当時非常に少なく、新米幹部として入ってきた私がサイバーセキュリティを担当することになったんです。ここで、三沢基地時代にサイバーセキュリティに関わった経験が役に立ちました。

保秘の都合上、あまり詳しい話はできませんが、入間基地でのサイバーセキュリティに関する業務は、私にとって非常に大きな意味を持つ経験でした。そして、サイバーセキュリティの重要性を体感するほどに、将来の状況に不安を感じるようになってきたんです。セキュリティを守るべく、与えられた環境や条件のなかで、私はできるだけの努力をしたつもりです。しかし、当時の社会環境において、サイバー脅威の存在や将来に発生するリスクを理解して、私の周辺や社会の未来を守るための行動をとれる組織(部隊)を設置していただく見通しは全くありませんでした。

うつむく名和さんの写真

──キャリアの状態も、この時期はかなり低くなっています。サイバーセキュリティの重要性を十分に理解しない周辺や社会に失望があったのでしょうか。

名和利男さんのキャリグラフ2

失望というより、危機感です。サイバーセキュリティをおろそかにしたゆえに、罪もない人たちを恐ろしい不幸が襲うのではないか、という恐怖がありました。にもかかわらず、国内組織のサイバーセキュリティへの認識は「低い」どころではなく、「認識が欠如している」ことが分かってしまった。とても大きな危機感です。

それでもさらに2年間、与えられたさまざまな業務に必死に取り組みました。やがて2等空尉まで昇進させてもらいましたが、自衛隊そのものを変えるには、さらに上の佐官クラス経て将官クラスになる必要がある。ですが、いわゆるエリートではない私には、そこまでの昇進は困難です。自分の限界がそこで見えてしまったんですね。将来、必ず発生するサイバー脅威に対する備えができない、ということに絶望感もありました。

そして、2003年12月、退官しました。私の不甲斐なさが原因ですが、同じ時期に当時結婚していた相手とも関係が破たんしてしまい、離職と離婚で生活が一変してしまうことになったんです。

民間人としての苦闘。再びセキュリティの世界へ

──それで民間企業に就職したのですね。

高校を卒業してからずっと自衛隊にいましたので、民間企業を全く知らずに生きてきましたし、貯金も豊かというわけではなかったので、働けるならどこでもいいという感覚でした。仕事選びのことなどまるで分からなかったので、最初に入った会社の労働条件はなかなか過酷でした。給料の手取額は9万円を切るほどで、家賃と交通費を引いたら毎月赤字になるくらいの生活です。民間に出てもこんな生活なら、海上自衛隊の方が楽だな、と思うこともありました。

──民間の生活に馴染むのも大変だったのでは。

自衛隊の外の世界はまったく勝手が分かりません。最初はランチタイムに同僚が自発的に昼食をとっていることすら不思議でした。同僚からなぜ昼食を取らないのかと聞かれて「ラッパも鳴らず、誰からも昼食を取る指示と許可をいただいていないから」と答えるほどです(笑)。いまの妻とはそこで出会いましたが、彼女が会話のなかで時折指摘してくれたりして、民間の生活になじんでいきました。どこに行くにも命令がないと動けない体だったのかもしれませんが、彼女が「もう命令される必要はないんだよ」と優しく教えてくれて、つい私も惹かれてしまったんです(笑)。

名和さんの笑顔の写真2

──当時のお仕事はセキュリティと関係したものだったのですか。

いえ、関係のない仕事です。そもそも、セキュリティに関わるつもりはありませんでしたし、関心を失っていました。しかし、昔の仲間や先輩から「サイバー脅威が深刻になりはじめている」と、現場の様子は伝わってきます。同じ時期に私は転職を考えはじめていたので、自分がこれからどういった仕事をしていくべきか、ある先輩に相談したんです。そこで紹介されたのがJPCERTコーディネーションセンターでした。どういった組織かあまりわかっていませんでしたが、幹部自衛官が研修することもあると聞いたので、私も参加することにしたんです。

── JPCERTコーディネーションセンターはコンピュータセキュリティに関する報告受付やインシデントへの対応支援や調整を行う一般社団法人ですね。とうとういまのキャリアとつながった印象がありますが、そこではどのような仕事をされていたのでしょうか。

