ぼくらの履歴書 Powered by エン転職

トップランナーの履歴書から「仕事人生」を深掘り!

『残酷な天使のテーゼ』の作詞家・及川眠子の履歴書|12回の転職、2000曲を書いて開いたプロへの道

Winkの『淋しい熱帯魚』や、TVアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の主題歌『残酷な天使のテーゼ』など、長く愛されるヒット曲を数多く手がけてきた作詞家の及川眠子さん。作詞家としてのキャリアのスタートから現在のワークスタイルに至るまで、及川さんの履歴書をひもときながら、職業作詞家としての仕事への向き合い方や、自分にフィットする働き方の見つけ方について深掘りします。

及川眠子さんの履歴書メインカット

『愛が止まらない~Turn it into Love~』や『淋しい熱帯魚』(ともにWink、1988年と1989年)や『東京』(やしきたかじん、1993年)、さらに大人気アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の主題歌として現在でも歌い継がれている『残酷な天使のテーゼ』(高橋洋子、1995年)。誰もが一度は耳にしたことのあるヒット曲の作詞を手がけているのが、及川眠子(おいかわ・ねこ)さんです。

子どもの頃から歌謡曲に親しみ、また中学・高校時代に関西フォークや海外の楽曲と出会ったことがきっかけで「作詞家」という夢を追う原動力に。上京後ほどなくしてその才を見出され、数々のヒット曲を世に送り出すことになります。

及川さんが仕事で大切にしているのは「職業作詞家であることに徹し、自分の詞に思い入れを持たないこと」。誰かが歌う曲だからこそ、自身のこだわりや思い入れは「すぐに忘れるようにしている」といいます。

ヒットソングが生まれた裏側のエピソードをはじめ、ヒットを連発する一方で仕事へのモチベーションがどのように変化してきたのか、また現在取り組んでいるプロデューサー業や次世代へ向けたコミュニティづくりなど、及川さんのキャリアを振り返る履歴書とともに、これからについても聞きました。

及川眠子さんの履歴書


及川眠子さん:作詞家。和歌山県出身。中学時代からフォークソングに親しみ、作詞の道へ。1985年、「三菱ミニカ・マスコットソング・コンテスト」で最優秀賞を受賞。フジパシフィック音楽出版(現:フジパシフィックミュージック)所属時代にはWinkをはじめとする有名歌手などに歌詞を提供した。また、『残酷な天使のテーゼ』(1995年)は現在もカラオケランキングで上位に入り続けるヒット曲に。著書に『ネコの手も貸したい-及川眠子流作詞術-』(2018年、リットーミュージック)など。

「作詞家にならなかった人生」を想像したことが、上京のきっかけだった

──作詞家を目指し始めたきっかけは何だったのでしょうか。

中学時代に吉田拓郎さんや音楽グループのチューリップといったアーティストの活躍によってフォークソングが流行し、よく聴いていました。それから、松任谷由実(ユーミン)さんの歌に出会ったことは大きかったかもしれません。無知な中学生だった私は、本当に生意気な話だけど、「これなら私にも書けそう!」って思ったんです(笑)。

ユーミンさんは、私が初めて作詞で賞をいただいた「三菱ミニカ・マスコットソング・コンテスト」の審査員長も務めていらっしゃいました。そういう意味で、私にとって2回も人生の節目になった方ですね。

及川眠子さんの横顔

──特に影響を受けたアーティストはいますか。

やはり中山ラビ(1972年にデビューした女性シンガーソングライター。2021年没)さんの存在は大きかったですね。とても観念的な詞が特徴で、それが自分の“ツボ”にはまったというか……。私は彼女が書いた歌詞の真似から作詞をスタートしましたし、私の書く歌詞もやはり観念的だなと思います。

いわゆる「関西フォーク」といわれるようなシンガーの曲もよく聴いていました。加川良さんや大塚まさじさん、西岡恭蔵さんなど。関西フォークではないですが、ムーンライダーズから受けた影響もとても大きいです。

あとは、やはり松任谷由実さんと中島みゆきさん。おふたりの歌詞は私が表現したい世界観とは違いましたが、とても巧みで、そこから「こう書けばいいのか」「情景をこう描写するといいんだ」というように、作詞のテクニックや表現方法を吸収していったんです。

