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企画書は、作らない。『水曜どうでしょう』的仕事術|"藤やん"の履歴書

人気番組『水曜どうでしょう』のチーフディレクターとして知られる藤村忠寿さんの履歴書を深堀りします。ローカル番組らしからぬ型破りな制作手法やプロモーション、そして独特のユルさで人気を集めた『水曜どうでしょう』。あの世界観は、「ラクをするために」全部自分で決める、という藤村さんの仕事術から生まれました。「仕事は面白くないもの」だった新人時代から、「成長しかない」という現在まで。“藤やん流”が作り上げられた過程を振り返ります。

藤村忠寿さんメインカット

※この記事は2020年5月の遠隔取材をもとに構成しています。
また、一部写真は2019年に撮影されたものを使用しています。

「“楽しむ”んじゃなく、“楽しめる”ようにする。それが仕事」

そう不敵に笑うのは、北海道テレビ放送株式会社(HTB)クリエイティブフェローの藤村忠寿(ふじむら・ただひさ/@fujiyansuidouさん。人気番組『水曜どうでしょう』(以下、どうでしょう)チーフディレクターとして、「藤やん」の愛称で番組ファンから絶大な支持を得ています。

『どうでしょう』は北海道のローカル番組ながら日本全国、ときに海外でもロケを敢行し、「サイコロの旅」「ヨーロッパ20ヵ国完全制覇」など名企画を連発。全国放送されただけでなく、DVDやオリジナルグッズの販売、イベント開催など、番組のコンテンツビジネス化にも先鞭をつけました。そして、大泉洋さんはじめとした「TEAM NACS※1」のメンバーを世に送り出したのです。

最新作の「北海道で家、建てます※2」では、出演者である鈴井貴之さんの私有地に「どうでしょうハウス※3」を建設。放送終了後、藤村さんは「どうでしょうハウス」に住み、その暮らしぶりをYouTubeで配信するなど、新たな試みを行っています。

そんな「型破りのローカル番組」を手掛けてきた藤村さんはこれまでどんなキャリアグラフを描いてきたのでしょうか。その独自の仕事論から見えてきたのは、「ラクをする」ために自ら主導権を握る、巧みな“人心掌握術”でした。

藤村忠寿さん履歴書カット

「ラク」したいのに、仕事がつらくて胃を壊した

藤村忠寿さんメインカット

──この衝撃的なキャリアグラフについてお聞きする前に、まずは近況をお伺いします。最近はテレビの人というより、YouTubeの人という印象ですが……(笑)。YouTubeの最新動画では「どうでしょうハウス」で野鳥観察をされています。

そうそう。もう1か月以上山ごもりしてる(笑)。YouTubeは全然分からないから、編集はスタッフに任せてるんだけど、とにかくずっと撮影してるね。実はこの業界に入って初めてちゃんとカメラを回したのよ。いつもは(『どうでしょう』ディレクターの)嬉野(雅道)さんが撮ってるけど、最近は何から何まで全部準備して、「あっ、そうか! こうやってやるんだ!」っていろいろと分かった気がする。たぶん今俺に野鳥を撮らせたら、NHKより上手いんじゃないかな(笑)

──業界歴30年にして、新しいスキルを手に入れた、と。

うん、着実にキャリアアップしてるね(笑)。

藤村忠寿さんプロフォールカット

藤村忠寿さん:1965年愛知県生まれ。北海道テレビ放送株式会社コンテンツ事業局クリエイティブフェロー、『水曜どうでしょう』チーフディレクター。1990年北海道大学法学部卒業後、北海道テレビ放送に入社し、東京支社編成業務部を経て1995年本社制作部へ異動。『水曜どうでしょう』(HTB)の前身となる番組『モザイクな夜 V3』の制作チームに加わり、翌年チーフディレクターとして『水曜どうでしょう』を立ち上げる。番組にはナレーターとして登場するほか、たびたび出演を果たすなど年々存在感を増している。愛称は「藤やん」。著作に『けもの道』(KADOKAWA)『笑ってる場合かヒゲ 水曜どうでしょう的思考』(朝日新聞出版)など。

