どんな領域にも、飛び抜けた成果を発揮しキラキラと輝いて見える人がいるもの。そんな存在を目の当たりにしてショックを受けたり、自分自身との差を感じて落ち込んだりした経験がある人も多いのではないでしょうか。
宝塚音楽学校時代を含めて宝塚歌劇団で15年にわたりキャリアを積んだ元タカラジェンヌ・天真みちるさんも、「自分は必要とされていないのではないか」と悩む日々が続いていたと打ち明けます。
日本最高峰のエンターテインメント集団で、輝けるトップスターを目指して競い合う仲間たち。その中で自身の将来像を見出せずにもがいていた天真さんが見出したのは、若手が積極的に目を向けない「おじさん役」として個性を発揮する道でした。
世のおじさんたちの生き様を研究し、いかに老けて見えるかを追究する。タカラジェンヌの一般的なイメージとは異なる路線を貫き、名脇役としての地位を確立したのです。
宝塚歌劇団卒業後はビジネスの世界に飛び込み、自身の会社を設立して新たなエンターテインメントの創造へ。宝塚歌劇団での経験はセカンドキャリアにどうつながっているのでしょうか。「こうあるべき」という世間や組織の考えにとらわれず、面白く楽しく独自の道を築き続ける天真さんの歩みを語っていただきました。
「継続できない人間」が宝塚でもがき続けた理由
──天真さんのキャリアグラフは、2年制の養成所である宝塚音楽学校を初めて受験したところから始まっています。このときは弱冠15歳です。
受験資格が得られる中学卒業直後のタイミングですね。宝塚音楽学校の試験は、3学期の終業式が終わって次年度に進む間の春休みに実施されるんですよ。高校受験を済ませて一応の進路を確保しつつ、宝塚に合格できればそちらに進むのが一般的でした。
──「宝塚歌劇団に入りたい」という思いは早くから抱いていたのですか?
はい。子どもの頃、私に宝塚の存在を教えてくれた祖母が「あんたも宝塚に入りな」なんて言うものだから、すっかりその気になって(笑)。私は4人きょうだいの中でも一番背が高くて、小学6年生のときには母よりも大きくなっていたんですよね。そんなこともあって周りから「宝塚に入れるよ」とはやし立てられ、まんざらでもない気持ちでした。
だけど1回目の受験のときはちょっと気を抜いていたというか、斜に構えていたというか。「絶対に受かりたい!」という熱量がなく、「みんな気合い入っているなあ」と他の受験者を冷静に眺めていました。試験会場では自分の名前を名乗るのも歌うのも踊るのも6割くらいの力しか出せなくて惨敗。地元の公立高校に入学しましたが、当時はどんよりとした気持ちでしたね。
──そして翌年、二度目の受験に挑戦。周りの普通の高校生とは違う将来を追いかけていたわけですね。
小学校と中学校の9年間で、学校の勉強に飽きてしまっていた面もありました。私はひとつのところにとどまっていることができない飽き性なタイプ。同じ景色を見続けるのが嫌で、同じ環境にすぐ飽きてしまうんですよ。学校では「毎日席替えをしてほしい」と思っていたほど。宝塚在団中も何度も家を引っ越しています。
そんな私でも、宝塚の受験のときは最初の惨敗が悔し過ぎて、二度目の受験に向けて合格のために必要だと思うことをひたすらやり続けました。毎日習い事に通い、学校が休みの日はジムで体力作り。ただ、いざ合格という結果にたどり着くと、その「頑張ろう」の気持ちは一旦終わってしまう。もう本当に、私は継続することができない人間なんです。
──しかし天真さんは、途中で挫折したりあきらめたりして違う道へ進む人も多い宝塚歌劇団で活躍し続けました。何が「飽き性」を変えたのでしょうか。
お金です(笑)。
というのも、宝塚音楽学校はお稽古に使う備品がたくさんあるんですよ。例えば日本舞踊の授業だと夏は浴衣、冬は袷(あわせ)の着物が必要だし、バレエを学ぶためにはレオタードやシューズを準備します。宝塚ではさまざまな分野のエンターテインメントを学ぶので、それぞれの備品を揃える必要があるんです。
二度目の受験を突破し、晴れて宝塚音楽学校に入学できることになったときは本当にうれしい気持ちでしたが、家に帰ると「どうやって入学費用を捻出しようか」と家族が険しい顔で議論していて……。ひとりっ子ならまだしも、うちは4人きょうだいですからね。これはさすがに「払ってよかった」と家族に思ってもらえる人生を送らなきゃいけないと考えました。
私は家族に多額の借金をしているようなもの。途中であきらめる道はないなと思って、ぎりぎりのところで「何か道はないのか?」と考え続けていたら、ある日、「おじさん役として生きていく」道の入口を見つけたんですよね。
少しずつ卒業していく同期。自分はどこまでやれるのか?
