観る人の心を引きつける、魅力的なステージ。旅行先のテーマパークやイベント、応援しているアーティストのライブ、子供向けのヒーローショーなど、さまざまな場所に“ショー”は存在しています。
演出家・金谷かほり(かなや・かほり)さんの仕事は、その“ショー”を最も魅力的に見せること。そして、見た人すべて、誰ひとり取り残されることなく「見てよかった」と感じられるものとしてつくり上げていくこと。
1983年に開園した東京ディズニーランドのオープニングキャストであり、ダンサーとしてショーの世界へ飛び込んだ金谷さんが、どのようにして演出家の道を歩むようになったのか。そこにはこれまでに出会ったたくさんの人の「声」があったといいます。
出会った人たちの声に導かれるようにして、キャリアを歩んできた金谷さん。そのなかで感じた「よいショーのつくり方」「伝わるモノのつくり方」とは。そして、エンターテインメントに宿る大きな力について語っていただきました。

金谷かほりさん:演出家。幼少時から体操やバレエに親しみ、東京ディズニーランドのオープニングキャストとしてキャリアをスタート。次いでショーの演出を担当するようになり、独立後は大手テーマパークのショー演出やアーティストのライブ、舞台公演等幅広い分野で活躍。クリスマスショー「天使のくれた奇跡Ⅱ~The Song of an Angel~」が、世界的なエンターテインメント賞である「アウトスタンディング・アチーブメント賞」を受賞。現在は渡辺大阪大阪芸術学院スクールプロデューサーや大阪芸術大学舞台芸術学科教授を務め、後進の育成にもあたる。
人生を変えた、東京ディズニーランドのオープニングキャストオーディション
──金谷さんは東京ディズニーランドにダンサーとして所属していましたが、ダンスはいつから始めたのですか?
ダンスを始めたのは高校生のころです。小学生のときから体操のコマネチ選手に憧れていたのですが、地元には体操クラブもなく指導者もいなかったので、見よう見まねで前方宙返りをしながら、校庭の砂場に飛び込んでいく日々でした(笑)。

中学生になると器械体操部に入って、本格的に取り組み始めたのですが、高校に入ってからケガをしてしまったことをきっかけに体操の道を断念しました。その後、ケガの回復を待ってダンスの道へ進むことになります。高校卒業後、バレエとコンテンポラリーダンスをするために群馬から上京し、内弟子として先生のお宅に住み込みでダンスを習い始めました。
ところがここでもまたケガをしてしまい、先生のお宅に住みながら練習を続けることが難しくなってしまったんです。やむなく一度地元に帰って静養してから、次は都内にある祖母の家に引っ越し、アルバイトをしながらダンスを続けていました。
そんな日々のなかで、友人が東京ディズニーランドのキャスト募集の新聞広告を見せてくれたのが、私のキャリアの入口でしたね。
──オーディションに見事合格。ダンサーとしてのキャリアが東京ディズニーランドで始まるんですね。

当時はお金もなく、他の受験者のように立派なダンスウェアやシューズを持っていませんでした。なにをかくそう、オーディションでは裸足で踊ったんですよ(笑)。若かったから「恥ずかしい」なんていう気持ちもなかったんですよね。オーディションでは面接もあり、ダンス以外に体操をしていたことをお伝えして、その場でアクロバットの技を見ていただき、「こういう技術のある人を探していた!」と、採用が決まりました。
今はテーマパークという場所も、屋外でショーを見るのも当たり前になっていますが、当時の日本では“テーマパーク”という概念すら一般的ではありませんでした。それもあって、東京ディズニーランドのオープン初日のことはよく覚えています。グランドオープンを祝うセレモニーがあり、入口のゲートからワールドバザールを抜けたところで、ゲストの皆さんに向けてショーを披露しました。
ショーのクライマックスで、シンデレラ城をバックに花火が勢いよく上がったんです。そのときに「これ、人生が変わるかもしれない!」って。この瞬間のことは絶対に忘れないようにしようと誓ったのを、今でも鮮明に思い出します。その後、今日まで40年間もテーマパークに携わり続けるとは思ってもいなかったですけどね。