──社会人になってからずっとHTBで働かれていますが、ご出身は愛知県なんですね。

そう。高校はそこそこの進学校だったんだけど、同級生はだいたいみんな名古屋大学に行って、トヨタに勤めて……みたいな将来が決まっていたわけですよ。名古屋って、暮らしやすいし仕事もあるし、東京に出ていく必要もない。でも、あまりにも先が見えすぎていて、僕には「閉塞感」があった。だから、どうせなら離れた場所に行きたいなと思ったんです。

ほら、北海道って誰もが憧れる土地でしょ? 愛知出身だと「いい場所ですねー」なんてほとんど言われないから。

──愛知の方はそうやって謙遜される人が多いですよね(笑)。

北海道はブランド力高いもん。おまけに、食べ物もうまいし、住みやすそうだし。

でも、実際住んでみて分かったのは、クラーク博士が「ボーイズ・ビー・アンビシャス」なんて言ってても、大志を抱いている道民はほとんどいないということ(笑)。

いい人は多いんですよ。だけど、外に出ていこうとしない。北海道も実は、すごく閉鎖的なところなんだな、と気付きました。でもまぁ、僕は外から来た人間だから、逆に利用しやすいなと思って。

──「利用する」?

ほら、大泉(洋)さんもミスター(鈴井貴之)さんも、生粋の道産子じゃない? 大泉さんなんか、「できれば家でテレビを観ていたい」っていうヤツだから。で、人がいいから騙されやすいんですよ(笑)。

そういう人たちを日本中、世界中に引き連れていったのが、番組になったということ。彼らを外に連れ出してなんかするのは面白そうだし、僕らも趣味として外に行けるし、一挙両得だなと。

──なるほど。そもそも藤村さんがHTBに入社されたのはなぜだったんですか。

学生時代に1年ほどHTBでバイトしてたんです。で、分かっちゃったんですよ。「あ、この会社、ゆるいな」って(笑)。ズルそうな人も「周りを蹴落とそう」と野心のある人もいないし。入社理由は、はっきり言ってラクそうだと思ったからです。

で、入社すると、なぜか東京支社への配属が決まって。当時、新入社員で東京に行くケースは初めてだったんですよ。

採用面接の履歴書に貼付した証明写真

採用面接の履歴書に貼付した証明写真

──東京への配属希望は出してなかったんですか?

出してませんよ。だって、競争が激しそうじゃない? 俺らの時代には特に、サラリーマンが丸の内をバーっと歩いて「24時間戦えますか?」みたいなイメージがあって。毎日キツそうだし、絶対東京には行きたくなかった。

──そのせいか、キャリアグラフも±0の位置ですね。

藤村忠寿さんのキャリアグラフ1

そう。配属されたのは、営業が最前線で取ってきた広告を管理する部門(編成業務部)。お金や人材の管理みたいな責任重大な仕事をいきなり任されて、かなりショックだったよ。時間と数字に追われてばかりの毎日で、やっぱり全然面白くなかったの。一度胃を壊したくらい。

とにかく「ラクしたい」と思っていた自分が最もやりたくなかったことですからね。異動願もずっと出してたんだけど、当時会社には「3年頑張ってくれ」って言われて。なんだかんだで結局5年もいさせやがった(笑)。

──結構長いですよね……。

だからもう、仕事のことはあきらめた。「仕事は面白くないもの」だと思っていた。

じゃあどうしようかと考えると、東京って遊ぶには意外といいところだったんですよ。交通の便がいいから、東北にも関西にも、四国にだってすぐ行ける。行った先でキャンプしたり、カヌーで川下りしたり、山登りしたり……そうやって“東京ライフ”をエンジョイしていたね。

だから、仕事はつまらなかったけど、東京という街は好きになりました。

──仕事自体のモチベーションはどうしていたのですか?