──厳しい稽古の日々を経て92期生として宝塚歌劇団に入団し、「花組」に配属されたときにキャリアの状態は最高潮となっています。しかしその後はどん底に。この時期はどんなことに苦しんでいたのでしょうか。
どうすればこの劇団に求められる人間になれるのか。それがずっと分からなくて、どん底に沈んでいました。
「宝塚は厳しい世界だ」というイメージを持っている人も多いのではないでしょうか。実際に同期生の中でも、公演会や発表会で1曲まるまる歌う機会を与えられる人もいれば、2小節しか歌えない人もいます。日頃は仲良く、楽しく過ごしている同期の間でも、悔しい気持ちを心に秘め、切磋琢磨しながらチャンスをうかがっているんです。
ある公演で充実感を覚えたとしても、終わった瞬間に「次はどんな役をいただけるだろうか」「次はこれを越える充実感を得られるだろうか」とハラハラすることの繰り返しでした。舞台上で楽しい思いをしたい。そのために脚本家や演出家の先生にどうやって選抜されるかをずっと考える。そんなしんどい日々でした。
宝塚音楽学校に合格したときや、初舞台を踏んだときには、このハラハラがずっと続くのを理解していなかったんですよね。
入団して3~4年がたつ頃には、同期が少しずつ卒業していくようになりました。誰かが卒業してしまうのを知るとやっぱり悲しくて、つらくて。この年代は特に、みんな「自分はどこまでやれるんだろう」と不安を抱えながらギリギリのところで頑張っているから、誰かが卒業してしまうとものすごく心が揺れるんですよ。
──天真さんも、辞めたいと思った瞬間があったのですか?
辞めたい、というか、辞めるしかないと思い知った瞬間がありました。入団3年目、公演の選抜に2回連続で落ちてしまったんです。選ばれなかった人は次の選抜までの3カ月間、まるまる休みになってしまう。しかもこのときは同期のほとんどが選ばれ、下級生からも選抜されていたのに、私はメンバー入りできませんでした。「自分は劇団から必要とされていないんだ……」と思い込み、かなり落ち込みましたね。
だから、これはもう辞めるしかないと思って親に電話したんですよ。その電話口で何て言われたと思います?