東京ディズニーランドのダンサー時代
ダンサーとしての日々は厳しいレッスンも経験しましたし、1日に5回のショー出演をこなしていたのでタフな毎日でした。でも、今思い返せば全部笑い話にできてしまうような思い出です。毎日忙しくしているとなかなか気付けないけれど、大変なことも時間が過ぎれば笑い話になってしまうんですよね。だから、とても楽しい日々だったといえます。
──その後、ディズニーランドの開園から2年が経過した1985年に、ショーの演出サイドへ転向しています。ダンサーから演出へとキャリアチェンジしたきっかけは何だったのでしょうか?
海外から来ていた部長に「演出をやってみないか?」と声をかけられたのがきっかけです。ダンサーとして仕事を続けていく選択肢もありましたが、2年間、振付師や演出の先生方の裏方仕事を目の当たりにするなかで「かっこいいな」と思う自分がいた。きっとそのときから、演出の仕事に気持ちが向かっていたんでしょうね。
──とはいえ、ダンサーとして歩み始めて間もないころです。まだまだ表舞台で注目されたい、といった迷いはありませんでしたか?
それがなかったんですよ。部長からは私に覚悟があるのかを試すように「ショーに出演するのをやめられるか?」とも尋ねられ、自分のいないステージの上で仲間たちがスポットライトを浴びている姿を実際に想像してみたんです。そのときに「あれ? 私はそれでも大丈夫だぞ」って。
今でも「注目されたい」「演出家としての自分を知ってほしい」という気持ちはないんです。その部長はきっと、そんな私の“裏方気質”を見抜いていたんだと思います。それで演出という道を進み始めることができました。
演出家というのは、ダンサーや演者として経験を積み、円熟期にある30代や40代の方が多く、私のように20代で演出家に転向するというのはレアなことであり、チャンスでした。素直に耳を傾けてよかったと心から思いますね。

──24歳で立場が変わって、苦労したことも多かったのでは?
最初のうちは20代で若かったですし、まだ実績もなく、年上の出演者に指示を出したり、人をまとめたりするのに苦労しました。20代の演出家なんてほぼいなかったですし、まして女性の立場も今より弱く、生半可な仕事ぶりでは認めてもらえない時代でしたね。
だから当時はかなり気を張って、隙のない仕事ぶりを意識していました。毎日仕事が終わると「今日、悪いところはなかったか」を洗い出す反省会。そして、明日に向けての予習。まるで学校の勉強のように、予習と復習といった準備を怠らずに「完璧な仕事」を実践していました。
肩ひじ張らずに自然体になれたのは、「金谷さんはこういう人だ」という“キャラ”のようなものが確立してからですね。
よいステージの天敵は“つもり”違い。徹底したイメージ共有でつくり上げていく
──金谷さんがおっしゃる“キャラ”を確立したのはいつごろでしたか?
はっきりとは言い切れませんが、おそらく30歳のころかなと思います。29歳で独立し、東京ディズニーランド以外のテーマパークやミュージカルの演出に携わるようになり、実績も徐々にできてきて、業界のなかに私のことを知ってくださっている方がいることで、少しずつ気持ちが楽になってきました。

──金谷さんの場合、演出の仕事というのは、どのようにして進行していくのですか?
いろいろなスタイルがありますが、多くの場合は興行主やスポンサーといった出資者、その企業のビジネスを考えているマーケティング担当者などがクライアントとして存在しています。まずは、その方々と、この商品(ショー)をどんな人に届けたいか、どんな風に楽しんでいただきたいかを考えていきます。
そこから実際にどのようなものをお見せするかを考えて提案し、出演者への指導も含めて興行までのすべての過程を担っています。
──そう聞くと、お仕事としては一般的なビジネスパーソンに近いような気もします。
近いところもあると思います。クライアントの意向に沿ってよりよい演出を考えて、何度も提案する。担当者と話していると、好みやセンスがなんとなくわかってくるので、そこをくみ取って提案に取り入れることも多いです。
──クライアントの考えを聞くなかで、金谷さんが特に注意していることは何でしょうか?

