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海洋堂・宮脇修一センムの履歴書|フィギュアに尽くした50余年。いま「敗北感しかない」と語る理由

フィギュアというホビー商品をいち早く打ち出し、日本はもとより海外からも高く評価される造形集団、海洋堂の宮脇修一さんの履歴書を深掘りします。チョコエッグやアクションフィギュアなど、多くのヒット商品を世に送り出してきたキャリアの根底にあるのは、「ただ好きだから」という思い。さまざまな挑戦、そして困難に向き合ってきた海洋堂のフィギュア勃興記を、宮脇さんがたっぷりと語ります。

海洋堂宮脇修一さんのメインカット

「フィギュア」と聞いて、何を思い浮かべますか? 秋葉原で売っているアニメやゲームのキャラクター? それともマーベル映画のヒーロー? カプセルトイやコンビニで買える食玩の動物や昆虫のミニチュアを思い出す人もいると思います。あらゆる場所で売られる、多種多様なフィギュア。こうしたフィギュアを商品として世の中に送り出したパイオニアが、株式会社海洋堂の宮脇修一(みやわき・しゅういち/ @sennmusannさん。かつて、社会現象といえるほど大流行したチョコエッグのオマケを買った人も多いと思いますが、そのキッカケは、宮脇さんが社内の造形師に好きなように動物を作ってほしかったからだそうです。

儲けなど二の次で、自分たちが心から「凄い」と思えるフィギュアを、好き勝手に作りつづけてきた宮脇さん。しかし、チョコエッグの大ヒットなどで注目されるようになった海洋堂は、経営乗っ取りや社員の反発、販売代理店の倒産など、何度も窮地に立たされます。

「海洋堂なんて、いつ潰してもいい」「フィギュア造形なんて吹けば飛ぶような商売」と言い続けた宮脇さんは、一体どうやって度重なるピンチを切り抜けてきたのでしょうか。

(ご本人がこれまでのターニングポイントを振り返り、「そのときどんな状態だったか」を記す、本企画恒例のキャリアグラフ。今回、宮脇センムはたいへん詳細にグラフを示してくれました。これが見られないのはもったいない。なので、今回は特別にノーカット版のキャリアグラフを記事末尾に掲載しました。あまりにも率直なキャリアグラフ、ぜひご覧ください。)


海洋堂・宮脇修一さんの履歴書


宮脇修一さん:1957年大阪府生まれ。幼少期からプラモデルに親しみ、父親・修の開業した模型店「海洋堂」の手伝いを小学校時代から始め、中学2年生で店長となる。中学卒業後、正式に海洋堂へ入社。1985年、海洋堂の株式会社への改組にともない、専務取締役に就任。この頃より“センム”の愛称で呼ばれる。2005年に社長となるが、2020年のMSD企業投資株式会社の資本業務提携を経て、再び専務に就任。「宮脇センム」として吉本興業にタレントとして所属、大阪芸術大学キャラクター造形学科の教授も務める。

プラスティックの質感に未来を感じるも、世の中はテレビゲームの大ブーム

──模型店としての海洋堂は1964年にオープンしたそうですが、お父様の宮脇修さんは元々、貸本屋だったと聞いています。

貸本屋兼モノ書き、小説家でした。それ以外にもいろんな商売に手を出していましたね。海洋堂の商いのスタイルは、まるで私小説です。父は自分を主人公にして、ちゃぶ台をひっくり返したり喧嘩したりして、劇的に自分の人生を演出していく人でした。そんな宮脇家の子に生まれたわけですが、週末には梅田の中心街へ映画を観に行って、帰りに商店街でプラモデルを買ってもらっていました。たまに、とんでもなく高額の戦車やセスナ、ボートの模型やおもちゃも買ってもらって、プラスティックの持つ未来感に魅せられていましたね。僕だけでなく、1964年ごろの子どもたちにとっては、模型店は憧れの場所でした。ですから、自分の家が模型店になるなんて宝に囲まれて暮らすようなもの、宝島に住むようなものでした。