「辞めてもいいよ。今までに払ったお金を全額返してくれるなら」って(笑)。どこまでも冷静でドライな親の言葉に、すっと目が覚める思いでした。
考え続けた先に「おじさん役」の道の入口が見えてきた
──当時の天真さんは、ご自身の強みをどう認識していたのでしょうか。
私の得意分野は芝居だと思っていました。定期的に行われる試験では演劇の順位が一番高かったんです。
とはいえ下級生の頃は、脚本家や演出家の先生に自身の芝居を見せられる機会が非常に限られています。稽古場では自分の前に上級生が何人もいるので、注目してもらえる可能性は低いんですよね。ダンスや歌であれば、1年目だろうと明らかに飛び抜けている人がいれば抜てきされますが、芝居にはそれがないんです。
──目立つ機会そのものが少ないのですね。
宝塚には、「専科さん」(※1)と呼ばれる芝居のプロフェッショナル集団がいて、普通は20年以上のキャリアを積んで芝居を磨き続けてきた方々が活躍しています。「私も同じように数十年頑張り続けられるだろうか?」と自問自答してみましたが、飽き性の自分にはとてもできないと思いました。
※1:専科……特定の組に所属しない団員の集まり。芝居や歌、ダンスなど何かに秀でたプロフェッショナルな集団。
そんな悶々とした日々の中で、一筋の光に見えたのが「おじさん役」だったんです。
──22歳の新人公演で初めて「ヒゲ」を付け、おじさん役を演じる。これが転機だったと。
はい。下級生の私がおじさんの役を追究していけば、他の人にはない強みになるかもしれないと思いました。若手のうちから老け役を極めていこうとする人は極めて珍しかったと思います(笑)。
1年目や2年目でおじさん役を与えられ、「老け役がうまいね」と周囲に評価されたとしても、下級生なので「今後トップスターを目指す路線に戻れない可能性もあるかもしれない」と思っておじさん役を極めようとは思わないのです。これは他の誰も目指さない領域かもしれないぞ……と、チャンスのにおいがしたんですよね。
もちろん宝塚に入ったからにはトップスターを目指すのが当たり前だし、私も最初から脇を固めるおじさん役を目指していたわけではありません。だけど、何度か機会を与えられておじさんを演じるうちに、おじさん役ならではの魅力も感じるようになっていきました。「おじさん役って、すごく自由かもしれない」と。
──「自由」とは?
トップスターや主役になると、作品にもよりますが、物語の中心的な軸を担っておられるので、そこからブレるようなことができないこともあります。「宝塚のトップスター」としての姿やイメージを背負っているから、ある意味で自分の好きなように演じる範囲が限られているんですね。
一方、若手の頃の私に与えられたおじさんの役は、物語の軸から少し離れたところに存在していて(笑)。たとえば酒場でやんややんやと騒いでいたり泥酔したり、かと思えばいきなりケンカを始めたりする役でした。毎日アドリブを入れたり、工夫したりして演じられるし、自分の色を自由に出せるんですよね。
──とはいえ、周りの同期とは違う道を選ぶのは、勇気のいることでもあったと思います。
きっと私は、「選ばれるか選ばれないか」というハラハラが続く道以外を自分で見つけたかったんですよね。私が、宝塚歌劇団の一員でいるために。
おじさん役の実績を重ねると、演出家の先生や上級生から「これはもう、たそ(天真さんの愛称)にしかできない役だね」と言われるようになっていきました。それが本当に嬉しかった。やっと自分の居場所が見つかったような気がしたんです。主役にならなくても宝塚歌劇団に必要とされる存在になれるんだ。胸を張って、この組織の一員なんだ! と言えるようになりました。
卒業して人への思いも徐々に変わっていきましたね。最初の頃は同期が辞めると聞けば悲しくなりましたが、次第にそうではなく、この組織で目指すものが違えばおのずとゴールも違ってくるんだな、と冷静に捉えられるようになりました。常に客観的に一歩引いて状況を見ている私が独特な存在だったからか、同期や下級生から相談を受ける機会も増えていきました。
「脇役のトップスターになれ」。客席を湧かせ、上層部にも認められた
──おじさん役を追求していく上での苦労は?