今思えば、テレビ局の稼ぎ方や視聴率の大切さを肌身で知れたのは、その後の武器になりましたね。番組制作だけをずっとやっていたら、たぶん営業の言いなりになっちゃってたと思うんですよ。編成で仕事してると、営業やスポンサーの考えてることは全部分かる。だから、彼らをどうやって使おうかという考え方になったんです。

予算は適当。企画書すら出さない

──1995年に本社の制作部へ異動されますが、ここからキャリアグラフはずっと+5ですね。

藤村忠寿さんのキャリアグラフ2

ずっとマックスというよりは、今もまだずーっと上がり続けているような感じなんだよね。番組をはじめたときは手探りで、戸惑いもあったし。そもそも俺、制作志望じゃなかったからね。

入社当時は報道部を希望してたの。小さい頃から観てたのはバラエティだったし、特に報道に思い入れがあったわけじゃないけど。『8時だョ!全員集合』とか『オレたちひょうきん族』とか、ドリフターズや(ビート)たけしさんが出てくるのはキー局が作った番組じゃない? ローカル局に入った時点で、そんな番組作れっこないわけですよ。ホントにバラエティ作りたかったら、東京のキー局に行ってるって(笑)。要は、「やりたいこと」を突き詰めるのではなく、ラクできる道を選んだわけです。

そんな自分の思いとは裏腹に、制作部への異動が言い渡されて……。でも1年半『モザイクな夜※4』っていう番組をやってみたら、意外と面白かったんですよ。自由に作らせてくれたし、何より視聴率も良かった。そのうち、「次は自分で番組作ってみろ」と声がかかってね。

で、せっかくなら好きなバラエティを作りたいけど、たけしさんやドリフはさすがに起用できないし……どうしようかって考えたら、そこらへんの学生でも誰でもいいからどっか連れてって、死にそうな目に遭わせれば、ね(笑)。

藤村忠寿さん取材中カット

──もう頭の中に、あの方の顔が浮かんでいます(笑)。

当時、『進め! 電波少年』(日本テレビ系)が人気で、そのスタイルも頭にあった。(同番組演出の)土屋(敏男)さんも、「いちばん暇なヤツを探してた」って言うじゃない。「おまえ、1年間俺の言いなりになれる?」って。

──結果的に若手芸人が起用されることが多かったですよね。

そう、だからちょっと面白そうな大学生と、地元でなんとなくテレビに出演している方と一緒に旅をしたら番組として成立するだろうなと考えたのが、すべてのはじまりですね。

──「どこかへ行く」というスタイルは、最初から決めていたのですか?

なんとなく頭にはあったね。最初からなるべく遠いところに行きたかったんです。朝起きて、いきなり北極とかに連れて行かれたら、誰だってビックリするじゃない(笑)。そういうことをやりたかったの。

で、鈴井(貴之)さんも、「ご当地タレントが地元のお店をめぐる」みたいな従来と同じローカル番組を作ろうなんて一切思ってなかったから、「サイコロ振って、どこかに行くとかいいじゃないですか」と言い出して。俺も「あー! それやりましょう!」みたいな。それで走り出しちゃった。言わば30分の番組枠を「自分が自由にできる場所」として会社から与えられたわけです。

──「自由にできる」とはいえ、旅企画なら、交通費を含めて制作予算がかなりかかりますよね。上司にはどうやって話を通していたのですか?

僕はディレクターなので、お金の概念はないんですよ。お金の工面はプロデューサーの仕事だから(笑)。でも、お金についてとやかく言われたことはないね。初代プロデューサーの土井(巧)さんとは、東京時代に出会ったんですよ。当時彼は営業の偉い人で、僕は管理デスクで。

そういう意味では、僕が仕事をちゃんとやることは分かってくれていたけど、土井さん自身も番組制作の経験はないし、僕も大してないから、ない者同士。

土井さんに「番組3か月分の予算っていくらあるんですか?」って聞いて、具体的な金額を教えてもらったら「それくらいあるなら全国にも海外にも行けるんじゃないですか?」と提案していました。ちまちま使うんじゃなくて一気に使わせてくれ、と。使う金は一緒なんだから。