父はボーリング場の跡地にスロットレーシングカーの巨大なコースを作ったり、帆船模型の完成品販売をしたり、『サンダーバード』を上映している映画館でプラモデルを売ったり、後から後から、どんどん新しい企画を考え出して、僕も小学校4~5年生ぐらいから店の手伝いをしておりました。まるで家計を支えるためにホルモンを焼いていた『じゃりン子チエ』みたいです(笑)。まあ、こんな変わった子どもだったので、中学校を卒業してそのまま海洋堂に就職することになりました。もちろん、教師は「高校ぐらい行かせろ」と言います。それでも父は、「ワシのほうが教師なんかより、まっとうな教育が出来るんじゃ!」と譲りませんでした。

創業間もない海洋堂の様子

創業間もない海洋堂の様子。わずか1.5坪の店舗から、海洋堂の歴史は始まった。写真提供:海洋堂

──それゆえ、かなり早い段階からキャリアグラフが記載されていますね(笑)。1977年には、海洋堂ホビー館という施設をオープンさせていますね。

海洋堂・宮脇修一さんのキャリアグラフ1

父は、その時点から「館長」という役職につきました。海洋堂ホビー館というのは、「究極の模型店」を目指してつくった施設で、スロットカー用のレース場もラジコン戦車を走らせるためのコースもあったんです。しかし、まったく子どもが来なくて大失敗。その頃、『スペースインベーダー』をはじめとするテレビゲームの大ブームが起きたからです。能動的に作るプラモデルではなくて、一方的に遊び相手になってくれるゲームに子どもたちは熱中していたんです。

なんとかホビー館を盛り上げようと、いろいろ策を打ってみました。一時期は古新聞を集めてきた子どもに景品としてプラモデルをあげる、なんていうサービスもやっていたのですが、始めて2~3ヶ月で新聞紙の価値が暴落してしまい、山のような借金ができただけ。当時は親戚のいるアルゼンチンへ、夜逃げをしようかと本気で考えたぐらいです。

──その後、再浮上のためにどのような手を打ったのでしょうか。

窮地を救ってくれたのが、1980年に起きたガンプラブーム、そしてテレビゲームでした。試しに店内にゲーム機を置いてみると、それを目当てに子どもたちが集まって社交場のような雰囲気となり、毎月毎月、血を流すような苦しい生活からは脱することができた。僕は「ゲーム屋のお兄ちゃん」としてゲーム用に小銭を両替したりしていましたが、売り上げはあれども、精神的には満たされませんでした。「お前たちが好きなのは模型ではなくて、しょせんゲームかよ」と、敗北感のカタマリでしたね。

オープン間もない「海洋堂ホビー館」の様子

オープン間もない「海洋堂ホビー館」の様子。写真提供:海洋堂

複製技術“バキュームフォーム”で、自分たちが製品を作って発信者になる

──しかし、1981年から工場ではなく家庭内で手作り生産するプラモデル、“ガレージキット”の生産を始めますね。最初は、熱したプラ板を凸型に押しつけて量産するバキュームフォームという方式で、絶版のプラモデルを複製していたと聞いています。

スロットカーがブームだった時、バキュームフォームで車体を自分たちで作っていましたから、製造のノウハウがあったんです。加えて、1981年前後はビンテージ・プラモデルが脚光を浴び始めていたことも影響しています。1980年にSF専門誌『宇宙船』が創刊されて、かつてマルサン商会が発売していた『ウルトラマン』のジェットビートル、電動歩行する『ゴジラ』などビンテージもののプラモデルに注目が集まるようになっていたんです。最初はこうしたビンテージ・プラモをバキュームフォームで複製して、仲間内に配るぐらいでした。