最初の仕事は、ある分野のサイバー(セキュリティ)演習の設計、作成、調整、実施、報告でしたので、自衛隊時代で得た知識がすぐに役に立ちました。

もうひとつ取り組んでいたのは早期警戒グループ(世界中から収集されたサイバー脅威に関する情報を吟味し、国内の重要組織やセキュリティ関係者に共有する部門)の仕事で、海外との情報のやり取りが多いんです。時差を考えると夜間に活動することもある仕事なので、「自衛隊出身の名和なら、文句言わずに仕事するだろう」ということで、配属されのかもしれません。

早期警戒グループの仕事にも、自衛隊にいたころの昔懐かしい経験に通じるものがありました。当時はサイバー攻撃がどんどん活発化していたころで、こうした動きに呼応するように、私が情報をやり取りする相手も民間企業のセキュリティ担当や研究者から、公的機関の関係者に広がっていきました。他国との公的機関とのコミュニケーションは自衛隊時代にやっていたことです。そうして得られた情報を国内の重要組織に共有すると、「ありがとう」といってもらえる。感謝されることが嬉しく、ちょっといい気になっていた記憶があります(笑)。

また、同時期にCSIRT(Computer Security Incident Response Team:コンピュータやネットワークのセキュリティの監視、問題発生時の対応を担う組織)の構築支援も業務として行っていました。さまざまな企業にセキュリティ面でのアドバイスをする、コンサルタントのようなイメージです。「人を守る仕事を」という思いでサイバーセキュリティに取り組んできたので、“サイバー消防隊”とも言えるCSIRTの仕事は私にとって親和性の高いものでした。

CSIRT支援にはサイバー演習のファシリテーションも含まれます。企業がサイバー脅威にさらされた際、どのように対応するかといった演習を提供するのですが、自衛隊時代のノウハウを取り入れた演習を提供すると、その内容が「理想的だ」と。そして、このときのノウハウをマニュアルに落とし込み、JPCERTでの仕事が落ち着いたころ、現在所属するサイバーディフェンス研究所の前身となる組織から、お誘いを受け転職することにしたんです。

感じるのは、日本のサイバーセキュリティの地盤沈下

──転職して、グラフも少し上がっていますね。

名和利男さんのキャリグラフ3

サイバーディフェンス研究所での仕事は、その先に“宇宙”がありました。どういうことかというと、将来の重要インフラになると見られている宇宙システム(人工衛星から地上運用管制など)に関連するサイバーセキュリティを担う、という仕事も視野に入っていた、というわけです。宇宙システムで使用される設備やネットワークのセキュリティを守ることで、人を守れる、そう考えていたんです。“軍事レベルのサイバー攻撃防御”に携わり人を守る、という思いは自衛隊では果たせませんでしたが、それに民間からチャレンジできるのであれば、それは絶対にやりたいと思える仕事でした。

それに、転職以降、私と同じ志でサイバーセキュリティに関わる仲間が世界中で増えたことも、ポジティブな意味がありました。世界各国で軍を経験したセキュリティ関係者が集まるコミュニティに加わり、そこで出会った仲間からの応援や支援は大きな励みになっていたんです。

名和さんのパソコンの写真

使用するノートPCは1〜2年に一度買い換えるが、選定基準は「ターミナルが動けばなんでもいい」「ハードに使うので、丈夫であること」と名和さんは言う。自宅に複数のRaspberry Piでセキュアなサーバーを構築し、そこにリモートアクセスし業務を行う。PCはなくす可能性があることを前提に、ローカルには一切データを置かない。

──JPCERT以降、一貫してサイバーセキュリティに関わっていらっしゃいます。日本の状況は、名和さんのキャリアがスタートしたころから変化していますか。

残念ながら、サイバーセキュリティの能力は“地盤沈下”していると思っています。過去においては日本の組織は、その組織専用のハードウェアとソフトウェアによって安全が守られていた側面があります。仮にひとつの組織へのサイバー攻撃が成功しても、異なるハード、ソフトにはその攻撃手法は使えません。つまり、サイバー攻撃を仕掛ける側も情報収集し大きな手間をかける必要があった。

しかし、いまでは汎用的なハードやソフト(編注:例えばWindows PCやインターネットブラウザなど)を使うのが普通です。ネットワーク接続も有線だったものが無線になり、組織内のネットワークに侵入しやすくなった。さまざまな意味で、境界で防御することが難しくなっています。にもかかわらず、日本の組織にはサイバー脅威に向き合う経験や人材がまったく足りておらず、突如として大きく重い攻撃にさらされる、というのが実情です。そしてこういった状況が十分に認識すらされていない。