──確かに、理屈では同じですね……。

企画書もほとんど出してすらなかった。行き先だけ土井さんに告げて。それで「おっ! 海外行くのかー! じゃあ、旅行代理店とタイアップしようか!」なんて言われて。

おかげさまで『どうでしょう』は初回からいい感じでヒットして、視聴率もずーっと上がり続けたので、次はオーストラリアだ、ヨーロッパだ、なんてどんどん規模がデカくなった。

余談だけど、海外取材に行くと、会社から一人あたり10万円くらいの出張手当が出たんです。俺たち半年に1回海外に行ってたから、そのたびにもらってたの。出張手当を(笑)。

──すごい!(笑)

普通は、ローカル局で海外取材に行くなんて一生に一度あるかどうかだったからね。だからもうウハウハで、「次もまた海外行くか」なんて楽しそうにやってたら、「あいつらばっかりズルいじゃないか」みたいな声も局内からチラホラ聞こえてきた。

でも土井さんは「おぉ、分かった分かった」って。そういう会社だったんですよ。ほら、みんなのんびりしてるもんだから。

──いい人が多いから(笑)。ある意味、藤村さんがそれに目を付けてしまったという……。

目を付けてしまった。この人たち、騙しやすいなって(笑)。

──洋さんのみならず、スタッフまでも(笑)。

まぁ、うまく利用させてもらうというかね。結局、こっちが「プロデューサー、どうしましょうか?」という受け身の態度だったら、そりゃ仕事を押しつけられるよ。「これくらい予算で、こういうのやってくれ」って。でも我々は常に自分たちから発信してたので、自然と主導権を握っている形になる。

──先に「こういう企画やりたい」と持ちかけて。

「やりたい」じゃないですね。「やります」と。相談じゃないから(笑)。承認されなくても「やります」って言っちゃってるから、たぶんやるんです。「え、これは大丈夫なの?」って言われたとしても、「そうですね、でもやります」って言ってるだけ。一切聞かない(笑)。

長く続けるには「マンネリ化」が必要

藤村忠寿さんのキャリアグラフ3

──キャリアグラフはずっと右肩上がりのイメージとおっしゃってましたが、どこかのタイミングで「いけそうだな」と思った瞬間はあったのですか?

タイミング的には、『どうでしょう』の達成目標を視聴率以外のものに切り替えたときかな。

最初はいろいろやってたんですよ。でもだんだんとやることが定まっていって、99年くらいに最高視聴率を出した。20%近くまで伸びて。じゃあ今度は20%だな、ってゴールデンタイムの枠をもらったら、大コケして12%くらいしか取れなかったんですよ。

それでもうこれ以上視聴率は上がらないと判断して、視聴率以外の目標を掲げようと思った。それが「(番組を)長く続ける」ということ。

きっかけは、嬉野さんの「いちばんいいのは、マンネリ化を堂々とやることですよ。水戸黄門でいいんです」という言葉で。「あぁ、確かにそうだな」と思ったんです。

マンネリってみんな恐れるけど、番組を長く続けるためには必要。常に変えていこうとしたら、当初のコンセプトからブレて魅力がなくなって、結局長続きしないじゃない。

──そう考えると、2000年に半年間番組を休止したのは大きな決断だったんですね。

むしろ、俺らは「渡りに船」だと思ったけどね。特に迷いもありませんでした。

当時、鈴井さんから「映画を撮るために、制作期間を確保したい」と伝えられたんです。大泉くんと俺らでやり続ける、その間だけ違う人を入れる……いくつか選択肢としてはあったけど、わりとあっさりと「じゃあ我々も番組休みます」と決めた。

──ほかの番組の発想だと「〇〇さんが卒業します」みたいになりがちですもんね。

それは番組を長く続けようと思っていないんですよ。「大泉が一人じゃキツいよな、半年もたないから、新しい人を入れよう」とか、目先のことしか考えない。我々は長く続けることが目的だから、「この機会をどうやって利用しよう?」と考える。だから、どうでしょう以外にやりたかったことをしようって、みんなでドラマ(『四国R-14』)を撮ってみたりした。

──このあたりから洋さんも本格的に全国区の仕事が増えてきましたよね。

そうだね。そもそも我々が北海道でアイツを6年間も「拘束」しなければ、アイツはもっと早くに東京で芽を出したんじゃないかと思うけれど(笑)。ともあれ、この時期は俺も含め、『どうでしょう』のメンバーが外へ目を向けはじめた。

そんな状況が続いたから、番組を長く続けるために、いっそここでレギュラー放送もやめてみよう、と決めたんだよね。

──2002年ですね。局としては高視聴率の番組が休止するのは痛手だったと思いますが、止められませんでしたか?

