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梅原大吾の履歴書|「ただのゲーム好きのガキ」が、世界中でビーストと呼ばれるようになるまで

「世界で最も長く賞金を稼いでいるプロゲーマー」としてギネスブックに認定され、「格闘ゲーム界のカリスマ」として活躍を続ける「ウメハラ」こと梅原大吾さんの履歴書を深掘りします。

梅原大吾の履歴書メインカット

※この記事は2019年11月に取材・撮影した内容です

「リアルな履歴書には、何も書けなかった」
社会に馴染めないことに、ずっと負い目を感じてきたプロゲーマーの先駆けは、自らの過去を、こう振り返ります。

しかしいま、「プロゲーマー」という職業に多くの人々が羨望の眼差しを寄せています。ある調査会社のレポートによれば、2019年は全世界でおよそ4億5400万人がeスポーツを視聴し、市場規模は11億ドルに上ると予測されるなど、ゲームの盛り上がりは、誰もが知るところでしょう。

加熱を続けるゲームの世界で、日本のみならず、海外からも注目されるプレイヤーがいます。プロゲーマーの世界的第一人者であり、海外では「ビースト(Beast)」の異名を取る、「ウメハラ」こと梅原大吾(うめはら・だいご/ @daigothebeastJPさんです。弱冠17歳で世界大会を制し、世界最大級の格闘ゲームトーナメント「Evolution Championship Series(EVO)」で通算4度のカテゴリー優勝を果たすなど「格闘ゲーム界のカリスマ」として長く業界に君臨しています。

そんな梅原さんは自らのキャリアについて、「できることをやるしかないと、あきらめた」「(今は)大きな目標はない」と、あくまで自然体。果たして、その仕事観や価値観はどのように築かれたのでしょうか。

梅原大吾さんの履歴書

ゲームに賭ける覚悟があったわけじゃない

──今日はキャリアグラフに沿ってお話を伺っていこうと思うのですが、梅原さんはこれまで、マイナスの局面はなかったという認識なんですね。

もちろん、それなりの紆余曲折はあったのですが、それらを経たからこそ今の自分があるので、あえてマイナス表記はしませんでした。「キャリアの状態」というより、その出来事がどれほどの意義があったか、という観点からゲージ化してみました。

梅原大吾さんのキャリアグラフ1

──梅原さんがゲームに触れたのは5歳の頃とのことですが、「人よりできるかも」と感じたのはいつ頃だったのですか。

努力もせずにどんどんクリアして「イケる」と思ったことはなかったですね。そういう体験は、これまでゲームをやっていて一度もないです。

──……意外です。では、なぜゲームにのめり込んだのでしょう?

僕が格闘ゲームと出会った1991年当時、格闘ゲームを見て何も思わないゲーム好きは、おそらく一人もいなかったと思うんですよ。それくらい、ジャンルとして新しかった。僕もみんなと同じように熱中して、同じようにのめり込んだ。ただ、他の人と何か違いがあるとすれば、一回没頭しはじめると、どこまでもやってしまうところと、他のゲームよりも格闘ゲームが自分の感性にピタっとハマった、というのはあったんでしょうね。

梅原大吾さんプロフィールカット

梅原大吾さん:1981年生まれ。2010年4月、米国企業とスポンサード契約を締結し、プロゲーマーに。同8月「世界で最も長く賞金を稼いでいるプロゲーマー」としてギネスブックに認定。2016年さらに2つの認定を受け、3つのギネス記録を持つ。「Evolution Championship Series(EVO)」で2003年と2004年、2009年と2010年と二度の2年連続カテゴリー優勝を果たす。2013年には5年連続ベスト8入りし、同大会における大会歴代記録を更新。2016年にはESPN.comが「格闘ゲーム界のマイケル・ジョーダン」と称するなど、世界のゲーム界ではウメハラの名を知らぬものはいない。2019年4月には『Newsweek Japan』の「世界が尊敬する日本人100人」に選出。現在はRedBullTwitchHyperXCygamesのスポンサード・アスリートとして世界で活躍している。

──飽きることはないのですか?

