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トップランナーの履歴書から「仕事人生」を深掘り!

コピペも知らない訪問販売営業マンが、インターネット広告会社を作り上場させた|岡村陽久の履歴書

世界各国で事業を展開するインターネット広告企業、アドウェイズ創業者・岡村陽久さんの履歴書を深掘りします。26歳2ヶ月で東証マザーズ上場を果たし、順風満帆な仕事人生を送ってきたように見える岡村さんですが、そのキャリアは独特で、常に新たな挑戦を積み重ねてきました。岡村さんの歩んできた道のりと今頭の中に描いている未来とは。

岡村陽久の履歴書アイキャッチ

※この記事は2019年12月に取材・撮影した内容です

クリック保証型広告ビジネスで頭角を現し、インターネット広告代理店として急成長。いち早く中国に開発拠点をつくり、26歳という若さで東証マザーズ上場を果たす──。

アドウェイズ代表・岡村陽久(おかむら・はるひさ/ @haruhisaokamuraさんの経歴はあまりにパワフルで、履歴書もびっくりするほど波瀾万丈です。

「なんとなく面白くなさそう」という理由で高校を退学し、(意図せず)飛び込んだのはハードな訪問販売の世界。パソコンもインターネットも知らなかった16歳の若者が、どのようにして年商400億のIT企業の創業社長になったのか。あまりに破天荒な経緯、そしてはちゃめちゃな「営業道」から岡村さんが得たものを伺いました。

アドウェイズ岡村陽久さんの履歴書

高校生活が面白くなさそうだから、働こうと決めた

アドウェイズ岡村陽久さんのキャリアグラフ1

──岡村さんのキャリアグラフの値は、なんと最初からMAXです。高校を2ヶ月で中退して訪問販売の営業マンとして働き始めるわけですが、そもそもどうして中退を?

入学して1ヶ月もしないうちに、これからの高校生活が中学での日々と被って見えたんですよね。勉強して、テストを受けて、部活して。いわゆる学生生活はもう経験しているので「なんとなく面白くなさそうだな」って。中学の友達とも離れちゃったし、そうするとこのまま通い続けるか、働くかという選択肢になるじゃないですか。

──そこは大体の人が「通い続ける」を選ぶと思うのですが……。

「仕事って楽しそうだな」っていうイメージをずっと持っていたので、早く働きたいと思っていたんですよ。さかのぼって考えてみると、きっかけは小学2年生くらいのとき。親が養護学校の先生をしていて、学校のバザーで余った1000個くらいの弁当を何人かで売り切ろうという話になって、僕がそのうち900個を売ったんです。

小学2年生が弁当を売っていたら、多少は興味を持ってくれるじゃないですか。「坊主、頑張ってるね」「ありがとうございます、じゃあ5個置いてきます、2500円です!」みたいな感じで、ほぼ押し売りです(笑)。それが楽しくてしょうがなくて、子どもながらに「仕事って楽しいものなんだ」と思うようになりましたね。それで、このまま高校に通い続けるくらいなら「早いうちから、楽しく仕事をしよう」と決めました。

アドウェイズ岡村陽久さん

岡村陽久さん:1980年生まれ。高校を2ヶ月で中退し、1996年にアルミ製品の訪問販売を行う会社へ就職。1998年には単身大阪に渡り近畿設備に転職、換気扇フィルターの訪問販売で西日本トップ、全国2位の営業成績を残す。2000年、クリック保証型広告の広告事業を展開するアドウェイズエージェンシーを創業、翌年には法人化し、インターネット広告代理店アドウェイズを設立する。2006年には当時史上最年少である26歳2ヶ月で東証マザーズ上場を果たす。

商品を売る前に、自分という「人間」を売る

──高校中退後に就職したのは訪問販売を行う会社です。どうして訪問販売という仕事を選んだのでしょうか?

正直、仕事は何でもよかったんです。どんな仕事があるのかもわかっていなかったので、「とにかく働ければいいや」と。高校を辞めたあと、まずはコンビニで求人情報誌を買ってみたんです。そうしたら「高収入特集」とある。上級、中級、初級と分かれていて、上級コーナーに「月給24万8000円、プラスやればやるほど報酬あり」と紹介されていたのがその会社だったんです。「施工部募集」とあったから「いっぱい工事をしたらいっぱいお金がもらえるのかな?」くらいの感覚で応募しました。

──面接に行ってみてどうでしたか?