最近の行政機関が公表するレポートにおいて、「攻撃者の進化が非常に速い」といった表現が見られますが、私の現場支援から得れる感覚では、ここ数年ほどの間、サイバー攻撃者の能力向上は、伝えられているほどではありません。実際には、私たちのサイバーセキュリティが低下してしまっているため、相対的に攻撃者有利という状況になっているだけです。これが確実に起きている変化ですね。いま私はかなりの数の組織や団体にセキュリティ関連のアドバイザーや委員として参加させていただいていますが、そういった組織には、すでにセキュリティの現状に危機感を持っている人たちが多いです。

すべては、人を、子どもを守るために

──名和さんが次に向かうところはどこでしょうか。

宇宙です。私は2016年から内閣府の宇宙政策委員会・宇宙安全保障部会に参加していますが、これは日本の衛星システムのセキュリティのためです。日本の準天頂衛星システム「みちびき」は現在4機体制ですが、あと3機打ち上げが予定されていて、ここにもサイバー攻撃の手が伸びる可能性があるでしょう。

──日本の宇宙システムを守るための仕事なんですね。

はい。いまでは衛星打ち上げも民間の手で行われる時代です。政府でも四苦八苦するようなサイバー攻撃を受けているのですから、民間の衛星にも同じような攻撃をしかけられるのは明白です。だからこそ、宇宙システムにおけるサイバーセキュリティを確立し、適切な対応策を提供したいんです。こうしたアプローチは宇宙だけではありません。核施設も同じようにサイバー攻撃から守らなければならない存在です。ですからいまは海外の核セキュリティのコミュニティにも参加しています。

──自衛隊から始まり、名和さんのキャリアはものすごい広がりを見せていますね。

Noと言えない性格だったからでしょう(笑)。与えられたオーダーには、すべては「Yes, Sir !」です。いまでこそ自衛隊内ではITやサイバーセキュリティ関連業務もきちんと評価対象になっていますが、私がやっていたころはそんなものもなかった。つまり、サイバーセキュリティの仕事は評価の上では「なにもやっていない」も同じだったんです。それでも、与えられた任務だったので邁進した。それだけです。

もちろん、邁進したにもかかわらず、無駄に終わった仕事もたくさんあります。自衛隊時代、私のお茶くみ技術は相当のもので、たくさんいた上官の砂糖や湯加減なんかの好みをすべて暗記して、最適なお茶を出していたのですが、あの仕事はいまはまったく役に立っていませんからね(笑)。

──それは確かに、サイバーセキュリティには役に立ちそうにもありませんね(笑)。名和さんのお仕事がどのような状態になったときに、キャリアグラフは最も高くなると思いますか。

国の垣根を越えて、サイバー犯罪者を駆逐したときでしょう。なぜなら、サイバー犯罪者はいまや現実に人を殺しかねないからです。現に、サイバー攻撃を発端とした爆発事件なども起きていています。もしもクルマの自動運転システムがハッキングされたら……こんなふうに考えると、そのリスクはイメージできるでしょうか。こうした攻撃をすべて防ぐことは不可能で、人を守るためにはサイバー犯罪者を“やっつける”しかない。これに尽きます。

名和さんの覚悟に満ちた表情

──サイバーセキュリティに関わり続け、徒労感や失意を感じることも多いと思います。それでも、お仕事から逃げずに邁進できたのはなぜでしょうか。

答えはシンプルです。私の子どもたちが大きくなったらIT・サイバーのなかで生きていかねばならないからです。テロや戦争で罪もない人たちに恐ろしい不幸が降りかかるように、私の子どもたちもサイバー攻撃によって同じ状況に陥るかもしれない。だから脅威を取り除きたい。

極端に言えば、自分の家族だけ守れればいい。しかし私の仕事は家族を守ろうと思えば、その他の人も守れます。サイバー攻撃者はどんどん増加していますし、必死で攻撃手段を磨いています。つまり、子どもたちを取り囲むサイバー環境がより危険になっていくのは明白です。だからせめて子どもたちが成人するまで、セキュリティに邁進したい。そんな思いで仕事をしています。

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取材・文:宮田 健
撮影:関口佳代