クライアントが莫大な予算をかけて行うショーですから、まずはクライアントが「いいものだ」と感じられないと、観客にもきっと伝わりません。だから、クライアントの思いを正確に聞き取って形にしていくことはとても大切にしています。
ただ、誰にでも“思い込み”ってあると思います。私は「つもり違い」と呼んでいるのですが、お互いの「こうだと思ってた」「こういうつもりだった」という思い込みの食い違いから生まれてしまう「つもり違い」は、ビジネスの場では絶対にあってはいけない。そのために、コミュニケーションを丁寧に取ることが大切だと考えているんです。
──ショーやライブは、特に目や耳からの情報も多いものですよね。言語化されない部分も多く、特に認識共有が難しいのでは。
私は関係者にショーのイメージを共有するときは、いつも必ず紙に描いて見せています。「主役はここに立つ」「セットはこういう感じ」と、頭のなかにあるイメージを他の人にも見える形で描き、勘違いが生まれないように意識していますね。

思い違いを防ぐために、金谷さんが必ず見せる“紙芝居”
この“紙芝居”がないと、私の言葉だけでしか伝えることができません。すると、同じ言葉からでもそれぞれが違うものをイメージしてしまうんです。人は自分が見てきたものや自分の経験からものをイメージしますから、「華やかなドレス」と聞いて「フリルたっぷりのドレス」を想像する人も、「胸元が開いたシックなロングドレス」を想像する人もいるはずです。
みんなが「あんな感じかな?」と自分自身の想像でショーをつくってしまうと、出来上がったものに対して「自分が思っていたのと違う」という事態が起きます。それを防ぐために“紙芝居”をつくり、セットデザイナーや照明担当といったスタッフとイメージを共有し、ひとつのショーをつくり上げていきます。
──“紙芝居”はチームの皆で同じものを見て、目的地へと進んでいく、地図のような役割を果たしているのですね。イメージ共有を大切にし「つもり違い」を防ぐ重要性を感じた出来事は何だったのでしょうか?
仕事の上ではありませんが、最初にこの「つもり違い」に直面したのは振り付け担当をしていたころのこと。ひとつの部屋を女性スタッフ数人でシェアして、仕事のときには宿泊所として使っていたのですが、その共同生活の中で、ある女性がルームメートの服や靴をそっくりそのまま着ていたことがあったんです。
当然、その服の持ち主を含め周囲のメンバーは困惑するのですが、本人は「可愛いよね! サイズもぴったりで嬉しい。今日はこれ着ていこうかな」なんて言っていて、どうも彼女には何の悪意もないようで。彼女にとってはそれが普通で、もし反対に自分の服を誰かが着て行っても怒らないし、冷蔵庫に入れておいた自分のものを誰かが食べてしまっても気にしないようなパーソナリティの持ち主だったんですよ。
当然、生きてきた環境がみんな違うから感覚も違う。「普通」や「常識」といったものさしは人によって違うんだということをつきつけられた出来事でした。こういうことが仕事の現場であってはいけないと感じて、認識やイメージの共有を大切にするようになりましたね。
すべての観客が「観に来てよかった」と思えるショーをつくりたい
──ショーのつくり方や見せ方で大切に考えているのは、どのようなことですか?