「施工部の枠は埋まっちゃったから、君は営業に回ってくれる?」って言われて。「16歳の僕なんかがいきなり営業やっていいんですか?」と訊いたら「全然いいよ、君元気いいし」ということで、そのまま採用になりました。

入社後は僕を含めた5人が車に乗せられて、地方のニュータウンに降ろされ、「じゃあ、みんなピンポン押してきてね」と。ここでやっと「あ、ここは訪問販売の会社だったんだ」と気づきましたね。引っかけ採用にまんまと引っかかった感じです(笑)。

ベランダの上につけるテラスとか、駐車場の屋根といったアルミ製品を販売することになったものの、最初は片っ端からピンポンを押してもまったく売れなかったです。でも3〜4ヶ月目からだんだんコツをつかんできて。

──コツというのは?

アドウェイズ岡村陽久さん

新築一戸建ての家をピンポンして出てくる相手って、だいたい僕のお母さんくらいの年齢なんです。だからまず、自分が16歳だというのを必ず伝えることにしました。そうすれば「16歳のお兄ちゃんがこんなに頑張ってるの? じゃあ話だけでも聞いてあげようか」と商品の営業につながっていく。

商品を売る前に自分を売れば、その後商品も付いてくると気付いたんです。これでめちゃくちゃ売れて、入社して4ヶ月が経つころには社内のトップ営業マンになっていました。

──16歳にしてトップ営業マン。ものすごい営業力ですね。

でも、営業経験もなかった16歳が、たったの4ヶ月でトップ営業マンになるのはさすがにおかしいと思ったんです。あとで気づいたんですけど、僕以外の社員はほとんど仕事をしないで公園でビールを飲んだり、パチンコに行ったりしていました(笑)。歩合制だったので、働くも働かないも自分で選べたわけで「そりゃ僕がトップになるわ」とがっかりしましたね。

それで当時の先輩に「営業をもう少し極めたいんですけれど、どうしたらいいですか?」と相談したら「大阪に行ったほうがいい」と言われて、すぐに会社を辞めて夜行バスで大阪に行きました。これも今振り返ってみると、とくに根拠もないアドバイスなんですが……。

──決断のスピードの早さに目が回りそうです。岡村さんは転職先の近畿設備で西日本地区のトップセールス及び全国2位という快挙を成し遂げます。

アドウェイズ岡村陽久さん黒板に記入

入社したときにまず決めていたのが、営業トップになること。そのためにいろいろ計算したんですよ。他の営業マンはだいたい10時に新大阪の営業所に出社して、2〜3時間かけて滋賀や四国の訪問先に向かいます。

昼食などの時間も抜かせば実際にピンポンを押すのは13時から20時まで、つまり7時間です。営業日が月〜土の6日間だから、7時間×6日で42時間。ライバルたちは1週間にピンポンを42時間押していることになります。

僕はその倍の時間ピンポンを押さないと、彼らに追いつけないと思って、毎朝6時に起きてそのまま現地に直行することにしました。9時から21時まで1日12時間ピンポンを押すのを週7日続けていたので、12時間×7日で84時間。42時間のちょうど倍です。

営業って「件数×質=成果」なんですけれど、僕はこれでまず件数を倍にできた。しかも件数をこなしていくと、質もだんだんと良くなるんです。件数と質の相乗効果で今までの3倍、4倍と売れるようになっていきました。

仕事の意義を教えてくれた「換気扇フィルターと奥さん」

──正直な話、岡村さん自身に訪問販売を行うことへの抵抗はありましたか?

いえ、まったく。僕は初めての仕事が訪問販売だったので、ほかの仕事がどういうものかもよくわかっていなかったんです。ただただ一生懸命、会社の言うことを聞いて働いてきました。

過去、先輩から「契約をとったら走って逃げろ」と言われたことがあります。訪問販売なので、僕たちの商品の値段は、ホームセンターの売り値と比べると2〜3倍。「逃げろ」というのは「契約をとれたら、価格差に勘づかれる前に契約書だけ持って会社に帰ってこい」という意味でした。そういうこともあって、僕は「商売というのは人を騙すものなんだ」と思っていたんです。

ところが、近畿設備に転職して初めて換気扇のフィルターを売ったときは、なんだか違った。もちろん僕は逃げるように帰ろうとしたのですが、お客さまだった奥さんが「ちょっとお兄さん、待って」と。「もしかしてキャンセルかな」と思ったらなんと「今日はこんないい商品を売ってくれてありがとうね」って言われたんです。「商品を売ってありがとうと言われるなんて、いったい何なんだ?」とすごく動揺しました。「もしかしたら僕は人の役に立つ仕事をしているんじゃないか?」と。

