
※この記事は2020年3月に取材・撮影した内容です
「獺祭(だっさい)」という不思議な名の日本酒をご存じの方は多いでしょう。香り高く、口当たりはやわらか。それでいて、飲み口は芳醇。日本のみならず海外でも多くのファンに愛される純米大吟醸です。
この酒を造るのは、山口県岩国市にある旭酒造。現在では日本の清酒メーカーの売上高トップ10にランクインするほど売上を誇りますが、かつては地元の中でも4番手に甘んじる、小さな蔵元でした。一時は経営難に陥るほどの苦境にありましたが、そこから日本酒作りの慣例にとらわれない新たな取り組みに挑み続け、国内外の日本酒市場を鮮やかに開拓していきました。その立役者が、旭酒造株式会社会長の桜井博志(さくらい・ひろし )さんです。
市場低迷、多額の負債、豪雨災害──幾多の困難に直面しながらも、「良い酒づくり」に邁進してきた根底にある仕事観をキャリアグラフを手に振り返ってもらいました。

父にクビを言い渡され……「目にモノを見せてやる」

──キャリアグラフを拝見すると……「どん底」にあたるようなことはこれまでなかった、という認識なのですね。
そうですねぇ……だって、「どん底」ってそんなにないでしょ? 死ぬときはどん底かもしれんけど(笑)

桜井博志さん:旭酒造株式会社 会長。1950年山口県周東町(現・岩国市)生まれ。松山商科大学(現・松山大学)卒業後、西宮酒造(現・日本盛)での修業を経て、76年に旭酒造(1770年創業)に入社するも、酒造りの方向性や経営をめぐって父と対立して退社。石材卸業会社を設立し、年商2億円まで育成したが、父の急逝を受けて84年に家業に戻る。研究を重ねて純米大吟醸「獺祭」を開発、業界でも珍しい四季醸造や12階建ての本蔵ビル建設など「うまい酒」造りの仕組み化を進めている。
──そんなこと言わないでください(笑)。キャリアグラフは大学卒業からはじまります。酒造メーカーへ就職したのは、やはりご実家の酒蔵を継ぐためだったのですか。
一応、修行のつもりではいましたが、就職のときに実家が酒蔵とは伝えていませんでした。営業担当になり酒販店さんを回っていたから、殿様教育などではなく、ただの“一兵卒”です(笑)。そこで3年半勤めたあと実家の蔵に戻ったのですが、父親は蔵に僕を入れたくなかったんでしょうね。実家でもしばらくずっと営業をしていました。
──蔵を継ぐことはお父様に認められていなかったのですか?
なんというか……継ぐんだろうなという雰囲気はあるけど、父は最終的なお墨付きをくれませんでした。当時、酒造業界全体でジワジワと売上が落ちていた時期だったのですが、父は経営者として、ある意味財務状況を見切っていたんでしょうね。少しずつ蔵を縮小して、個人資産を残して最後は閉めてしまえばいい。父の世代はあと少しで年金生活ですし、下手に何か変えるより何もしないほうがいい、と。しかし、僕らには危機感があるんですよ。これから食っていかなきゃならないわけですから。
──となると、かなり仕事はやりにくいですよね……。
そりゃそうですよ。対立することが多くて、やがて大喧嘩になるわけです。そして父に「もう明日から出てこなくていい」と言われたもんだから、「わかりました」って、次の日素直に仕事に行かなかった。僕、素直なんです(笑)。
──それで独立して、石材卸業会社を起業したのですか。
食べていかなくちゃなりませんから、何をしようかっていろいろと考えたんだけど、だいたいみんなやっているようなことしか思いつかなくて。喫茶店にゲーム機を置くのが流行っていたから、ゲーム機のレンタル業とかね。でも当時、妻の親戚が石材採掘業をやっていたんだけど、なぜか地元に石材の卸業者は1社もなかった。だったら自分が卸業を始めてみようか、と。
石材の仕事は面白かったですよ。なんというか……「モノがいいと売れる」という理屈が肌で感じられたので。蔵で修行しているときは、「このやり方は違う」という違和感とともに仕事をしていた感じですが、石材卸をやってはじめてしっくりきたんです。いいものであればいくらでも売れる。「あ、これだ」と、酒造業界に足りなかったものが見えてきて、目からウロコでした。
──酒造業界に足りなかったもの、とはなんでしょう。
品質、という考え方です。当時はまだ、安い普通酒※1をどんどん売っていくような時代でしたから、味がどうこう言う人なんていなかった。酒屋さんに「この酒、おいしいですか?」って聞いても「さぁ? 私、酒飲まんから知らんわ」なんて言うほどですから(笑)。
※1:大吟醸、純米酒、本醸造など特定名称酒と呼ばれる酒以外の清酒
──品質を大事にされた甲斐があって、石材事業は非常に順調に伸びていったと聞いています。にもかかわらず、旭酒造へ戻られたのはなぜだったのですか?
父が急逝して戻る以外の選択肢がなかったんです。通夜の席で誰も蔵のこと決断できない状況です。できたばかりの酒がタンクに入ったままで、火入れして瓶詰めしなければ、どんどん悪くなってしまう。にもかかわらず、みんな自分の判断で瓶詰めする度胸もなければ廃棄する度胸もなかった。そんな状況で……それでもやりたかったから、決断したんです。
──やりたかった、と感じたのですか?
そりゃそうですよ。クビにされたんだから、目にモノを見せてやると思って。それでも実際、決算書を見たらガクッときました(笑)。売上は前年比85%で、急降下の真っ最中。なんとか出血を止めなきゃならない状況ですが……なんともならなかったですね。