「いかにして老けているように見せるか」に苦労しましたね。化粧や衣装などで若く見せるのは簡単でも、年を重ねたおじさんの枯れた具合を出すのは本当に難しいんです。
面長に見せられるようもみあげの具合を細かく調整したり、悪いおじさんの役ではアクの強い性格を表現するために眉毛を険しくしたり。そうやって工夫を重ねていくうちに、「見た目の情報量が多いおじさん」になっていきました。
──おじさんの役作りを考える際には、何を参考にしていたのでしょうか。
特に表現するのが難しいと感じていた「悪いおじさん」の顔を研究するために、企業や政治家の不祥事のニュースを欠かさず見ていました。外国人の悪いおじさんの顔も研究しなければいけないので、海外ニュースもチェックしていましたね。
テレビの時代劇も大いに参考になりました。時代劇に出てくる悪役のおじさんって、本当に悪そうな顔をしていらっしゃるじゃないですか(笑)。私は小さい頃から時代劇が好きでしたが、役作りの視点で見ると、悪を演じる役者さんの凄みをあらためて感じましたね。歌舞伎役者さんからも学ぶことがたくさんありました。歌舞伎では、優男の肌は白いのですが、悪役は赤褐色などの地色から化粧を変えるんです。そうしたことを参考に、顔をくすませて枯れた具合を出せるようにしていました。
──こうしておじさん役を突き詰めていった23歳以降、天真さんのキャリアの状態は上昇し続けています。「名脇役」としての立ち位置を確立していった時期ですね。
宝塚歌劇団に在籍していた頃の私にとっては、役を与えてもらえない時期、舞台の上で役としても、天真みちるとしても生きることができない時期がどん底でした。ここから先の悩みは、物語に絡んでいくおじさんの役を少しずついただきながら、作品にどう関わっていくかを考えることが中心だったんです。とてもありがたい悩みを抱えられていると感じていました。
──天真さんが自分自身に肯定感を持てるようになった公演や、手応えをつかんだ瞬間のエピソードを教えてください。
小さな手応えの積み重ねでしたが、強いて挙げるとすれば、私が当時研究科3年だった2010年7月の舞台『フィフティ・フィフティ』で演じた「村の男」役でしょうか。
この舞台では、主人公の都会人が田舎にやって来ます。その都会人と話す村の男の役は私を含む下級生の4人が演じたのですが、方言なまりの強い割台詞(※2)の場面があり、私のセリフのときだけ客席から笑い声が起きたんですよ。「私を見てもらえたんだ!」と、舞台に存在感を残せたような感覚でした。
※2:割台詞……関連のある長い台詞を複数の役者が独白的に言い進める表現。歌舞伎が発祥。
それからは、演出家の先生が私をオチの部分で使ってくれるようになっていきました。私が完全にアドリブで演技してもよい場面をいただいて、毎日お客さまを笑わせて小さな成功体験を積んでいったんです。24歳のときには劇団の常務理事から「脇役のトップスターになれ」という言葉をかけてもらいました。組織の上層部の方にも自分の存在価値を認識してもらえるようになり、本当にうれしい思いでした。
ひとりの舞台人として生きるか、組織を優先して生きるか、の狭間で悩む
──キャリアグラフでは、29歳のところで気になる記載があります。「中間管理職の立ち位置になり、上級生と下級生の間で思い悩む」と。
実際に中間管理職的な職種があるわけではないんです。私がいた花組をはじめ、それぞれの組には70人を超えるメンバーが所属していて、在団年数の長さに応じて上から「組長」「副組長」になるというのが基本的なあり方。当時の私は上から8番目くらいの立ち位置でした。
このポジションは重要な役割を担わなければなりません。たとえば公演中の楽屋は、組長さん・副組長さんをはじめとした幹部の方のお部屋とその他全員が入る大部屋とで分かれているんですね。そこで、必要に応じて「大部屋の長」の方が全員の意見をとりまとめ、幹部部屋に伝える役割があるのです。私はこの大部屋の長を支える、まさに中間管理職の立場だったんです。上級生の意を汲んでサポートし、同時に下級生の士気を下げないように気を配りながら言うべきことも言わなければならない難しい役割でした。
──マネジメント側のスタッフではなく、タカラジェンヌの方々が自分たちでマネジメントしていくのですか?