藤村忠寿さんのキャリアグラフ4

止められはしなかった。まぁ、どうせ聞かないってわかってるんだろうね(笑)。我々が決めたら、会社がいくら言おうが無理って。放送日だってこっちが決めるくらいだから(笑)。

その代わり、ずっと再放送すればいい。これも大発見だったよね。視聴率はあまり変わらないし、そのうち他県で放送されるようになって、ローカル番組なのに全国放送の番組と同じくらいの認知度になって。どんどん新しい視聴者を獲得した、という。

あれだってきっかけは、「俺らが休みたいから」っていう単純な気持ちだったもの。毎週番組を作るのは疲れるし、長続きしないじゃない。このままのペースで10年、30年と『どうでしょう』を作り続けていくことはできない、と。休むためにはどうしたらいいか? と考えた結果。再放送でも視聴率は取れるし、編成も反対しようがないよね。不利益があるわけじゃないし、他にそんなこと言い出すやつもいなかったから。

──ある意味早すぎた「働き方改革」ですよね。そんな再放送と並行し、『どうでしょう』の代名詞となっていくDVDも、この時期から発売されはじめます。

そうだね。レギュラー放送を終えた頃から、『どうでしょう』を放送枠にとらわれず、自由に編集したいっていう気持ちが強くなってきた。「売りたい」ってよりは、「面白いから、全部作り直したい」って。

──映画の「ディレクターズカット版」みたいなものですね。

2002年からは編集室にこもって、昔の素材を全部編集し直す作業をはじめたんだけど、ざっと計算してみたら編集し終えるまでに15年かかると分かった。

当時は上司に「15年かかるんです」と言っても、上司自身もその15年という年月の価値判断ができないから、特に何も言われなかったんじゃないかな。

だから、先に実績作っちゃえと思って、レギュラー放送最終回の「原付ベトナム縦断1800キロ」からDVD化したら、いきなり2万枚以上売れたんです。番組を作るより儲かっちゃった。会社のためにお金を稼いでいるんだから、会社は「やめてくれ」とも言えないでしょ。そのうち会社も、まんまと「次のDVDいつ?」と言ってくる(笑)。おかげさまで、1年のうち「どうでしょう」以外のことに使える時間が半年できた。

──その半年で好きなことをしよう、と。

明確にやりたいことがあったわけじゃないけど、TEAM NACSの連中と一度芝居をやってみたいとは思ってた。だから、会社の駐車場に芝居小屋を建てて、「水曜天幕團」って劇団を作ったの。すると、テレビマンユニオン(制作会社)会長の重延(浩)さんが面白がって観に来てくれて、お話するうちに(立川)志の輔さんの『歓喜の歌』っていう落語のドラマ化をやってみない?と声をかけてもらって……そうやっていろんなオファーをいただくようになったんです。

ポンと違う世界へ飛び込んでみたら、今まで全然つながりのなかった人から面白い話が舞い込んできた。俺自身もそれを求めてたんだろうね。そうやって外へ外へと動いてるうちに、今こうなってる感じ。かれこれ10年以上そんな仕事のスタイルを続けているから、仕事の幅が広がる一方なんだよ。

「えっ、知らないの!?」って人に言わせたい

──2010年には、コンテンツ事業室へ異動されていますが……。

藤村忠寿さんのキャリアグラフ5

異動……じゃないね。俺らがやってることはずっと変わらないんだけど、所属先の名前が変わっただけ。会社が後から名付けた、みたいな。「アイツら、制作じゃねぇよな?」って(笑)。

──この間に異動の打診はなかったんですか?