のめり込んでしまうことが分かっているので、あまりあれもこれも手を出さないようにしているんです。「これは自分がやるべきだな」と感じるものにしか手を出さないので、飽きるという感覚があまりない。だから、「これだ」と決めて取り組んだことも、そう多くないんですよ。極端なことを言えば、格闘ゲームと麻雀くらいしかない。格闘ゲームはとにかく面白かったから没頭してしまったという感じですが、麻雀は、「これを極めなきゃ、食ってく手段がない」という感覚だったので、ある種自覚的にのめり込んだ形でした。

──麻雀については後ほど詳しく伺うとして、ご自身が「ゲームが強い」と自覚したのは、中学生の頃なんですね。

当時は当然、プロはいませんし、自分の人生を削ってまで打ち込む人は多くはなかった。東京に情報とプレイヤーが集中していたので、東京でプレイしていなければトップレベルを知ることもできなかった。そういう意味では、自分が頭角を現せたのは、たまたま東京に住んでいて、若いうちにゲームの世界へ没頭した、そんな条件がいくつか重なっただけだったと思います。当時、東京で敵わないと思う人はいなかったし、全国から遠征してくる人たちにも勝てていた。「君より強い人は見たことない」とみんなが言っていたから、おそらく自分が一番強いのだろう、と自覚できた。

1998年ころの梅原大吾さん

初めて世界一のタイトルを獲得した98年頃の梅原さん。写真提供:Cooperstown Entertainment, LLC.

──時期的に同級生は受験勉強に取り組んでる人も多かったとは思いますが、梅原さんはゲームに賭けたわけですね。

賭ける覚悟があったわけじゃないんです。勉強したほうがいいんだろうな、という気持ちもあったし、ゲームで食っていけるわけでもないから、覚悟しようもない。ただ、当時の自分にとってはよく見えない将来のことよりも、目の前で今、熱中していることを優先しただけなんですよね。

当時はずっと「こんなことしてていいのかな」「自分は将来のことは考えられないダメなやつなんだ」と思いながら、ゲームしていたように思います。

──ご自身の中では現実逃避とまではいかないまでも……。

いや、現実逃避に近かったですよ。とにかく、勉強がつまらなかった。でも、父親は「勉強しろ」ではなく、「好きなことがあれば、それを極めろ」というタイプだった。もっとも、ゲームを認めていたわけではないんでしょう。むしろ、できればやってほしくなかったはずです。でも、ずっと言われていたのが「自分のやりたいことなら、勉強よりも優先していい」という言葉だった。ほかの家庭よりも勉強しなきゃいけないプレッシャーは低かったことは事実です。

ただ周りを見渡すと、みんな勉強していました。優等生もそうじゃない人も、多かれ少なかれ「勉強しないとやばい」という危機感を持っていた。だから「ほんとに俺、大丈夫かな」という不安も抱えていました。でも考えたところで答えがあるわけじゃないし、怖いから逃げこむようにゲーセンへ行く。

──周りと違うことをするのに、不安ではなかったのですか。

自分の中にぼんやりとあったのは、ゲームを辞めて勉強したところで、僕は自分の価値をどこに見いだせばいいんだろう、という別の不安でした。ゲームをやっている自分は、世間から見れば「ダメなやつ」。自分自身でも罪悪感があるし、親も口には出さないけれど、困っている。でも、ゲームをやっている限り、僕は自分自身に対して、価値をなんとか見いだせるんですよ。

──周りも「すごいじゃん!」と認めてくれる。

ゲーセンって、いろんな人がいるんですよ。高校生もヤンキーも、サラリーマンも。いろいろな背景を持った年上の人たちが僕の存在を認めてくれ、褒めてくれる。そんな“居場所”を手放すことは、できなかった。ゲームから離れて中途半端に勉強して、社会に溶け込もうと努力をすると、自分に自信がなくなってしまうのではないかという気持ちになったんです。それで、迷いながらも自分の感覚を優先しました。