取り残される人がいない、みんなが「観てよかった」と思えるショーにすることです。具体的には、「この物語は自分のためのものだ」と感じてもらえるようなショーづくりを心がけています。
私が演出を担当した子ども向けの舞台で「おしりたんていミュージカル」という作品があります。メインのターゲットはもちろん子どもたち。でも、それを観に来るお子さんにはきっとご家族や親しい大人の方が一緒にいますよね。その人たちにも、このミュージカルを楽しんでもらいたい。
それから、大阪のテーマパークで恒例となっているクリスマスショーを手掛けたときにも、観客の一番後ろでショーを眺めていたおじいさんがいて。クリスマスというと、どうしても子どものいる家庭やカップルなどに目線を向けたものが世の中には多いですが、ショーが終わったときにそのおじいさんが「素晴らしい!」と声を上げてくださったのを見て、本当にうれしかったんです。
──たんなる「付き添い」ではなく、大人やメインターゲット以外の観客も楽しめる要素を盛り込んでいるんですね。
それから、座る席によって情熱に差が生まれてしまうのを防ぎたいと考えています。ステージから遠い席や端の席だと、高いお金を出して観に来たのに、少し損をしたような気持ちになると思うんです。出演者と目も合わない、なんだか蚊帳の外みたいな。
それを少しでも解消したくて、出演者には必ず「一番後ろや一番端のお客さまにこそ目を向けて」と伝えています。
──出演者には、具体的にどのような伝え方をしているのでしょうか?
B’zのライブではボーカルの稲葉さんに「クライマックスで会場を一周走ってほしい」とお願いしたこともありますし、2016年に上演した「ドラゴンクエストライブスペクタクルツアー」でも、出演者の皆さんにアリーナの最上段まで行っていただきました。もちろん大変なことではあるのですが、それを目の当たりにしたお客さんの気持ちを考えると、やらずにはいられない。遠くのステージにいた人が、端っこにいる自分の目の前まで来てくれる、それがどれだけ観客をエキサイトさせるか。
お客さまは、ライブやショーを見るためにお金や時間などのコストをかけてくださっています。なかには重い病気や障がいを抱えたお子さんと保護者の方もいらっしゃる。きっと大変な労力をかけて来てくださったんだと思います。だからこそ「来てよかった」「いい時間を過ごせた」と、払ってくださったコストに見合う何かをお返ししたいんです。

エンターテインメント界の世界的権威を誇る「THEA AWARD」(ティア・アワード)授賞式にて
人の声を素直に聞く力が、キャリアを切り開いてくれた
──ショーをつくる上で、金谷さんの思いとクライアントの考えとで衝突することはありませんか?
私はクライアントの思いや希望を細かく聞いて、極力取り入れるタイプです。たとえば、どんなお客さまに届けたいのか、観た人にどんなイメージを持ってほしいのかといった思いは、きっとクライアントの中にはっきりとあるものでしょうから。
それをショーという形に昇華させていくのが私の使命だと考えているので、目的達成のために最大限よいものをつくるように提案を進めていきます。もちろんここは私の担当領域ですから、クライアントが「あんなふうにしたい!」と言ってきても「いえ、ここはこうします」と貫くことも。