──自分の仕事に初めてやりがいを感じた出来事だったんですね。

アドウェイズ岡村陽久さんが大事にする換気扇フィルター

当時の商材だった換気扇フィルターは、いまも岡村さんのデスクの横に大事に置いてある。

そうなんですよ! 奥さんのあの言葉はいまだに鮮明に覚えています。その人のおかげで商売に対する意識も一気に変わりましたし、本当に良い商品を売らせてくれた近畿設備にも感謝しています。僕はいまだに換気扇が大好きです。換気扇フィルター、実はすごく夢のある商品なんですよ。

まったくよくわからないなか、インターネットの世界に飛び込んだ

アドウェイズ岡村陽久さんのキャリアグラフ2

──2000年にはアドウェイズの前身であるアドウェイズエージェンシーを創業しています。非常に大きな転機なわけですが、起業のきっかけは何だったのでしょうか。

たまたまテレビを見ていたときに、サイバーエージェント上場のニュースが流れてきたんですよ。藤田晋社長が「これからはインターネットがすべてを変える」と言っているのを聞いて「これはとんでもないことだ、換気扇のフィルターを売ってる場合じゃない!」と。サイバーエージェントに入社して5年くらい修行を積んでチャンスがあれば起業しようと思い、すぐに近畿設備を辞めました。

──行動がとても早いですね。それですぐに応募を。

結果は不採用でした。もう1回応募してもまた駄目。こうなったら藤田社長に直談判だと、当時サイバーエージェントが入っていたビルに行って、3つある出入り口にそれぞれ1日ずつ、合計3日張り込みました。それでも会えずじまいだったので、最終手段としてオフィスに行き、履歴書を置いていったんです。いまだから言える話ですね(笑)。

僕を採用しない理由って、単純に僕を雇って成果が出なかったら会社の損失になるからじゃないですか。だから履歴書には「給料はいらない。経費も自分で負担する。いつクビにしてもいい」と書きました。

さらに、藤田社長の本に「俺は114時間働く」と書いてあったので「じゃあ僕は124時間働く」とも。そんな最高の履歴書を用意したのに、思いは届かず。そのときには「じゃあ自分でやろう」と心を決めていました。

──サイバーエージェント以外の会社を探そうとは思わなかったんですか?

当時はテレビがメディアの主役の時代で、僕自身パソコンも持っていなければインターネットもやったことがありませんでした。変な話、インターネット=サイバーエージェントのことだと思っていたくらいなんです。「サイバーエージェントがダメだったら、自分でインターネットをやるしかない」という感覚でした。

サイバーエージェントは当時、ウェブサイト上にクリック保証型広告*1を配信する事業をやっていました。「サイバーさんがウェブサイトだったらこちらはメールだ」と、僕はメールマガジンなどのメールメディアを媒体にしたクリック保証型広告を配信したんです。 すぐに売上が伸びたので、翌年には法人化してアドウェイズを設立しました。

──すぐに結果が出せた理由は何だと思いますか?

競合会社は、クライアント(広告主)から1クリックあたり200円の広告料をもらって、メディア(メールマガジンの運営元など)に20円の掲載料を支払っていました。一方、うちはクライアントに1クリック160円で売って、メディアには40円を支払っています。クライアントにとってもメディアにとっても、そりゃあうちのほうがいいじゃないですか。そういう価格の差別化を徹底した営業メールを送ったら、一気に注文がきましたね。

ただ、当時の僕は「コピーアンドペースト」を知らなかったんです。だから営業メールは「○○様、はじめまして。アドウェイズエージェンシーの岡村です」と1通ずつすべて手打ち(笑)。朝から晩までかけて1日100〜200通、それを1ヶ月毎日続けていたんです。

広告配信システムを外注していたエンジニアが打ち合わせに来たとき、営業メールを1通1通打っている僕を見て「岡村さん、まさかそれ手打ちでやってるんですか?」と。そこで初めてコピーアンドペーストを教えてもらって「世の中ってこんなに便利なんだ!」と衝撃を受けました。

アドウェイズ岡村陽久さんの大阪時代

2001年、大阪でアドウェイズを設立したばかりの岡村さん。

──目撃したエンジニアも衝撃だったと思います(笑)。アドウェイズの1年目の年商は1億3500万円。ここまでの成果が出るというのは、当時予想されていましたか?