桜井博志さん(写真右)が社長に就任したころ。
遠大な理想があったわけではなかった。当時の最善の手が、純米大吟醸づくりだった
──苦境を脱するためにどんな取り組みをされたのですか。
いろんなことをやりましたよ。値引きもいっぱいしたし、紙パック入りの酒やカップ酒を作って……。当時うちの酒のほとんどは「旭富士」という普通酒で、かろうじて1%だけ純米酒を出していました。それも精米歩合※250%の酒だったんだけど、とても純米大吟醸と言えるような上質な酒じゃなかった。「精米歩合60%にすればもうちょっと儲かるんじゃないの」と言われるくらいで。
※2:玄米を磨いて残った白米の割合。精米歩合50%以下は大吟醸酒にあたる。一般的に精米歩合の数値が低ければ低いほど、雑味がなくなるが、同時に製造原価は上がる。
──そのころから、大吟醸に力を入れはじめたのですよね。何かきっかけがあったのですか? 時代背景としてはバブル景気に差し掛かり、高級志向も強まっていたのではないかと思いますが……。
当時の僕らの技術で造った大吟醸は、自分としては決して満足できないひどい出来なんだけど、それでもお客様からの反応はなかなかいい。だから、大吟醸に力を入れるべき、という判断に手応えは感じていました。
その後、新たな杜氏(酒造りを取り仕切る責任者)さんに来てもらって、本格的に大吟醸を造っていくことにしたのですが、タイミングとしては遅すぎるくらいです。当時、各地の有力な蔵元や酒販店、卸問屋さんが加盟する「日本名門酒会」という組織を中心に、いわゆる「地酒ブーム」が起こっていて、僕らのような無名の蔵が新たに銘柄を全国に広げるのは、難しいだろうと言われていましたからね。