ところが、いざ複製に着手してみると「ジェットビートルのゼンマイの入る部分が邪魔だよね」「複製元のデザインでは、ウルトラホーク1号の機首が太すぎるよね」と気になる部分がどんどん出てくる。だったら自分たちでフルスクラッチビルド(プラ板やパテ、粘土などでゼロから模型を作ること)したるか! と盛り上がり、『未来少年コナン』のギガント、『ルパン三世 カリオストロの城』に出てきたオートジャイロなど大好きな宮崎(駿)メカ、『コナン』のラナちゃん、『風の谷のナウシカ』や『じゃりン子チエ』のお面までバキュームフォームで作っていました。

──同じころ、レジン(樹脂の一種)を使ったガレージキットも売り始めましたね。個人がフルスクラッチした模型をシリコンゴムで型どりして、レジン素材に置き換える。すると、ひとつきりしかない造形作品を無限に複製できるという、夢のような時代が到来します。

海洋堂・宮脇修一さんのキャリアグラフ2

ガレージキットを片っ端から製造して売っていた1983年ごろは、いわばカンブリア紀。ちゃんと版権取得して販売店になりましたので、小売店がメーカーになれる、発信する側になれることの喜びが大きかったです。いわば、手づくりのパン屋さんが趣味でお菓子を焼いていたら、思いがけずお菓子がメイン商品になってしまったようなもんです。

──歴史に名を残すような有名な造形師たちが集まってきたのはその頃でしょうか? 怪獣、メカ、美少女、何でも手づくりで造形する人たちが集う梁山泊みたいになりましたよね。

海洋堂は模型店ですから、以前から常連が店に集まってはダラダラと話し込んでいたのですが、「類は友を呼ぶ」とはこのことで、名人級・職人級の造形師が、自然発生的にどんどん集まってきてくれたのも嬉しかったです。ただ、凄腕がそろっていても、僕らのやり方は「やったもん勝ちや」「作ったもん、どんどん売ればええやん」と造形作品を複製して売りまくるというものでした。まるでならず者集団です。東京で模型サークルをつくっていた人たちからすれば、僕らのこうした姿勢は下品で、恥ずかしい行為だと映っていたかもしれません。

だけどガレージキットの世界では、ボークスやムサシヤ、TVC-15、岡山フィギュアエンジニアリングなど関西の小売店が勢いがありました。「好き」という気持ちだけで周りの目を気にしない、“ならず者集団”だからこそ主導権を握れたのだと思います。

海洋堂に集まった造形マニアたちと宮脇修一さん

自然発生的に海洋堂に集まった造形マニアたちと。上段右から2番目が宮脇さん。下段左は現代美術家・村上隆氏とのコラボレーションで知られる、造形師のボーメさん。美少女フィギュアの造形に通暁するボーメさんの作品は、海外でも高く評価されている。写真提供:海洋堂

──勢いはそのままに、1984年に東京・茅場町に「海洋堂ギャラリー」がオープンしますね。

いわば東京に殴り込みをかけたわけですけど、ショップではなくて、あくまでギャラリー。僕らは自己顕示欲のカタマリですから、自分たちの作品を見せびらかす場が欲しかったんです。1983年にも、神田の三省堂書店で「アートプラ展」を開催して、啓蒙活動に努めていました。

──海洋堂ギャラリーは駅から遠いし、都心の割には閑散とした不思議な場所にありましたね。

土日はゴーストタウンになってしまうような場所でしたから、「どうしてあんな所に?」と笑われました。だけど、僕の父親が「館長」という得体の知れない肩書きで海洋堂の中心におって、「次は東京進出せにゃアカンやろ!」と強引に決めてしまう。館長はまるで宗教指導者のような存在で、こういう怖いオッチャンが背後から見守っているのが、海洋堂の他の会社と違うところでしょうね。