──1984年、24歳で上京していますが、当時の心境はどのようなものだったのでしょうか。

及川眠子さんのキャリアグラフ1

両親ともに上京には反対だったのですが、自分の意志を押し通して上京しました。音楽の仕事はやはり東京に多く集まっていたので、私も行かなくちゃ、と考えていたんです。

当時、お付き合いをしている方もいたんです。でもその人と歩む将来を想像したときに、「とても幸せな人生を歩むだろう。でもきっと、私は自分の人生を呪うだろう」と感じてしまったんですね。あれをしたかった、これもしたかった……。作詞を仕事にするという生き方ができなかった自分の姿を想像して、とにかく挑戦しなくてはと思ったんです。それで、30歳までに成果を出すと決めて東京に来ました。

コンテスト受賞を経験し、作詞家としてのキャリアをスタート

──上京後、作詞家としてはどのようにスタートを切ったのですか。

上京後はなんとか仕事を見つけて生活基盤をつくり、作詞をしてレコード会社に持ち込む日々でした。結果としては25歳でコンテスト受賞、28歳でWinkが歌う『愛が止まらない~Turn it into Love~』の日本語詞を担当し、ヒット曲と言っていい成果が得られた。同年にフジパシフィック音楽出版(現:フジパシフィックミュージック)に所属したこともあり、作詞家として生活していくことができるようになったんです。私はコンテストに合格するまで12回の転職も経験しています。だから、上京したての頃こそ不安はあったけれど、あまり苦労という苦労はしていないんですよ(笑)。

──12回の転職……そのお話にも期待しつつ、作詞家として苦労をしていないと感じる理由はなぜでしょうか。

及川眠子さんの横顔

それは今振り返ると「運がよかった」の一言につきます。運というのは、才能という意味もあるし、人との出会いに恵まれることも全部含めたもの。「運さえあればもっとできるのに」と嘆く人もいますが、私は運は誰にでもめぐってくるものだと思っています。ただ、その運が目の前にやってきたときに、確実につかみ取るための訓練ができているかが重要なんです。

たとえば、私は作詞家としてデビューするまでに2000曲ほどの歌詞を書いています。仕事とは関係なく、とにかく毎日歌詞を書いていたんです。すると「明日までに納品してほしいんだけど」と急な相談があっても対応できるんですね。言葉や情景のストックが自分の中にあって、それを引き出して組み合わせることで、瞬発力が出せるんです。だから、日ごろの訓練って運をつかむためにもすごく大事なんですよ。

──1988年にフジパシフィック音楽出版に所属したことで、キャリアの状態も上昇していますが、このときの気持ちは「もっと上に!」という感じだったのでしょうか。

この頃には自分の実績としてヒット曲も持っていて、大地真央さんのリサイタル曲やミュージカルの訳詞を担当させていただいたり、CMソングの依頼があったりもしていて、仕事として調子がよかった時期ですね。所属後の1作目が『愛が止まらない~Turn in into Love~』だったことで、さらに調子に乗っていたかもしれません(笑)。

1990年頃、初めてプロデュースを手がけたスタジオでの1枚

1990年頃、初めてプロデュースを手がけたスタジオでの1枚

大ヒットした『残酷な天使のテーゼ』

──1995年には高橋洋子さんが歌う『残酷な天使のテーゼ』を主題歌とするアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』がヒットし、社会現象にもなります。今でもカラオケランキングで上位に入り続けるロングヒット曲へと成長していきますが、この作詞はどのような経緯で担当されたのでしょうか。

当時のマネージャーが別件でキングレコードさんに伺ったときに、「エヴァ」のプロデューサーの大月俊倫さんに偶然会ったのがきっかけです。そこで「他の人に決めてたんだけど、及川さんでいいや」とオファーをいただきました。後から聞いた話なので真偽は不明ですが、「(作曲を担当した)佐藤英敏さんの明るい曲調に、及川の持ち味である暗い詞をぶつけたらどうなるかなと思った」のだそうです。

──哲学的で難解な詞が印象的ですが、どのように作詞をしていったのでしょうか。

作詞の段階ではまだ本編の映像が出来上がっていなくて、未完成の映像を2話分と、作品の企画書をいただきました。その企画書から「14歳の少年」「お母さん」「お姉さまたち」というキーワードが浮かんで。高橋洋子さんが歌うことは決定していたので、14歳の心情を歌うよりも年上の女性からの目線で歌詞を書くほうが自然だなと考えました。

