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消臭力のCMが歌う理由「僕たちの広告だから、僕たちのやりたいように」|マーケター・鹿毛康司の履歴書

「消臭力」をはじめとするエステーの人気CMをいくつも手がけ、前職の雪印時代には集団食中毒事件や牛肉偽装事件からの信頼回復に奔走した経験を持つ、マーケター・鹿毛康司さんの履歴書を深堀りします。企業やブランドの本質と向き合い、慣習や前例を打ち破ってきた鹿毛さんの信念とは。

鹿毛康司さんの履歴書メインカット

あどけない顔立ちのミゲルくんが、透き通った歌声で「消臭力」の歌を披露する──。東日本大震災後の日本に、どこか明るい空気を与えてくれたあのCMを記憶している人も多いでしょう。制作を手がけた鹿毛康司(かげ・こうじ/ @onetwopanchiさんは、CMのプランニングや監督、作詞・作曲、コピーライティングなどさまざまな役割をこなすマルチプレイヤーであるとともに、広告業界の慣習に縛られず、企業人として自社のCMを作り続けてきた孤高の人でもあります。

鹿毛康司さんのオフィスにある消臭力

かげこうじ事務所(通称:秘密基地)には、さまざまなエステー社の商品やグッズがある

鹿毛康司さんのオフィスの様子

「偉くなりたいという思いを捨てたら、慣習や前例にとらわれずいろいろなことに挑戦できるようになった」と話す鹿毛さん。一方でそのキャリアには、自分自身のためにMBA取得を目指した若手時代と、大きな事件を経て企業やブランドを本気で考えるようになった大転換期がありました。

鹿毛康司さんの履歴書

鹿毛康司さん:1959年福岡県生まれ。早稲田大学商学部卒業後、雪印乳業(現・雪印メグミルク)に入社。米国ドレクセル大学にてMBAを取得(マーケティング、国際ビジネス)し、帰国後は同社の営業改革を担当。2000年の雪印集団食中毒事件、2001年の牛肉偽装事件における被害者・マスコミ対応の前線に立つ。2003年にエステー入社。15年にわたりコミュニケーション領域の責任者として活動し、戦略作りだけでなく、プランナーやCM監督、コピーライター、作詞・作曲家として独自のスタイルを築く。2011年の東日本大震災直後に手がけた「消臭力CM」は好感度日本1位を獲得(CM総合研究所:2011年8月)し、「ミゲルと西川貴教の消臭力CM」で一大社会現象を起こす。2020年に独立し、かげこうじ事務所を設立。現在はグロービス経営大学院 教授やエステー コミュニケーションアドバイザー、日経クロストレンド アドバイザリーボードメンバー/Ad-tech 東京ボードメンバー。マーケターオブザイヤー、WEB人貢献賞、ACCゴールド、フジサンケイ広告大賞などを受賞。著書に『「心」が分かるとモノが売れる』(日経BP)『愛されるアイデアのつくり方』(WAVE出版)など。

根拠のない自信に満ち溢れていた就活、第一志望の広告業界入りはかなわず

──鹿毛さんといえば「マーケター」「クリエイター」というイメージを強く持っていたのですが、キャリアグラフを拝見して意外だったのは、キャリアのスタートが営業畑であることでした。

鹿毛康司さんのキャリアグラフ1

学生時代は広告業界を志望していたんですよ。広告系のゼミに所属していましたし、就職活動での第一志望は電通でした。糸井重里さんが手がけるコピーや、サントリーが打ち出すブランドメッセージに憧れるミーハーな大学生だったんです。

──そこからなぜ、雪印乳業(現・雪印メグミルク、以下:雪印)に入社することになったのでしょうか?