海洋堂・宮脇修一さんの笑顔

──1987年に、東京の海洋堂ギャラリーは茅場町から渋谷に移転、第二ギャラリーもオープンしますね。

1988年にはメカデザイナーの永野護展、出渕裕展を渋谷のギャラリーで開いたり、ソフトビニール(ソフビ)で『ファイブスター物語』のレッド・ミラージュを出したり、『機動警察パトレイバー』も『きまぐれオレンジ☆ロード』の鮎川まどかもソフビで出したし、いわばガレージキットの“幼年期の終わり”でした。ガレージキットの祭典、ワンダーフェスティバル(ワンフェス。1984年に始まった、模型やガレージキットなど造形品の展示・販売イベント)でも天下をとれたと思います。ただ、処女地というかフロンティアが開拓しつくされて、あとはもう消化するだけになってしまうと、僕は途端に萎えるんです。一緒に企画を考えていた重田博史と「飽きちゃったね、お好み焼き屋でもやろうか?」と話すほどでした。

──しかし、1992年にゼネラル・プロダクツ(ゼネプロ)からワンフェスの主催を託されますよね?

ゼネプロさんは賢いから、イベントを売り込むべく「他のメーカーがワンフェスを仕切るようになったらどうしますか?」と、上手に僕らを煽るんですよ。イベント屋としての能力は低いという自覚があったのに、「じゃあ僕らがやらなあかんのかなあ」と思わされてしまった。いざワンフェスを開催してみたら、やっぱり満足感が低い。僕自身がならず者として好き勝手をやってきた人間のはずなのに、つくり手を管理する側、ある種の警察力を持ってしまったことに何よりも萎えました。

──ワンフェス開催以外にも、海洋堂にはさまざまなトピックがあった時期です。

その頃はまだ日本経済のバブルの破片が残っていた時代で、いろいろと派手な仕事が舞い込みました。1993年にディノアライブという恐竜のライブショーに呼ばれて、等身大の恐竜を作ったりもしました。サンフランシスコに3ヶ月ぐらい滞在したり、フロリダのディズニーワールドを視察に行ったり、予算規模10億円のテーマパークの仕事だとか、御用車みたいなクルマで候補地を見に行ったりだとか……。派手だけど、どうも海洋堂らしくない。現場に行くのは刺激的でも、本質的な喜びを感じることができなかったんですね。

『ときメモ』と『エヴァ』ブーム、そして「チョコエッグ」で日本中を席捲

──1997年には東京の秋葉原に「海洋堂ホビーロビー東京」、大阪には「海洋堂ホビーロビー大阪」がオープンします。

施設は拡大しましたが、僕にとって人生でワースト3に入る最悪の年です。秋葉原にホビーロビーがオープンした年、海洋堂社内でのっとり事件が起きたんです。海洋堂って、お金持ちから見ると、すごく魅力的に見えるらしいんです。ワンフェスの主催だし、ファンが多くてブランド力もある。資産家のエージェントみたいな人たちが上手いこと入りこんできて、造形師にまで声をかけて、宮脇親子を海洋堂から追い出そうと画策したんです。最終的には模型の神様が神風を吹かせて救ってくれたけど、「お前はどっち派やねん?」といった具合に、社内に疑心暗鬼が生まれてしまった。なので、1997年の前半はマイナス4、いや、マイナス5です。

──一方で、キャラクター業界は盛り上がっている時期ですよね。1994年にゲームソフト『ときめきメモリアル』が発売、1995年に『新世紀エヴァンゲリオン』がテレビ放送されて大ブームとなり、ガレージキットやフィギュアの世界でもたくさんの商品が出ました。

『ときメモ』と『エヴァ』は、レジン製キットも爆発的に売れました。この2本のおかげで、ガレージキットの売り上げは絶好調になりました。

だけど、その頃に何よりも衝撃だったのは、日本国内でも販売されるようになった『スポーン(1992年に発表されたアメコミ作品)』のアクションフィギュアなんです。海外製のフィギュアなんて、それ以前はチャチな造形のものばかりで関心なかったけど、『スポーン』は違った。凄腕のモデラーが塗ったように、ドライブラシやウオッシングといった彩色テクニックが駆使されていて、しかも安い。「どういうこっちゃね~ん!」と頭を殴られたようなショックを受けたんですが、中国の工場に製造原価を聞いて、さらに驚きました。なんと原価は1体180円。「ということは、1万体生産しても180万円!? だったらやってみようか?」と軽い気持ちでアクションフィギュアに参入してみたんです。