──それでも大吟醸にこだわったのは、何か勝算があったのですか。
いや……だって他にやることがないんですよ(笑)。僕らは遠大な理想を持って、夢に向かって走る、と大吟醸を造ろうとしていたわけじゃないんです。そのくらいしか打つ手がなかったというだけ。信念を持って「純米酒しか造らない」と決めているような蔵からしたら、ウチはとんでもないでしょうね。
──いまでは海外でも知られるほどの「獺祭」が誕生したのは1990年ですね。
同じ90年にワイン酵母を使った純米大吟醸を造ったのですが、珍しさもあっていろんな人に褒められたんですよ。それで得意になっていたんだけど、ある女性に言われたんです。「あなたはワイン酵母の日本酒を造ったとおっしゃるけど、それは同じ値段のワインと比べておいしいと思うの?」と。
その言葉を聞いて、そりゃそうだよな、と思い直したんです。お客様にとっては、2000円出すなら2000円なりの価値があるかどうかが大事なことで、それが日本酒だろうがワインだろうが関係ない。
酒蔵はみんな、どんな日本酒を造るか、どう工夫するかと一生懸命考えるけど、お客様からすれば、おいしくなければ価値はないんです。
それをきっかけに、ある意味「ウケ狙い」の酒はやめました。奇をてらうのではなく、とにかく「うまい酒」──酔うため、売るためではなく、味わうための酒を目指していくことにしたのです。
多額の負債、杜氏に逃げられ……「自分たちで造ろう」

──「獺祭」発売以降、本格的に東京へ進出し、1992年には当時、もっとも多く米を磨いた純米大吟醸「獺祭 磨き二割三分」を発表するなど、順調に売り上げを伸ばしていきますが、キャリアグラフとしては±0の状態ですね。
当時は並行して普通酒も造っていましたし、いろいろと試行錯誤していました。なかなか純米大吟醸だけに絞りきれなかった。やっぱりまだ、「普通酒でもうまい酒を造りたい」という夢を抱いてたんですよ。普通酒に使う米を精米歩合65%にして本醸造にしたり、山田錦(酒米を代表する品種の一つ)を35%使った酒をブレンドして普通酒を造ったり……でもそうして試行錯誤して造った普通酒を出してもほとんど売上が変わらない、どころかむしろ落ちるくらい。コストは通常よりもかかっているから、焼酎やビールと勝負にならないわけです。
大吟醸だって、純米にこだわっていたわけではありませんでした。アルコールを添加※3すれば香り高い酒になるし、そのほうが味もいいと思っていましたが、結果として純米大吟醸のほうがよく売れる。そうやって、しょうがないな、純米大吟醸※4に絞って酒造りをしたほうがいいのかな……と考えはじめたんです。
でもやっぱり、大きな転機だったのは、杜氏さんに逃げられたことでしたね。
※3:サトウキビなどから蒸留された「醸造アルコール」を添加するとより華やかな吟醸香になると言われている。
※4:醸造アルコールが添加されていない大吟醸酒。
──1999年、地ビール事業に失敗したのがきっかけ、とあります。
もとはと言えば、87年からずっと勤めてくれていた杜氏さんが65歳になり、そろそろ今後のことも考えないといけないな、と思ったのがきっかけでした。それで、地ビール事業をはじめたんだけど、コンサルまかせだったものだから大失敗して、年商2億円の会社が1億9千万円の負債を抱えることになったんです。普通に考えたら、アウトですね。
こうした事業の迷走が、杜氏さんの仲間の間でも「あの蔵は厳しいだろう」「給料もらえないじゃないか」と噂にもなる。するとその年、杜氏さんは「もう辞めさせてもらいます」と、来なくなってしまった。でもこれが結果オーライだったわけです。

──多額の負債を背負って、酒造りを一手に引き受けていた杜氏さんがいなくなって……途方に暮れてもおかしくない事態ですが、キャリアグラフは少し上向いていますね。
その2年くらい前から、少しずつ自分たちでも酒を仕込みはじめていたんです。90年代に入って、酒造業界では吟醸酒造りのマニュアル化の動きが出はじめて、「精米歩合は○%で、吸水率を○%にして、米を蒸すときにはこうして……」みたいに、データやマニュアルを守れば、それなりにうまい酒になることがわかってきました。それまで属人化されていた杜氏さんの技術や勘が、再現できるようになったんです。
同時期に、杜氏さんに対して「こんな酒が造りたい」「こうしたい」と、僕はいろいろと口を出していたんだけど、酒造りに責任とプライドを持っている杜氏さんはそういうの嫌がるでしょう? たとえば、会社としては12月の寒い時期に、甘くてコクのあるにごり酒を出したいんだけど、そのためには、10月に杜氏さんに来てもらわなければならない。
──杜氏さんは基本的に農家と兼業されていて、農作業ができない冬場に出稼ぎ仕事として酒造りに携わりますからね。
そのとおりです。杜氏さんは「まだ農家仕事が終わらないから」と、来たがらないわけです。しょうがないから、自分たちでにごり酒を造ってみると、なるほどこうすればいいのか、と。それで、純米吟醸もこの酵母を使って、こうすればこうなるのか……と、いろいろと手を出してみて、失敗したら修正して、といったふうにやるようになった。
こんな経緯で、社員だけで造りはじめたものですから、周囲からはチクチク言われたものですよ。「獺祭は杜氏に逃げられたから、社長が自分で酒造りをはじめたんだ。あそこはもうダメだろう」って。
しかし、杜氏がいなくなってしまったというのは、同時に、「マニュアル化した酒造り」が自由にできるようになったということでもありました。そして僕は「100点満点の酒を目指さず、70点で合格点」と考えていたのですが、これが大きなポイントだったと思います。