さらにプロデューサーの大月さんからは「難しく書いてほしい」というオーダーがあったので、「とことん難しくしますからね」と答えて作詞しました。あの曲は本当に単純な、一本の糸のような事柄を複雑に絡み合わせていっただけで、「坊や、大きくならないで」という母の思いを歌うことに終始しているんですよ。

──『残酷な天使のテーゼ』が名曲として長年愛され続けていることについてはどう感じていますか。

なぜここまで受け入れられたのかを分析すると、とても歌いやすい、歌って気持ちのいい曲になったんだろうなって。

『残酷な天使のテーゼ』を語る及川眠子さん

非常に細かい話ですが、「残酷な……」と「ア音」から始まっているのが広がりを感じさせ、さらに2番が終わって大サビに向かうBメロディ(「人は愛をつむぎながら歴史をつくる」の部分)の間に間奏を入れないことで、歌う人はとても苦しいんですよね(笑)。でもそれが歌いきったときの気持ちよさになる。これはアレンジの妙だと思います。さらに最後の「神話にな“れ”」は「エ音」でピタっと曲が終わるので、歌い終わったときの締まりがいいんですね。

──作詞のときは実際に歌って確認することもあるのでしょうか。

今は頭のなかで勝手に音が鳴るようになったのであまりしなくなりましたが、『残酷な天使のテーゼ』では曲が先にできていたこともあり、歌いながらつくっていきましたね。もしラストを「神話にな“る”」にしていたら、「ウ音」は言葉が閉じた状態の口の中でこもる音なので「歌い終わったぞ!」という気持ちにはならず、きっとここまで歌われる曲にはならなかっただろうなと思います(笑)。

──普段、作詞はどのように行っているんですか。

タイアップ曲は企画書を見たり、歌手の声の特徴をチェックしたりしながらつくります。よく尋ねられるのは「体験談ですか? それとも想像ですか?」ということですが、職業作詞家として誰かのために歌詞を書く以上、100%ノンフィクション(体験)の歌詞って書けないんですよ。でも反対に、見たり聞いたりしたことのないものや、感じたことのない気持ちを書くのも難しい。

歌詞の源泉は、誰かと会ったり話したり、誰かを好きになったり、映画を観たり、どこかへ旅をしたり、そういった体験や見た風景から自分のなかへ取り込んだもの。それらを必要に応じて取り出してきて加工したものが歌詞になります。だから、体験も少し入っているし、妄想も入っている。それらの組み合わせですね。

──及川さんが「これは力作だった」といえる曲はありますか。

私は自分の手を離れた作品に対して思い入れを持たないようにしているんです。歌詞を渡したらもう歌手のもの、それが歌われて世に出たら、歌手のものから世の中のものになると感じていて。だから、思い入れがある作品はおのずと「世に出なかった曲」になってしまうんですよ(笑)。

新人だった頃に『かんのん』というひらがなだけの歌詞を書いたことがあって。持ち込みをしたときにも「面白いね!」と言っていただけたのですが、いざ『かんのん』に曲をつけるとなると「色が濃すぎる」「歌える歌手がいない」と言われてしまい、今も手元に残っています。歌ってくれる人がいない曲というのは里親の決まらない子猫のようで、やっぱり思い入れが強くなってしまいますね。

及川眠子さんによる歌詞『かんのん』

及川さんが力作と語る、未発表の『かんのん』(及川眠子さんご提供)

事務所をつくって独立するも、責任の大きさがモチベーションにも影響

──1996年に36歳で自身の事務所を設立していますが、その2年後からはキャリアの状態が少し下降。「方向性に迷う」とも書いていますが、どのようなことがあったのでしょうか。

及川眠子さんのキャリアグラフ2

事務所を設立したのは、私はプロデュース志向が強くて、自分の手で原盤を持って制作をしたいと思っていたからなんです。他の会社と契約するのに法人のほうが進めやすいということもあり、『残酷な天使のテーゼ』のヒットのおかげで入ってきた印税をもとに事務所をつくりました。