実際には原価は1体250円ほどになりましたが、こうして生まれたのが『北斗の拳』のアクションフィギュアです。洒落で『スポーン』フィギュアのモノマネをしたつもりだったのに、「海洋堂さん、ついにアクションフィギュアに進出ですか!」と騒がれて、かなり気恥ずかしい思いをしましたね。僕らが胸を張れるアクションフィギュアは、山口勝久が「山口式可動」を導入してつれた『エヴァンゲリオン』のシリーズで、もう少し後の発売です。

海洋堂・宮脇修一さんのキャリアグラフ3

──『北斗の拳』のアクションフィギュアは、海洋堂が社外の造形師とともに、中国の工場でつくった、という意味でも衝撃でした。

それには、社内からも反対意見がありましたが、『北斗の拳』のアクションフィギュアは僕が独断でやったことです。ただね、僕が独断でコトを起こすのは別にアクションフィギュアにかぎったことではないです。チョコエッグで造形師の松村しのぶに動物を作らせたときも同じ。ニューヨーク自然史博物館で恐竜などを造形してきた松村は、社内に居場所のない造形師でした。動物や恐竜のフィギュアは、金にならない商品だったからです。

──松村さんの動物造形は非常に高く評価されているのに、とても意外です。さて、いよいよ社会現象になった「チョコエッグ」の登場です。製菓会社と組んでチョコエッグを送り出したのは、1999年9月からですね。

もともとは、僕が中国の工場で食玩フィギュアを見たことがキッカケです。その工場ではオーストラリア向けに、ヤウイという卵型チョコレートのオマケが生産されていて、それが200~300万個という単位でつくられている。こうした状況を目の当たりにしてたので、フルタ製菓さんと組んでチョコエッグを始めるとき、「動物のフィギュア、作ったれや。オーストラリアではカスみたいなオマケが何百万個も売れとんやで!」と松村を煽っただけ。ところが、彼が原型を作ったチョコエッグの「日本の動物コレクション」が爆発的に売れてしまった。

──それなのに、2002年2月、「さらばチョコエッグ」という文書をワンフェスで配りましたね。いったい何があったのでしょう?

あるきっかけによって、タッグを組んでいた企業さんとパートナーシップを解消したんです。チョコエッグは3年間で1憶3千万個も売り上げるような、ある種の奇跡でしたから、継続の道を模索したのですが、それも実らず、でした。やむなく僕は「さらばチョコエッグ」宣言をして、タカラさんと組んで「チョコQ」という食玩を出すことにしました。やがて、2006年ごろには食玩ブームそのものが沈静化してしまい、それで今度は「さらば食玩宣言」をして、食玩製作から撤退しました。

我ながら「さんざん食玩つくっておいて、どの口が言うかな」と思いますが、ついカッコよくタンカを切りたくなってしまうんです(笑)。

海洋堂・宮脇修一さんの正面

──沈静化していたとはいえ、ドル箱商品から撤退する、というのはかなりリスクのある判断に思えます。

ある人に指摘されたことがあります。「普通の企業はピークを越えた後、下り坂の中でいかにして稼ぐかを考える。しかし、海洋堂はピークを過ぎたらゼロになる」と。僕はね、ルーティンワークになった瞬間、嫌になってしまう。ゆるやかな勾配など下りたくなくて、「はい次!」と、新しいことを探したくなるんです。

販売代理店が経営停止、そして社内クーデターが勃発して再びピンチに

──2006年に、食玩と入れ替わるようにして可動フィギュア・シリーズの「リボルテック」が始まります。リボルバージョイントという共通の可動機構を備えたシリーズで、ロボットだけでなく、美少女フィギュアにまでラインナップが広がりましたね。