40代の桜井博志さん。独自の純米大吟醸づくりに邁進していたころだ。写真の背後に並ぶ『旭富士』は獺祭発売以前の旭酒造の主力商品(現在は廃番)。
──完璧を目指さなかった?
はじめから100点の酒なんて、できっこありませんし、100点にこだわったらチャレンジできなくなってしまいます。日本酒業界にはやはり保守的なところがあって、なかなか新しいことにチャレンジする機会がない。みんなが足並みそろえて、従来の方法で「これが素晴らしいよね」と言いあっていたら、それはそれで幸せなのかもしれません。でも、それじゃいつまで経ってもチャレンジも変化もない。
日本酒が生まれた室町時代にさかのぼれば、お寺のお坊さんが年間通してお酒を造っていた。それが、江戸時代に杜氏制度ができて、寒造り※5の技術が洗練されていった。つまり、酒造りの方法は変化してきたもので、業界で伝統とされていることが、唯一の正解とは限らないんです。
※5:冬の寒い時期に日本酒を仕込むこと。対して「四季醸造」は年間通して酒造りを行うこと。
フレンチの巨匠ジョエル・ロブションからの誘い
──桜井さんは、酒造業界の常識とされてきた「杜氏による寒造り」ではなく、「社員による四季醸造」をはじめました。新しいことをはじめるにあたって、不安はありませんでしたか。
不安は常につきまといますけど……「新しいことをやろう」と気負っていたわけではないんです。ただ、“ええカッコしい”だから(笑)、「カッコいい酒蔵になろう」というのはずっと考えていました。
僕にとって幸いだったのは、「自分の好きな酒」を造ったら、お客様がそれを認めてくださったということです。国内の日本酒出荷量の7割近くが普通酒の中、僕らは純米大吟醸しか造っていない。そもそも「売れる酒」を狙って造っているわけではないんです。「こんな酒が美味しい」「こんな酒が好き」だと考えるものを造れば、きっとお客様にわかってもらえるだろうと思っていたので。そうしたら、現実に少しずつ売れるようになってきた。それが本当に幸せなんです。
──そういう意味では、桜井さんご自身の中に「これが美味しい酒だ」という確固としたイメージがあったのでしょうか。
蔵を継いだ時点ではまったくありませんでした。でもなかなか酒が売れなくて、「こんな酒がいいな」「こういう酒なら、お客様にも美味しいと思ってもらえるかな」と、本気になって酒について考えているうちに、少しずつイメージが育っていったんです。
そうやって考えていくと、果たして寒造りっていうものが本当に日本酒にとって最適な醸造方法なのか、と疑問もわいてくる。気候や造り手の都合に左右されるのではなく、温度管理もしっかり整備されたところで、社員たちが日々データを見ながら、改善を繰り返して造った酒のほうが、いいものになるかもしれない、と仮説も生まれてきます。酒造りのシステムそのものに疑問を持ち、経営者として実際にシステムを変えることができたから、結果としてお客様にも喜んでもらえるようになったのかもしれません。