はい。マネージャーはいないし、プロデューサーは組に1人だけ。そもそも楽屋は原則として出演者のみが出入りできる空間なので、自分たちでまとめていかなければいけませんでした。
大変なこともたくさんありましたが、それでもキャリアの状態は「GOOD」で下がっていません。これも私にとってはありがたい悩みだったんですよね。いてもいなくても変わらない存在ではなく、自分が所属する組、花組がどうあるべきかを上級生と一緒に考えていく存在になれましたから。
そう考えると、私のキャリアの良し悪しは「必要とされているか、否か」に左右されているのかもしれません。
──やりがいのある立場を任されていた一方、この2年後には宝塚からの卒業を決断しています。
私はありとあらゆるおじさん役を経験させていただき、2018年にはとうとう「やりきった」と思ってしまったんですよね。
それまでの私はおじさん役を演じることと、上級生と下級生の間をつなぐ架け橋のような役割を果たすことがモチベーションになっていました。
「演じる」ということにおいておじさん役をやりきったと感じ始めると、組の中で比較的上級生になっていた私は、組織を支える「管理職」が身近に見えてきます。そのことに少しやりがいを感じつつも、同時に戸惑いも感じ始めました。芝居をしたくて入団した私にとって、演じるモチベーションが下がったまま中間管理職のひとりとして活動するのは難しいと思ったんです。
でも、だからといって管理職としての責任を私だけが放棄していいものか、と悩んでいました。
モヤモヤを抱えた私は、他の組で管理職をされていた上級生に相談の機会をいただきました。すると、上級生の方はおだやかにこうおっしゃいました。
「ショックを受けないでほしいんだけど、宝塚歌劇団はたとえあなたが辞めても進み続ける。あなたのポジションは誰かが引き継いでいくんだよ。だから、あなたの意思を尊重した方がいいよ」という趣旨のことを言ってもらって。
この言葉で私は決断できました。これ以上、私が宝塚歌劇団に留まる理由はありませんでした。
「元タカラヅカを笠に着るのはカッコ悪い」と意地を張った結果は……
──宝塚歌劇団を卒業後、天真さんは会社員に転身しています。元タカラジェンヌがビジネスの世界に飛び込むこと自体珍しいと感じるのですが、卒業から2週間後に転職先へ入社しているというスピード感にも驚かされます。
私は休みの日に全く外に出ないタイプなんです。好きなゲームでもオンライン対戦はやらず、ひとりで黙々とプレイ。こう見えて「陰キャ」なんですよ(笑)。長々と充電期間を置いたら外に出られなくなると思って、転職先には「卒業の翌日からでも出社できますよ」と言っていたくらい。さすがそれは大変だろうと配慮していただき、2週間のお休みをいただくことにしました。
──転職先はどんな会社だったのでしょうか。
友人が立ち上げたばかりの会社で、漫画をもとにイベントを開催したり、コンテンツをプロデュースしたりといったエンターテインメント系の事業を展開していました。私はそのアシスタント・プロデューサー(プロデューサー補)として入社しました。
──ここでキャリアの状態が一気にどん底になっています。「ダメ社員として落ち込む毎日」とは……?
それまでタカラジェンヌとしての経験しかなかった私は、会社員としての基本が全く身に付いていませんでした。議事録ひとつ取るのも苦労するような状況です。
それ以上に大変だったのは、企画を全然思いつかなかったことですね。宝塚歌劇団に入団したばかりの頃、どんなタカラジェンヌになればいいのか分からずに悩んでいたのと同じように、会社員として企画を生み出す側になったのに何をやればいいか分からなかった。
宝塚歌劇団を卒業した人の中には、「第2の人生だからこれからは組織を離れてひとりの個人として生きていこう」と考える人が一定数います。私もそのひとりでしたが、タカラヅカを切り離して考えようとすると何も思いつかないんです。宝塚歌劇団に在籍していたときに「自分はここに必要とされていないんじゃないか」と悩んだように「自分は一個人としても必要とされていないんじゃないか」と悩み、キャリアの状態がどん底になっています。
──当時は元タカラジェンヌであることを伏せていたんですね。