38歳の頃からの「迷い」というのは、もう歌詞を書きたくないと思うほどのもので……。もちろん作詞の仕事も途切れずに受けていたし、プロデューサー業は面白さもあったのですが、「なんだか向いていないのかも」と感じるようになっていたんです。じゃあ出版? と本を出してみたり、散文詩のようなものを書いてイベントに参加してみたり、もしかしたら舞台が向いてるのかな? とか、とにかくいろいろなところに手を出しては「違う……」と迷い続けていたんです。

2008年、トルコで旅行会社を立ち上げて、日本とトルコを行き来していたころの及川眠子さん

2008年、トルコで旅行会社を立ち上げて、日本とトルコを行き来していた

──プライベートではトルコ人男性との出会いや結婚、離婚を経験しています。キャリアの状態は下がっていますね。

当時のことを思い出してみると、やっぱり楽しくなかったんですよね。旅行会社をつくったり、彼のビジネスのフォローや金銭面での援助もしたりと、「やらなきゃ」という責任感だけが強くなってしまって、背負うものが増えていた気がします。それを「どう終わらせよう?」「ずっと続くの?」と感じながら日々をやり過ごしていたというか。

彼と過ごした時期は楽しいこともたくさんありましたが、それ以上にお金のことで悩んだり、こうした責任に押しつぶされそうになる日々で、仕事が楽しいという感覚はなかったかもしれません。だからこそ、離婚したことで全てゼロに戻ったのかも。

離婚して、気持ちがリセットしたという及川さん

離婚直後、「気持ちがリセットした」という及川さん

──離婚した2014年にはキャリアの状態もフラットになっていますね。

借金を背負うことにはなりましたが、もう元夫のことを気にかけなくてもいいんだ、仕事のことだけ考えてもいいんだ、と気持ちがリセットできたような感じです。25歳でコンテスト受賞したときのような「音楽が好きだ」「作詞がしたい」という気持ちが戻ってきた感覚でした。歌詞を書いていて楽しいという気持ちも戻ってきて、どんどん前向きな気持ちになりましたね。

ポジティブな状態で仕事をしていると、不思議といい仕事が増えるもので。なかでも2016年に担当した舞台『プリシラ』は印象的でしたね。舞台の仕事は久しぶりでした。ドラァグクイーンが主人公の物語で、そこから知り合ったドラァグクイーンをユニット「八方不美人」としてプロデュースすることになって、面白い仕事へとつながっていきました。

失敗できるのは若いときだけ。ミスを繰り返しながら自分の道を見つけてほしい

──及川さんは作詞家として仕事を本格化させるまでに12回の転職を経験していますが、自分に合う仕事と出会うためには何が必要だと思いますか。

まずは好きかどうか、やっていて楽しいかだと思います。もちろん「好き」だけでは生活していけませんから、その道へ進むためには生活基盤が絶対に必要ですよね。目の前の仕事は好きなことのためにやるべきこととして受け止め、上手に両立できるのがベストだと思います。

気になる仕事や業界があったら、アルバイトでもいいので飛び込んでみるのもいいと思いますよ。それこそ、合わなければスパっと辞めてもいいし、そこから次の道へつながるヒントが得られるかもしれません。

及川眠子さんの横顔2

音楽業界の面白さは、プロが集まっていいものをつくろうとしているときの化学反応。100点の曲に100点の歌詞を持ち寄って、200点や300点の曲をつくろうとしている。あるいは選択を間違えて10点の仕上がりになる……。そんな実験を繰り返しているような感じです。

ある名作曲家の方に「自分は100点の曲なんて、なんぼでも書ける。でもそれが歌詞と歌と合わさることで、20点になったり200点になったりする。“歌の面白さ”ってこれなんだよね」と言われたことがあって、私はとても共感できたんです。

自分ひとりの力では実現できないないコラボレーションの面白さがポップミュージックの世界にはあると思うんですよね。そして、それでいて、プロデューサー、作曲家、作詞家、歌手といった関係者同士、適度な距離感がある。たとえば、小説を書くとしたら、作家と編集者がまるでお互いの内臓をこすり合わせるような近い距離でものづくりに向き合うような印象があります。でも、ポップミュージックの世界の作り手たちは、まるでパズルのように「あの作曲家と、あの作詞家を組み合わせてみよう」と試みるから、お互いどこか適度な距離感が生まれる。コラボレーションと距離感、私はこの感覚が好きで、作詞家という仕事を続けられているんだと思います。