ないない。だって会社にとっても、俺を異動させたら損でしょ? 一度、制作部の副部長にはなったの。で、他の番組を仕切ってくれとか、なんとなく上に言われたんだけど……「やだ」って(笑)。

──「やだ」(笑)。

そんな時間もったいないじゃない。せっかく外の人といろんなことできそうなのに、どうして社内のテコ入れなんてしなきゃいけないんだ?って。「ないな」と返したら「そうだよな」って、以降そんな話は一切来なくなった。

会社としては、俺を社内にとどめておくよりも、そういうふうに人脈を広げてくれたほうがいいと思ってるはずだよ。実際、『チャンネルはそのまま!※5』というドラマだって、総監督として外から本広(克行)さん※6を連れてきたんだから。

──2019年に制作された連続ドラマですね。Netflixで先行配信され、日本民間放送連盟賞テレビ部門のグランプリにも輝いたという。

あのドラマでは、ローカル局とキー局の関係性を全部反故(ほご)にしたからね(笑)。北海道のローカル局がキー局の手を離れて、Netflixみたいな海外の超大企業に出資してもらって、ドラマを作る。誰も考えなかったことですよ。

簡単に経緯を話すと、Netflixと僕らを引き合わせたのは『どうでしょう』でした。「『水曜どうでしょう』はコンテンツとして優良なので、ぜひ流したい」とオファーをもらったんです。どうぞどうぞ。で、今度はこっちがNetflixを利用しようと思って。「ドラマを作るんですが、お金出してくれます……よね?」的な(笑)。

藤村忠寿さんのキャリアグラフ6

──策士!(笑)。それにしても藤村さんはお芝居に、YouTubeにnoteに、新しいことを先入観なくはじめていらっしゃいますよね。

むしろそれが普通なんじゃないの? まったく知らないから、やる。みんな結構、よく分かんないからやらないみたいだけど。俺の場合、全部「知らない」ところからはじめてるんです。ドラマも作り方が分からなかった。でも知っていく過程は面白いし、一緒にやってくれる人もできないヤツができるようになっていくほうがテンション上がるんですよ。

お芝居とかはまさにそうでしたね。僕がまったく知らないという状況からはじめると、向こうも「教えよう」という気になる。こっちがどんどん上達していったら、相手も嬉しくなるんですよ。

自分をカッコよく見せようなんてそもそも思ってない。むしろ相手を気持ちよくさせたい。「えっ、知らないの!?」って言わせたい。他人より優位に立つと、人ってすごく気持ちいいじゃない(笑)。そうしたら全力でこっちに教えてくれる。

そうやってまんまと人を利用して、いろんなこと教わって、一緒に仕事ができるようになっていく。でも、ディレクターの仕事ってそういうことなんじゃない? タレントさんやスタッフに、気持ちよく働いてもらう。俺は黙って座っているのがいちばんいい。

だけどそうするためには、準備が必要なんですよ。仕事をはじめるときはいつも、自分にとって勝手の良い環境をバーっと整える。そうするとそこが居心地のいい場所になるんですよ。で、自分の庭の中で「みなさん、自由に遊んでください!」みたいなのがいちばん理想ではあるよね。

──そういう意味では、『どうでしょう』最新作の「どうでしょうハウス」はまさにそんな場所ですね。

あれ、もう俺のものになっちゃったからね、完全に(笑)。

「どうでしょうハウス」の中で

「どうでしょうハウス」の中で

──そんな気がしていました(笑)。

“おっさんが住んで野鳥観察してるだけ”なんだけど、そうすることであの場所がYouTubeでも活かされる。誰にとっても損はないようには考えてます。

「楽しいことやるしかないですよね!」なんて言ってるヤツは、いちばんダメ

──これからも「一生どうでしょう」ということで……この先『どうでしょう』はどうなっていくんでしょう?