当時の僕は電通に絶対に入社できると思っていたんですよね。「俺を入れなきゃ、誰を入れるんだ」くらいに思っていて。根拠のない自信に満ち溢れた、大いなる勘違いをしていたわけです。

そんな状態だから就職活動に本腰を入れるのも遅くて、大学4年の夏にはバイクの免許を取って東京から九州まで旅行へ出かけていました。やったことのないことに挑戦したくてバイクで一人旅。大学の友人たちは全国に実家が散らばっていたので、のんびり会いに行きながら旅をしていたんですよ。そんな中、友人らから「お前、就職活動は大丈夫かよ?」「俺はもう決まったぞ」なんて言われて、急に焦りだして(笑)。

──たしかに大学4年の夏といえば、就職活動が佳境に入る時期ですよね。

慌てて就活を開始して、なんとか電通の最終面接まで進んだのですが、そこで落ちてしまいました。周りからは「最終面接まで進んで落ちる奴なんて珍しいんじゃないか」と言われましたよ。そこで、ゼミの研究対象企業のひとつだった雪印を受けたところ、内定をいただき、無事に社会人となることができました。

第一志望の会社に入れなかったという意味では軽く挫折を経験していたのかもしれません。でも今にして思えば、あのとき広告業界に入れなかったことが僕にとってはよかったんですよね。なぜかというと……いや、その理由は後にしましょうか。きっとこの後の話につながっていくと思うので。

「宣伝部に異動するために結果を出したい」一心でMBA取得に興味を持つ

──広告業界に入れなかったことがよかった理由……そのお話を楽しみにしつつ、新卒時代について伺っていきます。雪印への入社について、キャリアグラフを見ると「宣伝部を希望するもワイン事業に配属」となっていて、マイナスからのスタートだったんですね。

鹿毛康司さんのインタビューの様子1

面接の際には宣伝部門への配属を希望していたのですが、いざ入社してみたら配属は大阪支店の営業、しかも、雪印では立ち上がって間もなかったワイン部門でした。品質の良いワインを作っていたのですが、なにぶん新興事業であり、当時は決して存在感がある部門ではなかったですね。

他部署の同期の中には1年目から年間1億円くらい売上を出す人もいるのに、ワイン事業の僕は年間1000万円くらいしか成果をあげられない。「ああ、俺はエリートとして入社しているわけじゃないんだな」とネガティブに感じていました。なんとか結果を出して会社で目立ち、将来は宣伝部へ行きたい。そんなことばかり考えていました。

──それが入社2年目の表彰につながっているのですね。キャリアグラフも絶好調です。

それはもう、頑張りましたよ。当時の雪印には「セールスプロモーションレポート」といって、成果を出した優秀な営業メンバーが仕事事例をレポートにして発表する取り組みがありました。最終的には社長にプレゼンする機会も与えられる、営業としては名誉ある賞なんです。全体で約2000人の営業社員がいる中で、僕は入社1年目と3年目、さらに4年目の成果に対して表彰されました。

ただね、表彰されたのはいいんだけど、周囲からは「受賞おめでとう! 鹿毛くんはワイン事業にぴったりの人材だよ」と言われてしまう(笑)。

──ワイン事業から宣伝部へ行くために頑張っていたのに、賞を取れば取るほど抜け出せない状況になっていったわけですね。

袋小路に迷い込んだ気分でした。そんなときに、友人が偶然持っていたMBAに関する本が目に止まったんです。最初はマウンテンバイクの本だと思っていたんですけどね(笑)。手に取ってみると、そこには当時の僕が憧れる経営・マーケティングの世界が書かれていました。「これだ! MBAを取得すれば認められるはずだ!」と。

当時は、一般的にMBAを取得するためには海外に留学する必要がありましたが、雪印には社費で留学できる制度があったんです。そうとわかれば、あとはMBA取得に向けて一直線です。

とはいえ、当時の僕は英語さえロクにできません。学生時代、英語の試験をパスするのに四苦八苦していたほどですから。普通なら、そんな人間はMBA取得を目指そうなどと考えないのかもしれませんね。

とりあえずTOEFLの申込書を取り寄せてみましたが、案内からして英語で書いてあるので、まったく意味が分からない。ならばと事務局に問い合わせたところ「失礼ながら、そのレベルですと受験はまだ早いのでは……」と言われる始末です(笑)。

それでも、やるだけやってみましたよ。結果は当然ながらひどく、社費で留学なんて到底できない。MBA取得の道のりは長いなあと、途方に暮れました。

MBAを取得するまでの8年間は「コンプレックスのかたまり」だった

──鹿毛さんがMBA留学を実現したのは32歳のときですよね。実に足かけ7年をかけて挑戦を続けていたことになります。

鹿毛康司さんのキャリアグラフ2

英語の専門学校へ通い始め、仕事中も営業車の中で毎日5時間、5年間かけてリスニングの勉強をしていました。さすがに5年もやっていると、耳が英語に慣れていくものなんですよね。なんとかTOEFLの点数を基準点まで取れるようになりました。