伏せていたんですが、名刺には「天真みちる」と書いてあるので、人と会えば「これは本名ですか?」と聞かれるわけですよ。そこで「芸名です」と答えると「えっ、芸名?」と聞き返されて、結局「こう見えて、元タカラジェンヌです……」と打ち明けることに……(笑)。後々、本を出版することになった際には、この時期にしょっちゅう話していた私の台詞をそのままタイトルにしました。
今にして思えば、当時は「元タカラジェンヌという立場に頼っちゃいけない。親の七光りみたいになっちゃいけない」と変な意地を張っていたんでしょうね。宝塚音楽学校時代を含めて15年間もお世話になった宝塚歌劇団での経験を禁じ手のように思っていたんです。
人を客観的に見続けてきた自分だからこそできる、セカンドキャリアのプロデュース
──どん底の状態から会社を辞め、独立し、ご自身で「株式会社たその会社」を設立しました。この過程ではどのような変化があったのでしょうか。
あるとき、元タカラジェンヌの方から「朗読劇のための脚本を書いてくれない?」と声をかけていただきました。私はその方の人となりをよく知っていたので、「この方の隠れた一面を表現したいな」と思ったんです。すると、サラリーマン時代にどんなに悩んでも思いつかなかった企画が嘘みたいに浮かんできたんです。「そうか、演じる人をイメージすれば企画を立てやすいんだ」ということに気づきました。
別の元タカラジェンヌの方からは「卒業しても男役として生きていきたい」と相談されました。男役の方は、宝塚歌劇団を卒業した後は、同じ演劇の世界でも女性としての俳優で活躍する方が多いのです。男役として歩み続けるのは珍しいパターンですが、私はその方の思いを受け、タカラヅカで培った男役のかっこよさプラス、その方の新たな魅力を融合したいと考え、企画を立てました。
こんなふうに一人ひとりをプロデュースしていく仕事は、サラリーマンの私としてではなく、天真みちる自身が演じる人と向き合うことで生まれていきました。その過程で、これからは個人で勝負するぞ! と思って宝塚歌劇団を退団したのに、また組織に所属している自分に疑問を感じてしまったんですね。
独立してからは、書籍『こう見えて元タカラジェンヌです』のもとになった連載執筆にも取り組みました。宝塚歌劇団時代を振り返り、自分の経験や当時の思いを文章にすることで、これからのタカラヅカとの関わり方が見えてきたように思います。
「私がどう考えようと、音楽学校時代をふくめて15年間在団した『タカラヅカ』はやっぱり切っても切れない縁なんだから、すねをかじっちゃってもいいんじゃない?」って(笑)。
私自身は、在団中に宝塚歌劇団を背負っていたといえるような大それた存在ではありません。だから「あんたがタカラジェンヌについて語るんかーい!」と思われるかもしれないという不安もありました。それでも、トップスターでなかった私、考え続けて「おじさん役」を極めると決めた私、中間管理職的な役割を果たした私だからこそ見えることがあるのではないかと思うんです。ここは腹をくくって元タカラジェンヌを背負って仕事を続けていこうと決めました。
──かつて天真さんがそうであったように、宝塚卒業後のキャリアに悩む元タカラジェンヌは少なくないと思います。大きな変化の中で新たな道を見つけた天真さんは今、ご自身のどんな経験が生かされていると感じますか?
タカラジェンヌは、一度役割を与えられれば、それがたとえ30秒間のダンスであっても最高の演技を見せようと考え、ハイパフォーマンスを出せる人たちです。どんな職場でもこの地力は生かせると思います。一方では人の力を借りずに自分だけで物事を解決してしまおうとしたり、役割を自ら創り出そうとせず与えられるのを待ったりする傾向があるかもしれません。
そんな強みや特性を持つ元タカラジェンヌの方々と向き合い、セカンドキャリアの支援ができたらいいなと考えています。
それは、宝塚歌劇団在団中に常に周囲を客観的に見てきた私ならではの役割なのかもしれません。その経験を生かして、元タカラジェンヌの方々の新たなキャリアをプロデュースしていく。これもまた元タカラジェンヌの進む道からはみ出ているのかもしれませんが(笑)、私の価値を発揮できるはずだと信じています。
取材・文:多田慎介
撮影:安井信介
編集:野村英之(プレスラボ)