──日本酒業界に一石を投じることができた、と。
いえ、酒造業界だけを見て、他の酒蔵さんをライバルとして意識してしまえば、僕らには将来がないと考えていました。なにしろ、前年比からジワジワと下がり続けている業界でしたから。縮小していく業界の中で必死にシェアを取ろうとしても、前年比から漸減するだけです。だからこそ、獺祭のベンチマークは、日本酒ではなくシャンパンかな、と考えていたんです。業界の中でマニアックな存在感を追求するのではなく、シャンパンのように多くの人に美味しいと思われ、価値が認められている。そんな方向を目指すべきなんだろうなと考えていました。
──そういった志向があったからこそ、海外に目を向けるようになったのでしょうか。2002年の台湾を皮切りに、海外進出を本格化されていきます。
海外への出荷は、むしろ業界でも遅いほうでした。80年代には大手酒造メーカーなどが海外現地法人を立ち上げていましたし、90年代初め頃から各地の蔵元さんもいくつか進出するようになっていた。うちの海外出荷は10年以上遅れていたと思います。
ただ、海外という未知の市場に対する思いはずっとあったんです。地元の市場だけでは手詰まりになり、東京という大きな市場へ行ったことでシェア競争をしなくてすむようになった体験があったので。
「どうぞいろんな酒を楽しんでください。その中でたまにはウチの酒を飲んでね」と、大きな市場ならそう言えるわけです。だから、もっと大きな可能性のある海外へ行きたかった。それに、なんかカッコいいでしょ? 海外へ輸出するような蔵元って(笑)。
──2003年からアメリカ、2007年からはフランスへの輸出を開始し、2013年にはフランスで現地法人を立ち上げていますね。
僕らが海外輸出を進めることができたのは、とにかく本気でやったからだと思います。現地の市場を見て、どのインポーター(輸入業者)と組んで、どう売っていくべきなのか、真剣に工夫した。たとえば、日本酒を売りこむなら現地の日本料理店だと考えがちだけど、海外における日本料理店の多くは、いわゆる「和食ブーム」に乗って出店していて、それだけでうまくいっている。いまある日本酒に加えて、わざわざ新しいものを入れようとは思わないわけです。ですからそれ以外にも開拓の余地があるかどうか、そこにアプローチするにはどうすればいいのか、考えなければなりません。
──そういう意味では、2018年パリにオープンした「Dassaï Joël Robuchon」は、大きな意義のあるコラボレーションだったんですね。
まさに象徴的な出来事だったと思います。ジョエル・ロブションさんとはじめてお会いしたのは、2010年に行われたモナコでのレセプションで、僕らはそこで酒を振る舞ったのですが、料理を担当したのが彼のプロデュースする「Yoshi」という和食店でした。Yoshiではその前から獺祭を取り扱ってくれていたのですが、それが縁になって、ロブションさんに巡り会ったんです。
その後、「一緒に店をやろう」と声をかけてくれたのはロブションさんの方でした。やっぱりシェフって本当に美味しいものが好きで、それを追求していこうという思いがある。だからずっと獺祭のことを気にかけてくれていたんじゃないかと思います。
今日と同じ明日は来ない。何かが起こる前提でやるしかない

──2010年代に入ってからキャリアグラフはずっと上のほうで推移していますが、会社としてもこの10年で4倍近くの売上高になっています。蔵や本社を新しく建てて、お酒を造るための環境にも投資されていますね。
ただ、それに関してはこの10年にはじまったことではないんです。酒蔵を継いで以来ずっと、毎年売上の1割を設備投資に使ってきました。経営のセオリーからしたら「過剰投資」と言われるような比率です。投資に失敗し倒産した会社のニュースなんかを読んでいると、「あれ……? これってウチみたい」と思いますよ(笑)。
──それだけアクセルを踏むのって、躊躇しませんか?
でも、そうしなきゃ何も成功しない。おそらく僕らはこの30年間、日本でいちばん失敗し続けた蔵ですよ。誰が見たってそう言うでしょう。
──それは、表に出ていない失敗もあるってことでしょうか。
もちろん。全てひっくるめて、いろんなことをやっては失敗している。他の酒蔵さんなら、こんなに失敗しないと思います。失敗する前にそもそもそういうことをやらないだろうし、失敗するまではやらない。だって、そもそもこの場所(獺祭ストア銀座)も、失敗の賜物のようなものなんですよ。
本当はフランスに法人を作ったタイミングでパリに直営店を出店するはずだったのですが、家主さんが「飲食店にはしたくない」と言いはじめて、白紙になってしまった。本当はそこで隈研吾さんに設計をお願いして、お店を立ち上げる予定だったんです。
ただ、それが縁でこの店も本社蔵の店も隈先生に設計してもらうことになりましたし、ロブションさんから「それなら、私たちと一緒にやろう」と声をかけてもらえることにもなった。だから、パリの失敗は痛かったけど、結果的によかったんです。