毎月15日に3種類ずつ、テーマを決めてフィギュアを出していったのですが、新しい市場をつくっている実感があり、喜びを得られました。2年ぐらいすると、全国のホビーショップにリボルテックの専売コーナーが出来るまでに成長していったし、他社も追随してくるようになった。後に発売するカプセルフィギュアの「カプセルQ」もそうなんですけど、他社が追随して市場を形成できたら、僕たちの勝ちなんです。

──ところが、2008年に海洋堂の製品を販売していた会社の経営停止によって、業績が大幅に下降してしまったそうですが……。

海洋堂・宮脇修一さんのキャリアグラフ4

その販売会社はリボルテック・シリーズを引き受けてくれて、当時の販売力は凄かった。しかしその会社が経営停止になったことで、5億円近い損失を出してしまって、僕らにとって最大のピンチとなりました。

同じ2008年の8月に、ワンフェスでエスカレーターで事故がありお客さんが怪我をしてしまい、一度、開催を見合わせざるをえない状態になってしまいました。海洋堂にとって、まるで、魚雷を6発ぐらい撃ち込まれるような出来事でした。海洋堂が戦艦大和なら、そこで沈没していたでしょう。しかし、海洋堂はアメリカ海軍のエンタープライズのように沈みませんでした。それまで築いたブランド力、チョコエッグで得た信用もあったからか、助けてくれる銀行さんがおってくれたからです。奇跡のように生き残ることができた。そういうことは今まで何度かあったし、僕は危機に対して鈍感な人間なので、「まあ、あかん時はあかんよね」ぐらいにしか感じないんですね。販売会社がひっくり返った件も、2010年に特撮リボルテックを新しく始めたことで、細々と生きのびていけたんです。

──2011年には岡本太郎展で「岡本太郎アートピースコレクション」を発売し、「海洋堂ホビー館四万十」もオープンしますね。

その年にリボルテックタケヤという竹谷隆之さん原型のシリーズも始まり、嬉しいことが続きました。「よくやったぞ、ワシ」「偉いぞ、ワシ」と心の満足度は向上しました。

しかし、2014年の海洋堂創設50周年の年に、今度は社内クーデターが勃発します。僕は海洋堂の独裁者なんですけど、世の独裁者は力があるからこそ独裁者でいられるわけです。海洋堂にお金がなくなって力が弱まってきたとき、「独裁をやめろ」という民主化の動きが、社内に出てきたんです。

最初は、社員たちが「僕たちの意見も聞いてほしい」と集まった程度だったんでしょう。だけど、みんなの意見を拾って別の方向へ誘導する一部の人間が、社員vs社長という形に持って行ったんです。その日、僕は自衛隊の総合火力演習を見学に行っていたんですが、大阪へ飛んで帰って団体交渉に応じました。おかげで落ち着きを取り戻しましたが、どこかナアナアですませてしまったことは反省しています。「お前ら、腹のうちではそういうことを考えておったんか」という自分のなかに生まれた不信感を払拭できず、落ち込んだ気分をいまだに引きずっています。

送り出したフィギュア、多種多様。それでも「敗北感しかない」

──昨年、MSD企業投資株式会社のMSDファンドが、海洋堂の株式を取得しましたね。

僕自身はずっと、「海洋堂は飽きたら辞める」と思ってきました。しかし、館長である父は93歳で健在ですし、21歳の新入社員もいます。このままほっぼり出すのは無責任すぎるかな、と思っていた矢先でした。新社長はオリエンタルランドの常務を務めていた人で、経営を安心してお任せできる。そして、社長は社員に「安心と安全」を約束しました。僕が今まで、決して口にしなかった言葉です。海洋堂を潰せなくなったのは悩みの種ですが、僕の目の黒いうちはまだまだ宮脇色を出していきますよ。

──80年代に個人の造形した作品をガレージキットとして海洋堂が商品化して、いまの日本にはフィギュア文化が根づいています。その現状について、達成感はありますか?