連覇が途絶え、魔法が解けた

梅原大吾さんの横顔

──その甲斐あって、日本のみならず、世界大会にも出て優勝されます。全国大会は、なんと3連覇。

現実逃避を後押しする格好の材料ですよね(笑)。ここまで勝たなかったら、さすがに不安に押しつぶされていたかもしれません。もともと不安でしたが、自分を騙すにはいい成果ですよ。

──「自分を騙す」とは?

「俺は、やればできるやつなんだ」と自分に言い聞かせる。これだけ成果が出ていますからね。ただ、意志が強いタイプというわけじゃない。格闘ゲームに関してだけ、自分でもどこから湧いてくるか分からないほどやる気があるから、成果が出ている。だから、もしこれに匹敵する熱意があれば、他のことでもいい成果が出せるに違いないとは思っていた。もっとも、他のことには興味も熱意もまったく持てませんでしたが(笑)。

まるでバーチャルワールドにいるみたいな感じです。バーチャルではスーパーマンとかマトリックスのネオみたいに無敵なのに、現実世界ではそれを応用できない。いつも焦りがありました。どうしたら自分の価値を現実世界に落とし込めるんだろう、と。

──その焦りからか、無敵を誇った全国大会の決勝トーナメント一回戦で敗退してしまいます。

魔法が解けた瞬間ですよね。全国大会では常に勝っていたから、現実をほったらかしにしてもよかったけど、肝心なゲームすらダメだった。

3連覇だけでも奇跡のような結果です。そして4連覇という奇跡の中の奇跡を手にしかけたのに、負けてしまった。生涯で二度とないチャンスを逃したショックはめちゃくちゃ大きくて、自分の中から「格闘ゲーム」の文字すらなくなってしまった。ゲーマー人生で一番のショックでした。当たり前だけど、努力してもダメなことはあるんだな、と気づきました。それ以降、まったくゲームをやらなくなって、やりたいとも思わなかった。

梅原大吾さんのキャリアグラフ2

──そこからどう立ち直ったのですか。

友達から、やろうやろうって、何度も誘われたんです。ずっと断っていたんですけど、あるとき気が向いて久々にゲーセンへ行ったら、面白いなと思えた。やっと精神的に回復したんでしょうね。それから、軽い気持ちでまたゲーマーに復帰しました。ただ、ゲームへの取り組み方は、それを機に変わりました。それまではただひたすら努力していたけれど、それ以降は、他の人に比べれば圧倒的な練習量ではあるけど、一歩引いて見ているような、現実を考えながらの練習になりました。そろそろ潮時かなって。だから、2004年のEVOを機にゲームをすっぱり辞めたんです。

──EVO2004での戦いぶりは「背水の逆転劇」と言われ、それこそ梅原さんの代名詞になるほど衝撃的な大会でした。

当時、ネットで騒がれてることすら知らなかったんです。別に、良い試合ができたから辞めようと思ったわけでなく、2004年春の時点で「あと半年で辞めよう」と決めていたんです。

当時、飲食店でバイトしていたのですが、たまたま僕と同い年の同僚が三人いたんです。彼らは全員大学生で、2004年の3月にみんな辞めていく。で、「あれ、俺だけ残った。そっか、普通の大学生はここで就職するんだな」と。ずっとゲーセンの中の人間関係だけしか知らなかったから、まったく意識することのなかった一般社会の節目に、なんとなく気づいてしまったんです。それで「よし、いよいよだな」と、その年でゲーマーを辞めようと決めたんです。そして、麻雀の世界に飛び込んだ。