▲獺祭ストア銀座にて。同店では、獺祭ブランドのさまざまな商品が購入できるほか、テイスティングスペースも兼ねる。福岡、フランス・パリにも同様の機能を持つ店舗を出店している。
──とはいえ、失敗が続くと、くじけそうになりませんか。
いつもくじけそうになってますよ。夜になると寝られないしね(笑)。ただ、やっぱり最初に味わった悔しさが強かったんでしょう。親からクビにされて……見返してやりたかった。「いい酒蔵になりたい」というか……自分の手で「カッコいい酒蔵」を作りたい、って。
この銀座の店もはじめはなかなかうまくいかなくて、この2、3年でやっと軌道に乗りはじめたと思ったら、この新型コロナウィルスの影響が直撃しましたから。
──誰も予想していなかった事態ですよね。
やっぱり、今日と同じ明日は来ない、ということですよね。東日本大震災でもそう思いましたし、2018年の西日本豪雨災害で被害を受けたときもそうでした。
──本社近くの川が氾濫して、敷地内の橋が崩壊して、浸水被害も起こったんですよね……。
だからもう、何かが起こるという前提でやるしかない。腹をくくるしかないですね。
──桜井さんがそうやって、失敗や苦難に直面しても、ベンチャーマインドを保ち続けていられるのは、なぜなんでしょう?
そうですね……振り返ってみれば、僕は中学校から親元を離れて、広島へ進学したんです。だから、地元に帰ってもいつもひとりだったというか、根なし草だった。だから、東京の市場へ出るときも、海外に行くときも、抵抗はなかったわけです。それがよかったのかもしれませんね。僕はそうやって、開拓する役割なんですよ。いま、ニューヨークで建設を進めている酒蔵も、最初の1年くらいはアメリカに駐在して、体制を整えることになると思います。
──これからご自身はどんなキャリアを思い描いていますか。
これまで僕自身、強い思いを持ってやってきたことを、どう社員に伝えていくか。それを考えていかなければならなりません。2016年には息子(一宏さん)が社長に就任して、彼も大変な思いをしているだろうけど、たとえばソニーが昔のまま若く挑戦的な会社ではなく、成熟して安定したいまのソニーになったように、あるいはアップルがこれからそうなっていこうとしているように、やっぱり獺祭もどこかで普通の会社になっていかなければならないのかもしれない。
ただ、これからも「普通の会社」を目指して邁進していくということを、自分自身が再びやりたいかと言われると、そうでもない。頭ではその重要性は理解しているのですが(笑)。
──丸くなりたくないというか……。
そりゃそうですよ。自分でもそういう姿を見たくないですよね(笑)。
──ニューヨークでの酒蔵もそうですし、まだまだ何か新しいことをされるような気がします。
そういう意味では、今年出した「新生獺祭」も、新しい試みなんですよ。これまで僕らは「飲んで美味しい」という幸せを開拓してきたけれど、人間の根源的な幸せを考えていくと、最後には「健康」に行き着く。だから「新生獺祭」は健康を目指して造った酒なんです。飲んで美味しいうえに健康になれるのであれば、最高に幸せだと思いませんか。これからはそんな可能性も追求していけたらいいなと考えています。
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取材・文:大矢幸世
撮影:小野奈那子