よくわからなかった、というのが正直なところです。インターネットのことも知らなければ、広告という分野も初めてだったので。2001年の4月にアフィリエイトの前身にあたるアクション広告を始めたのも、単純にクライアントさんからの要望に応えたからです。これがもう、めちゃくちゃニーズがあって、クリック保証型広告とは桁違いに売れたので、その流れで2003年にはビジネスを完全にアフィリエイトに移行しました。

当時の夢は「世界的なインターネット商社になる」こと

──2003年は中国に開発拠点を設立していますね。

このとき、日本で優秀なエンジニアを全然採用できなかったんですよ。あまりに採用できないので、本屋に行って、プログラミング関係の本を買っている人の後を追いかけて声をかけていたくらいです。

元外注エンジニアだった副社長に相談したら「中国なら人口が13億人いるんだから日本よりもエンジニアがたくさんいるはずだ」と。実際に中国に視察に行ってみたら、エンジニアが本当にいっぱいいたんです。しかも当時、上海交通大学や復旦大学など、日本でいう東工大みたいなところの学生でも、中国国内の就職先があまりなかった。「じゃあ中国に開発センターを置けば、エンジニアが確保できる」というのが設立の経緯です。

アドウェイズ岡村陽久さん正面

──実際にエンジニアは採用できたのですか?

当時、上海交通大学でエンジニア採用をやっていたのは、Microsoftとオラクルとアドウェイズだけ。だから中国の方からすると「自分が知らないだけでアドウェイズってめっちゃ有名な会社なのかな?」って感じで、たくさんの人が応募してくれたんです(笑)。

──目下の課題を持ち前のスピードで対応した結果、気がつけば業界の最先端をひた走っていたんですね。岡村さんのなかで、アドウェイズのビジョンみたいなものはあったのですか?

「今はまだ広告屋でも、インターネットではいろんなチャンスがある。新しいものに片っ端から挑戦して、世界的なインターネットの商社になるぞ」という気持ちでやっていました。新しいことをやるにはテクノロジーが必要で、テクノロジーにはエンジニアが必要。そのエンジニアが日本にいないなら中国に開発拠点を持とうというように、すべてはつながっています。

アドウェイズ岡村陽久さん2004年頃

2004年、中国広告事業会社を設立した年のアドウェイズの様子。

倒産の危機。でも「俺の伝記ができたら“今”がハイライトだぞ」

アドウェイズ岡村陽久さんのキャリアグラフ3

──業績はうなぎ登り、当時最年少での東証マザーズ上場も果たし、キャリアグラフはここまでずっと順風満帆そのものです。しかし2007年には急転直下のどん底に……。この「07ショック」とは?

うちのメインクライアントは金融系、いわゆるキャッシング会社なんですが、2007年に上限金利の大幅な引き下げが行われたんです。キャッシング会社は軒並み売上が下がり、それに伴って各社の広告予算も半減です。僕らの受注額も半分になってしまった。アドウェイズのメイン収益がいきなり半分になったんです。

しかも2007年は日本で70名、中国で70名の新卒を採用したばかり。業績が下がったところに150人近くの新入社員が入ってきた結果、大赤字になっちゃって……。既存社員もバンバン抜けて「このままいったら会社がつぶれるんじゃないか?」という状況になったのが「07ショック」です。

アドウェイズ岡村陽久さんの沈痛な表情

──絶好調から一転、倒産の危機に。岡村さんは当時どんな心境だったのでしょう。

やっぱり、僕も皆もすごく暗くなっちゃって。これまでアドウェイズの明るい未来を誰もが疑わなかったのに、ここに来ていきなり現実を見せつけられたようでした。

でも今が最悪だと見るか、好機と見るかは、気の持ちようでまったく変わってくるじゃないですか。だから「もし俺の伝記ができるとしたら、今が読み手にとって一番面白いところだぞ」と思うようにしたんです。

そうしたら、気持ちがかなりすっきりしたというか。「まずは2008年3月の単月黒字を目指すぞ」と、「83単黒」と描いたポスターを200枚くらい会社に貼りまくったんです。「とにかく皆で力を合わせて頑張っていくしかない」と。

日本側で採用した70人の新卒のうち20人は配属先が決まらなかったので、新しく「キャリアコンサルティングディビジョン」という部門を作って僕がマネージャーになりました。転職サイトの代理販売などの事業をする部署でしたが、新卒社員と一緒に電話して、アポを取って、営業をかけて。社長がそこまでやるなら皆もやらなきゃ、って気持ちになるじゃないですか。

そういうところでは僕も多少は貢献できたかなと思います。その年の合計は赤字だったにせよ、目標の83単黒は達成して、来期の黒字化が見えるところまで持ち直すことができました。