──なぜ麻雀だったのですか。

学歴も特別な資格も人脈も何もない20歳そこそこの男が、いちから自分の生きていく道を探そうとなったとき、当時は麻雀くらいしか思いつかなくて。麻雀もゲームと同じく勝負事でしたから、自分でも通用するかもしれない。限られた選択肢の中で、“これしかなかった”から麻雀を選んだんです。

全部あきらめた。僕は「何かを成さず」生きていく

──麻雀も格闘ゲームと同じく、人対人の戦いですよね。通じる部分もあるかと思いますが、どんな気持ちで麻雀に取り組まれていたのですか。

「もう、あとがない」という危機感しかありませんでした。他の人が時間をかけて積み重ねたことを、自分も頑張って積み重ねて、遅れを取り戻さなければならない。必死でした。その甲斐あってか、2006年くらいからやっと麻雀で勝てるようになってきたんです。ただ、キツいな、と思ってすぐ辞めてしまった。

──勝てるようになったのに?

たとえて言うなら、僕らは牛肉や豚肉を食べるじゃないですか。それはきっと、牛や豚が生きている姿をよく知らず、捌かれている場面を目の当たりにしていないから、抵抗なく食べられる部分があるでしょう。僕らの社会もこれに似た部分があって、勝者は敗者の顔を見ずに済んでいるから、勝ち誇っていられると思うんです。

しかし、麻雀はそうじゃないんです。自分が勝者になれば、目の前の人が敗者となり、自分が功績を積むほど、相手は苦しむ。僕は目の前の相手に恨まれて暮らすことに、どうしても馴染めなかったんですよ。雀士として脚光を浴びながら生活できたらいいのかな、と思っていたけど、人に恨まれるくらいなら、心穏やかに平穏に生きられるほうがいいや、って。

いま思えば、ゲームの世界も同じように厳しい勝負の現実がありますが、麻雀の世界で現実に耐えられなかったのは、結局、格闘ゲームほどの熱意がなかったからなんでしょうね。

それまではどこか、自分の思い描いた人生像にあきらめがつかないというか、「いつか俺は、何かを成し遂げてやる」という気持ちがあった。けど、麻雀を辞めたとき、全部あきらめました。僕は「何かを成さず」生きていく。タイムリミットが来たんだな、という感覚でした。

梅原大吾さんのキャリアグラフ3

──それで介護職に転職されたんですね。

両親とも医療関係の仕事をしていたので、親近感がありましたし、人のお世話をするのはいいな、という感覚もありました。それに、資格も経験もない自分を正社員として働かせてもらえる世界でした。

──はじめての「会社員」はいかがでしたか。

得られるお金は麻雀をやっていたころの半分以下になったけど、圧倒的に介護の仕事のほうが嬉しかったですね。誰も恨みを抱かない。むしろ、喜んでくれる。感謝されてお金をもらえるなんてことが世の中にあるんだ、と初めて分かった。もらえる金額もバラツキがないし、病気で休んだりしない限り、生活がある程度保証されている。こんなに社会って優しいんだ、なんてありがたいんだろうと痛感しました(笑)。それ以前は、食うか食われるかの世界しか知らなかったので。

梅原大吾さんの笑顔

──「福利厚生がある」みたいな。

そうそう、それも衝撃でしたね(笑)。まるでゲーム中毒の自分が、真っ当に生きていくためにリハビリしているような感じです。とにかく、社会に馴染もう、馴染もうって、頭がいっぱいでした。

妄想が現実に……「ゲームだけで食えるようになったら」

──それでも2008年にゲームの世界に戻ってきます。

このときも、友だちからの誘いだったんですよ。『ストリートファイター』の新作が出たから、一緒にやろう、と。ずっと断っていたのですが、あまりにしつこく言うもんだから、「ちょっとやるか」ってやったら……、自由自在にキャラを動かせた。そして、めちゃくちゃ勝てた。