──ご自身の経験から、20~30代の人に大切にしてほしい考え方や仕事への向き合い方はありますか。

自分の頭で考えることを大切にしてほしい。若いスタッフに「指示がなかったからやらなかった」「教わっていないのでできなかった」と言われて閉口したことがあるのですが、この原因って「失敗したくない」という気持ちだと思うんです。でも若いうちにこそ、自分で考えて、突っ走って、どんどん失敗してほしいなって。

成功はみんながほめてくれるしうれしいものです。でも失敗からは「こうしちゃいけないのか」「次はこうしよう」と教訓が得られることも多い。怒られたくない、傷つきたくないという気持ちをこらえて、いろいろやってみてほしいですね。失敗しても許されるのは若い間だけで、50代や60代になってからの失敗は、白い目で見られるだけなんです(笑)。転ぶ練習をたくさんしておけば、受け身も上手になりますよ。

2016年、Winkのプロデューサーだった故・水橋春夫氏と及川眠子さん

2016年、Winkのプロデューサーだった故・水橋春夫氏と

プロデューサー業にも再挑戦。クリエイティブの力で地域活性化にも取り組む

──2018年には、新宿2丁目発ドラァグクイーンによるユニット「八方不美人」でプロデュース業に再挑戦しています。及川さんの今後の活動についても教えてください。

及川眠子さんのキャリアグラフ3

今思うと、事務所設立直後のプロデュース業は早すぎたと反省しています。会社の経営も経験して、自分が目指すべきプロデューサー像が見えてきた感じでしょうか。それは経営者と同じで、お金を工面することと、最後に責任をとることかなって。たとえば、私はステージの演出や音楽についてはプロではないので、そこに手を出すと失敗してしまう。だからそれぞれのプロにお願いして、自分はそのレベルの担保と責任を負うことに徹しようと決めました。

方向性に迷ってあれこれ手を出しましたが、おかげでいろいろな業界の人とのつながりもできましたし、「八方不美人」をどう見せていくのかを客観的に考えられるようにもなりました。そういった作品づくり全体の交通整理が上手にできるようになったので、今回は前よりも良いプロデュースをしていけると感じています。

2020年、及川眠子さんの還暦パーティにて。「八方不美人」共同プロデューサーの中崎英也氏と及川眠子さん

2020年、及川眠子さんの還暦パーティにて。「八方不美人」共同プロデューサーの中崎英也氏と

──今後10年でチャレンジしたいことなどはありますか。

60歳を過ぎたこともあって10年も先のことは、もうわからないんです(笑)。長くても5年単位で考えていて、今取り組んでいるのはクリエイティブの力を使った村おこし。和歌山県田辺市に龍神村という地区があり、緑も豊かで素敵な場所なんですが、いわゆる「過疎地」で。そこをクリエイティブの力で再興できないかと考えています。事務所の登記も龍神村に移転しているんですよ。

具体的にやろうとしているのは、クリエイターとそれを支えるプロデューサーを育てることです。たとえば映画の撮影をやるなら、映像に関心があって学びたいと思っている人を龍神村に呼び、私がこれまでお世話になったプロのクリエイターやプロデューサーなどを紹介して、現場で学ぶチャンスをつくるとか。専門学校でも教わりきれないことを学べる場として活用できたらと思うし、私を軸にした人と人とのつながりをもっと増やして、龍神村の活性化とともにクリエイティブ人口も増やしていきたいなと思っています。

及川眠子さんの優しい笑顔

──及川さん、ありがとうございました!

取材・文:藤堂真衣
撮影:安井信介
編集:野村英之(プレスラボ)

【関連記事】ヒット作を生み出すクリエーターの履歴書を見てみよう

ハリウッドで単身技術を磨き、日本の特殊メイク界のパイオニアとなった江川悦子さんが駆け抜けた日米映画界の40年!

日本を代表するテーマパークのショーやアーティストのライブなど、観る人すべてを引きつける演出家・金谷かほりさんがショービズ界で結果を出し続けるための仕事の信念を語ります。