「なにこれ すげー こんなのはじめて」を届け続ける

アドウェイズ岡村陽久さんの表情

──2009年には、広告独占契約を結んだグリーの急成長によってモバイルアフィリエイト事業で業界1位に返り咲くなど、勢いを取り戻していきます。翌年にはスマホ広告事業も始まりますね。

アドウェイズのスローガンは「なにこれ すげー こんなのはじめて」。ガラケーの売上がものすごく上がっているときに、いち早くスマホ事業にシフトしたのも、スマホで効率的に広告を出したい企業がこれからどんどん生まれるなら、やっぱりスマホ広告のプラットフォームは必要だろうと考えたからです。「スマホでも広告が出せるんだ、アドウェイズすげー」と、やっぱり「すげー」を届けたかった。

広告事業を展開するにはクライアントとメディアが必要なんですが、当時はスマホ広告を掲載できるメディアがほとんどありませんでした。ならうちでメディアというか、コンテンツそのものを作ろうとリリースしたのが、スマホ用ソーシャルゲーム「カイブツクロニクル」です。

そうしたらこれが大ヒットして、セールスランキング年間1位を獲得したんです! スマホゲームが山ほどある今では考えられない話ですよね。翌年は競合が皆ガラケーからスマホに移ってきたこともあり、このゲームは終了しましたが、スマホ広告事業は継続できました。

──2017年には画期的な全自動マーケティングプラットフォーム「UNICORN」を正式リリースしています。

アドウェイズ岡村陽久さんのキャリアグラフ3

人が一切関わらずに、機械学習のみでの広告運用を行うサービスをリリースしているのはうちだけです。広告の運用を全自動化すれば、広告に携わっている人たちは連日徹夜でやっていたような膨大な作業から解放されて、本来やりたかったクリエイティブな仕事ができる。作業自体もテクノロジーの力で、人がやっていたよりもずっとスムーズになります。

──一方で、「UNICORN」の開発にはかなりの額の投資されていると聞きます。

年間億単位で投資していますが、売上はまだまだこれからです。でも、うちは常に新しいもの、「なにこれすげー」を届けたいという気持ちが強いんです。こうした気持ちは、近畿設備で換気扇フィルターを売っていたときと大きく変わりません。

根っこにあるのは、フィルターを買ってくれた奥さんに言われた、「売ってくれてありがとう」です。だからこそ僕はアドウェイズを創業するとき、お客さんから「売ってくれてありがとう」と言われる商品を売りたいと思ったんです。

最初はそれがクリック保証型広告であり、成果報酬型広告だった。アフィリエイトは今では当たり前の広告形態ですが、当時は「何だこれは、リスクがないじゃないか! 今すぐうちでも始めたい!」と注文が殺到する、誰もが喜ぶとんでもない商品だったんですよ。このときの思いが「UNICORN」にも引き継がれているんです。

さらに言うと、「UNICORN」事業の責任者は07ショックのときの新卒入社組なんです。07ショックの世代は取締役を2名出していて、今のアドウェイズを支えてくれている。こんなところも、すごく感慨深いですね。

金儲けより“人儲け”。社員には食いっぱぐれない人になってほしい

──社内で着実に人材が育つ環境があるんですね。

新しいことに挑戦して世の中に「すげー」を提供したいと思う一方で、会社に入ってくる社員が成長する機会も作りたいんです。企業理念の「人儲け」というのはそういうこと。

僕がいた訪問販売の世界って、僕を含めて中学を卒業してどうしていいかわからなかったり、借金まみれでクビが回らなかったり、そういう人たちの巣窟だったんです。でも、近畿設備時代にお世話になった営業所の所長は、そういう人たちになんとか営業力をつけて、未来を提供しようとしてくれていました。金儲けより人儲け、これも訪問販売から教わったことだなと思います。

人儲けの壁画

──これから先、どうすれば岡村さんのキャリアグラフはこれまで以上に上昇すると思いますか?

アドウェイズを通して成長してくれる社員が今よりもっと増えたら、僕のなかでは本当に「やってきてよかった」と思えるでしょうね。自分で新しく事業をやるでも、どこかに転職するでもいい。

そうなったときに食いっぱぐれない人材を輩出していくのがアドウェイズの務めだと思っていますが、正直まだ満足できていません。あくまで僕個人の体感として、100人いたら成長できている社員はまだ20人くらい。これが50人になってくれたらいいですね。

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取材・文:いつか床子
撮影:中澤真央
編集:池田園子(プレスラボ)

*1:広告のクリック数に応じた広告料が手に入る広告ビジネス。