いいえ、敗北感しかありません。松村しのぶや竹谷隆之さんのように一部の造形師は認められていますが、造形作品の楽しみ方や、作品や作家への敬意を広く伝えることはできなかった。なにかのアニメキャラクターのフィギュアをつくるとします。すると、造形についてまるで素人のアニメの版権を持つ会社、つまりライセンサーの担当者が「目の位置を2ミリ下げてください~」なんて監修をするようになってしまった。

僕らは全身全霊で造形に向き合ってきたプロ集団です。そんな僕らに「こういう感じで修正してください~」なんて、誰にモノ言うとるんじゃと思うんですけど、ほとんどのフィギュア・メーカーが「ライセンサー様、監修をお願いします、修正してください」と頭を下げている。そんなつまらない監修に、アホのように時間をとられて苦労しているメーカーさんを山ほど目にしています。つまり、ライセンサーが喜ぶフィギュアしか作ってはいけない、作家性の失われた時代になってしまった。「ライセンサー様にご監修いただきました」で満足してしまう、大人しい人間ばかりになってしまったのが、悲しいです。

海洋堂・宮脇修一さんの真剣な表情

──フィギュア・メーカーとライセンサーは対等であり、作家性を高めあう関係であるべきだ、と。

80年代初頭には、日本中の模型屋さんに個性的な造形作家たちがウワッとあふれ出る未来が、うっすら見えていました。しかし、いまフィギュアを取り巻く環境を見てみると、個性的な作家や作品があふれる世界には至らなかった。いま秋葉原や日本橋の店頭で売られているフィギュアの主流は、人気キャラクターを“素直に模したモノ”なんです。それは人気キャラが求められているのであって、フィギュア作品や作家が主役になっているわけではない。

竹谷隆之さんが造形したゴジラが『シン・ゴジラ』で採用されたように、造形を理解するライセンサーも、なかにはいます。僕らだって、ライセンサーのところへ持っていって「この造形ならいいでしょう?」と胸を張って説得できるようなフィギュアを、いくつも用意しています。グッズではなくて、モチーフとしてキャラクターを使わせてもらえるなら僕らはいくらでも造形するし、どんどん商品化したいんです。

海洋堂に集まった造形マニアたちと宮脇修一さん

海洋堂は商品の原型を作った造形師、つまり作家の存在をなによりも大事にする。販売スペースでも、商品名と並び造形師の名を記載することを忘れない。写真は2021年に大阪・門真にオープンした「海洋堂ホビーランド」にて撮影。

──今後の宮脇さんの目標を、聞かせてください。

僕はそのつど、局地戦で勝ち抜いてきただけなんです。RPGゲームのように、「目の前の敵を全力で倒したら、その先の道が開けた」というだけ。少年マンガのように、強敵を倒したと思ったらまた次の敵が現れる。見果てぬ夢というものはあるのかも知れないけど、野心だとか「これをやったら確実にバラ色になるよ」といった正しい目標は、僕にはありませんね。

アニメ監督の宮崎駿さんや富野由悠季さん、庵野秀明さんって、常識はずれで狂っている人たちだと思っています。模型やフィギュアの世界は、彼らのように狂ったことをやれない世界になってしまった。だから、もっともっと戦わないといかん。僕はこれからもイノベーターでありたいし、他のフィギュア・メーカーたちにも、発信者としての強い自覚を持ってほしいです。あと20年か30年やれるか分からないけど、ドラマチックに生きるのが海洋堂の仕事のやり方であり、僕の人生です。

──今日はありがとうございました。


▼記事末付録ノーカット版の宮脇センムのキャリアグラフはこちら!情報量多めなので、拡大してご覧ください!

海洋堂・宮脇修一さんのキャリアグラフノーカット版

取材・文:廣田恵介

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