そこで私が折れてクライアントの言う通りにした結果、もしも興行が失敗してしまったら誰のせいにもできませんよね。「あなたがそうしたいと言ったんですよ」なんて言い逃れはできません。何のために演出家として私がいるのか、ということですよね。
──ここまでのお話を伺っていると、金谷さんはキャリア初期から節目節目でチャンスを確実に掴んできた印象があります。そうした機会をどのようにして掴んできたのでしょうか?
友人からはよく「持ってる」と言われます(笑)。勘が鋭いというのかな。
ふり返ってみると、私は自分から「こうしたい!」とキャリアへ踏み出したことがほとんどないんです。東京ディズニーランドのキャストになったのも友人から勧められたのがきっかけですし、演出家になったのも上司の勧めがあったからです。
尊敬する舞台芸術家のマーク・フィッシャー氏と仕事でご一緒したときに「天才であるあなたと一緒に仕事ができてうれしい」と伝えたら「僕は天才じゃない。ただ人よりも多く経験をしているだけだよ」と返されたことがあるんです。
「経験値が高いということは、それだけ発想の引き出しが豊かであるということ。だから仕事は断らないように」とアドバイスされました。経験を積むことでアイデアは増えますし、演出の技術も洗練されます。このアドバイスを実践してきたおかげで、いろいろな経験を積むことができましたし、新しいチャレンジもできました。
シェイクスピアの名言のなかに「運命とは、もっともふさわしい場所へと貴方の魂を運ぶのだ」というものがあります。自分の人生はまさにこの言葉のとおりではないかと感じるんですよ。
私はキャリアの過程でいろいろな人から「これをしてみたら?」と声をかけられ、それもいいなと受け入れてきました。その結果、今こうして楽しく仕事に向き合えている自分がいるんです。
演出家になった当初、理不尽に怒られたり、提案書を破られたりした経験もありました。そんな中でも、決して感情的にならず、「この人が言いたいのはこういうことなのか」と冷静に聞き分ける努力をしてきました。「自分はこうだ、これがやりたいんだ」と意固地にならずに、いろいろな人の話をフラットに聞くことは今でも大切にしている考え方です。
それでも光はなくならない。人の心を動かすエンターテインメントの力
──2020年からはコロナ禍もあり、エンターテインメント業界も大きな影響を受けたと思います。自粛の日々はどう過ごしていましたか?
まずは予定されていた仕事がキャンセルになってしまい、さらにステイホームで膨大な時間が生まれました。今まで時間がなくてできずにいたことを実際にやってみようと思い、自分は何をやりたいのか、お客さまに何を見せたいのかを改めて考え抜きました。
そのひとつが2020年の8月に行った自主公演「CLUB BERONICA」。テーマパークやアリーナのような大空間ではない、小さな空間で自分にどんなことができるのかを試す公演でしたが、自分の得意・不得意を見つけられましたし、協力してくれる役者やスタッフがいることもわかり、得るものも多かったです。
それから、そこで私のファンだという方に出会ったんですよ。「ずっと見ています」と声をかけられて、私自身も覚えていないような昔の公演を「すごくよかった」と言ってくれたんです。そういった方との出会いは、「CLUB BERONICA」をやったからこその経験でしたね。
私はこのコロナ禍が、自分の本当に好きなこと・やりたいことを見つける“ふるい”のようになったと感じています。もちろん演出は仕事ですから、生活のために取り組むことでもあります。でも、どうせやるなら喜びが少しでも大きいほうがいい。
いろいろなことを「楽しいか」「喜びがあるか」でふるいにかけていったら、本当に好きなことが残った。そして、その「好きなこと」をやるための覚悟を決めるための時間になりました。
自分のつくるショーを楽しみにしてくれている人がいて、一緒に取り組める若い仲間たちもいる。いま私は61歳ですが、この約2年は「これからの10年を彼らのために使おう」と決めるための期間でもありました。
私が周囲の人の支えでキャリアを積み重ね、いい人生だと思えているように、私が関わる若い人たちにも「いい人生」を歩んでほしい。先輩や先生方から受けた恩を、次の世代にリレーのバトンのように渡していきたいです。

──2020年には「不要不急」と言われることもあったエンターテインメントの世界。それでもエンターテインメントが消えることはないと思います。それは、エンターテインメントにどのような力があるからだと思いますか?
エンターテインメントは人の心を輝かせるものだと思っています。昨日も舞台を観に行ったのですが、ステージの上にいる人から光のようなものを感じるんですよ。この光って、必要ない人もいると思うんです。でも一方で、絶対に必要だという人がいるんです。「お医者さまが体の病気を癒やす人なら、エンターテインメントは疲れた心を癒してくれる存在だ」と表現していた上司もいます。
どうしようもないほど落ち込んだ心を上向かせてくれる、そんな可能性を持っているのがエンターテインメント。強い力を秘めているからこそ、エンターテインメントはずっとずっと存在し続けると思います。
──金谷さん、ありがとうございました!
取材・文:藤堂真衣
撮影:安井信介
編集:野村英之(プレスラボ)
ヘアメイク:長嶋文香(CharmeR)
スタイリスト:前田順弘
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