麻雀でも介護でも、何か新しいことをはじめるって、本当に大変なことだと実感していました。努力も時間も必要になる。でも、格闘ゲームに関しては、しばらく一切触れてなかったのに、最前線でやってるプレイヤーを相手に、全然負けない。その瞬間、ゲームだけが僕にとって、特別なことなんだと改めて思った。自分は何の取り柄もない人間だけど、どうやらゲームだけは違うらしいと思い知ったわけです。

──小さい頃から努力を積み重ねてこられたものですからね。

そう。だから、これを腐らせるのはもったいないなと思えた。でも、この頃は現実の社会を知っているから、以前みたいに生活を犠牲にするつもりはない。趣味としてならゲームをやってもいいんじゃないかと、自分を許しを与えるように、ゲームの世界に帰っていった感覚でした。

──介護の仕事を続けながら、ゲーマーとしても活動する、二足の草鞋を履く生活を送られたのですよね。そして、ゲーム再開直後の大会で優勝を果たしました。

自分としては趣味感覚でしたが、国内外の人たちが大騒ぎしていたようです。「ダイゴが戻ってきた!」と。そしたら、米国の大きなイベントに呼ばれて、あれよあれよと言う間に勝ってしまった(笑)。

そりゃ、周りはドラマティックに感じますよね。凄腕だけど、長いことどこにいたかも分からないゲーマーを大会に招待したら、優勝しやがった、と(笑)。

そうこうしていたら、アメリカのあるゲーム周辺機器メーカーがスポンサーに名乗りをあげてくれたんです。

──ご自身としては、スポンサー契約は思いがけない申し出だったんですね。

2003年頃は、EVOでも賞金が30万円も出れば万々歳でした。渡航費で10万円くらいは使いますが、20万円プラスになれば「すごい大金が転がりこんできた」と。こんな感覚だったので、ゲーマーとしてスポンサーを得るなんて、まるで夢物語です。「ゲームだけで、食えるようになる」なんて、10代の頃からどれだけ妄想したか分からない(笑)。

それでも、スポンサードのオファーを受けるかどうかは悩みました。当時は介護の仕事があったし、ゲームはあくまで趣味のものでしたから。でも今のマネージメント会社から熱心に薦められて、じゃあやってみよう、と。もしかしたら、押しに弱いのかもしれない。毎回誰かに説得されて動いてますよね(笑)。

──ゲームに戻ってきたのも、友達の誘いでしたね。

そう。強く勧められると、やっちゃう。そして今に至るわけです。

リアルな履歴書には何も書けなかった

梅原大吾さんの横顔2

──ここからは破竹の勢いですね。EVO連覇、「世界で最も長く賞金を稼いでいるプロゲーマー」としてギネス認定、初の著書出版、半生のコミカライズ……と、多方面から注目を集めていたと思います。でも、キャリアグラフは本業のEVOで下がっていますね。

プロになった年は10代の頃と同じ感覚で、現実を見ず、とにかくゲームに100%の意識を向けていました。でも少しすると、気持ちがゲーム以外の部分に向かうようになってきたんです。ゲームそのものに打ち込むというより、学歴も資格もない自分がプロゲーマーとして、腕だけでどこまで人生を確立できるのだろうか、と。

──これまで職業として確立されていなかったからこそ、さまざまな可能性が広がってきたわけですからね。

そして2016年でまた節目がやってきたんです。ずっとチャレンジャーの気持ちでいましたが、スポンサーが増えてきたことで、「この立場を失いたくない」という守りの気持ちが芽生えてしまった。それに、プロゲーマーとしての活動に少し疲れていたこともあります。

僕はゲーム業界から大きなサポートを受けているけど、逆に業界のために何ができているんだろう、と。別に誰に何か言われたわけでもないのに、何かしなきゃいけない気になって、変なプレッシャーを感じてしまったんです。

──ちょうど日本でもeスポーツの機運が高まって、業界のスポークスマン的な役割を求められることも多くなってきたのかもしれませんね。

ゲームに没頭しとけばいいんですよ、本当はね。でも、勝手に色気が出てしまい、やがて、自分が大きく扱われすぎてるんじゃないか、身の丈に合わないことをしているんじゃないか、と不安になってしまったんです。