我々のやりやすいようにやって、長く続けていくだけだね。

ただ、視聴者の中では「次はいつですか?」「なにやるんですか?」って、期待値がどんどん上がってる。だから最新作ではあえて、「我々はもうダメです」って言っちゃった。「迷走してます」「俺はディレクターの勘がない」って。ある意味ファンの期待を裏切っちゃったんだね(笑)。

でもそれって、視聴者も悪い気はしないはずなんですよ。「どうでしょう大丈夫かな?」って気になる。……「長く続ける」ための戦略にまんまとハマっているわけですね(笑)。

──なんだか全部計算づくのような気がしてきます……。

後付けだけどね(笑)。でも、そのときそのときにちゃんと自分たちで判断はしている。だから、その判断に至った理由まで言える。判断を他人に委ねたことは一度もないからね。最終的にどうするかを決めるのは我々だから。

──あぁ……周りの判断ばかりに左右される自分を反省しました。

いいんだよ、判断できる人とできない人がいて。やっぱり自分で判断したくないじゃない? 責任もあるし。そういう人は、判断できる人を見極めるのが重要。「あの人の判断は面白いほうに転がるよね」という人を見つければいい。こっちは常に自分の判断に騙されてついてきてくれる人を探してるから(笑)。

藤村忠寿さん現地撮影写真

──その判断基準ってどんなことでしょう?

うーん……やっぱり、一緒にやっている人のことは考えてる。この人は今、どういう考えなのか、どういう気持ちなのかって。なんなら自分一人の判断じゃないかもしれない。明らかに相手が嫌がってることは絶対にやらないもん。「こういうことしようと思うんだけど……」って言ったときに嬉野さんや鈴井さんが「うーん……」って一瞬でも考え込んだら、俺は考えを変えるからね。

だから「決める」っていうより、「決めていく」んだろうね。みんなの顔色とか流れとか状況を見ながら「決めていく」。

バラエティ番組を作る人の思考って、自分のやりたいことに相手を巻き込んでいくんだろうけど、俺は別にやりたいことがあるわけじゃない。自分も周りもゆったりしてる状況の中で、どうしたらいいか考えてる。それが俺にとっていちばんいい環境なんだと思う。

自分もみんなも理解しやすい判断基準が、お金を儲けられることだから、それが(判断基準の中では)一番重要かもしれない。「楽しいけどしんどい」とか「楽しいけど儲からない」とか、そういうのが危ないよね。単純に「楽しいことやるしかないですよね!」なんて言ってるヤツは、いちばんダメ(笑)。

自分が楽しいだけで、他の人が楽しめなかったら意味ないし、自分が楽しいだけでお金を儲けられなかったら、仕事として何の意味もない。だから、楽し「む」じゃなくて、楽し「める」ようにする。それでみんながのんびりできて、なおかつお金が儲かったら、いちばんハッピーじゃん(笑)。

──最高ですね。

今は「こういうのやってみたら?」とか「これ面白そうだよ」って言われたのを、「じゃあ教えてくださいよ!」ってやるだけだから、成長しかない。だから、この先もグラフは上がり続けていくんじゃないかな(笑)。

※1:北海道の演劇ユニット。
※2:2019年12月〜2020年3月にかけて放送。
※3:最新作の企画で赤平市に建設されたツリーハウス。ロケ時に積雪で崩壊するなど紆余曲折の末、完成。2020年のゴールデンウイークに一般公開が予定されていたが、新型コロナウイルスの感染拡大を受け、当面見送りとなった。
※4:正式名称は『モザイクな夜 V3』。『どうでしょう』の前身となった深夜番組で、鈴井さんがレギュラー出演していた。1996年9月に終了。
※5:HTBの開局50周年を記念して制作されたドラマ。漫画家・佐々木倫子さんの同名コミックが原作。北海道のローカル局に入社した新入社員の奮闘ぶり、テレビ局の内情をコミカルに描き、話題となった。
※6:映画監督。代表作に『踊る大捜査線 THE MOVIE』シリーズ、『交渉人 真下正義』『少林少女』など。

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取材・文:大矢幸世
現地取材写真:小野奈那子
※現地写真は2019年9月のこちらの記事の取材時のものを使用しています