梅原大吾さんのキャリアグラフ4

──そこから抜け出すきっかけはあったのですか。

ある取材を受けたとき、インタビュアーの方から「周りのことを気にするより、自分自身に集中したほうがいいですよ」と言われたのが大きかった。インタビュアーの方は、大きな病から生還されたある方に取材したことがあるそうです。そして、その取材対象の方は、「生きるか死ぬかの病気になって、人生の計画なんてなんの意味もないと感じた。そして、先のことを考えるのをやめたら、人生がうまくいくようになったんだ」と。そんな言葉が、妙に心に刺さったんです。

ただのゲーム好きのガキがここまで来れただけでも幸運なのに、先のことばかり考えてもしょうがないと思えたんです。

──でもある意味、「先のことを考えず、目の前のことを全力で」って、梅原さん自身が小さい頃から持っていたスタンスだからこそ、しっくり来たのかもしれませんね。

そうですね。もともとそういうやつだったじゃないか、俺は、と。いつまで生きていられるか分からないんだから、与えられた今の状況に感謝して、やることをやっていればいいじゃないか、とモヤモヤが吹っ飛んだんです。

梅原大吾さんギネス記録獲得セレモニー

2016年、新たに2つのギネス記録認定を獲得したセレモニーで。まさに快進撃といえる活躍ぶりだ。写真提供:Yusuke Kashiwazaki / Red Bull Content Pool

──吹っ切れて今、ご自身の関心はどこにあるのですか。

ゲームに対しては、この2〜3年はいい感じで向き合えています。ただ、自分のこれまでを振り返ると、なにかしら目標を持って生きてきた人生なんです。10代のころは「常に全国大会で勝つ」「記録を更新する」という目標があったし、麻雀では「この世界で食えるようになろう」、介護職のときは「社会復帰しよう」という目標があった。プロになってからは「プロゲーマーを根付かせよう」と、常に目標があった。

ただ、ここ数年は特に大きな目標がないんですよね。当然、大会で勝ち続けるという意思はあります。しかし、達成できていないことって他に何があるだろう、とも感じます。

──やり尽くした、ということでしょうか。

きっと、これまでの自分の感覚だったら、とっくに辞めているでしょう。辞めて、他のことにチャレンジするのが自然だった。でも、まだゲームで衰えてる感覚はないし、熱意も薄れてもいない。第一線のプレイヤーとしてやっていきたい意欲もある。だから、これからどんなチャレンジをしていくか、何かまた目標を見つけなきゃいけない。そんなことを今、真剣に考えているんです。

──どんな目標になるか、楽しみです。ありがとうございました。

こちらこそ。でも、今日の取材のように履歴書を書くのは、リアルではめちゃめちゃ恥ずかしかったんですよ。経歴も資格も、書けること何もなくてスッカスカで。一般的な社会に馴染めないことに、ずっとコンプレックスを感じていたんです。

──大学や専門学校に入って、就職していたらどうなっていたんでしょうね。

最初にゲームを辞めた時点で、その選択肢がなかったわけではないんですよ。友達と居酒屋に行ったら、横で楽しそうにやってる大学生くらいのグループがいて、いいなーって、うらやましく思った(笑)。学生になってこんな生活を送るのもいいかもしれない。でも、どうしても自分が好きでもない試験勉強を、我慢して努力することができなかったんです。好きなこと以外、どうにも手につかない。じゃあ自分の努力できることをやるしかない、というあきらめと決断がありました。その結果、今があるようなものです。

──あきらめ、そして決断し、始める、と。今度こそ、ありがとうございました!

【変更履歴】ご指摘により一部文言を修正しました。(2019年12月20日13時20分 / 16時40分)

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取材・文:大矢幸世
撮影:小高雅也
取材協力:Red Bull Gaming Sphere Tokyo