そこで、いよいよ海外留学について会社に相談したんです。しかし社費留学の対象となるのは1年にひとり、エリート中のエリートが選ばれる仕組みでした。しかも、条件は1年間、聴講生としての留学で、これではMBAの学位が取れません。「2年間通わせてもらえないか」と人事にかけ合ってみましたが、そんな希望がいきなり通るはずもない。

ただ、社費留学の過去の事例を調べてみると、2年間通い、MBAを取って帰ってきた先輩がひとりだけいたんですよ。僕より3年先輩だった西尾啓治さん。現在(2021年8月時点)、雪印メグミルクの代表取締役社長を務めている方です。

僕は西尾さんに電話して、「どうすれば2年間通わせてもらえるんですか?」と、わらにもすがる思いで尋ねました。

──西尾さんからはどんなアドバイスがあったのでしょうか……?

「大切なのは“気持ち”と“熱意”」だと言われました(笑)。

鹿毛康司さんがお話する様子

それなら気持ちと熱意を会社へぶつけ続けるしかありません。何度断られてもお願いし続けましたよ。最後のあたりは「会社を辞めて、借金してでも行ってやる」くらいに思っていました。会社へもお願いし続けた結果、ようやくアメリカのドレクセル大学へ2年間留学できることになりました。最終的に背中を押してくれた雪印には本当に感謝しています。

──念願かなってキャリアグラフも絶好調になっていますね。しかし翌年は留学生活に「大苦戦」とのことで、一気に下降しています。

1992年当時、僕は会社でせいぜいワープロを使うかどうかのレベルだったのに、アメリカの大学では誰もが当たり前にコンピュータを使いこなしていました。授業では「課題の提出はフロッピーディスクで」と当たり前のように言われるんです。パソコン自体がほとんど分からない僕にとって苦労の連続でした。もちろん語学力の問題もあります。どうにか教授に食らいつき、MBAを取得するまでは、とにかく必死でした。

──留学するまでには長い時間がかかり、留学してからも苦労が続く中で、なぜ鹿毛さんは折れることがなかったのでしょうか?

MBAを取得するまでの8年間、僕はずっと悶々としていたからでしょう。ワインの営業マンとして実績を出してきたけど、自分の思うようなキャリアを歩めていない。やりたいことをなにもできていない。きっと当時の僕は、コンプレックスのかたまりだったんでしょうね。「望む仕事に挑めないまま終わるのか?」「俺の人生はこんなものなのか?」と悩み、なんとか巻き返したいという思いだけでMBAに挑んだんです。

そんな思いがあったので、勉強を本当にものすごく頑張ったんですよ。勉強しすぎて痔瘻(じろう)になってしまったほどです。そのせいで3週間入院することになり、大切な試験のチャンスを棒に振ってしまったこともあるので、本末転倒な気もしますが(笑)。

経営陣への直談判で全社プロジェクトを動かす

──そして33歳。MBAを取得して凱旋帰国となりました。

このときの僕は、ものすごく天狗(笑)。エリート意識を身にまとい、「俺はここまでやりきったんだから、どこに行っても通じるはずだ」と。生意気で、嫌な奴でしたね。

留学前は支店でワイン事業を担当していた自分が、本社へ戻ってきました。いざ中心事業へ! と鼻息荒く意気込んでいたわけです。ところがそんな僕の配属先は、本社のワイン事業でした。

鹿毛康司さんの横顔

──またしてもワイン事業だったんですね……。

またワインか……と思ったのは事実です。

だけど、日本へ帰ってきてからのワインの仕事は想像以上に面白かったんです。ある程度は英語ができるようになっていたので、フランス人やドイツ人、アメリカ人と直接交渉して買い付けをし、海外へ飛ぶこともしばしば。留学前とはまったく違う楽しさがありました。

それでも2〜3年が経つ頃には、「やりたいことはこれじゃない」と再び考え始めるんです。36歳になった1996年、社内で全社的な営業変革運動が企画されていました。ひとり1台のパソコンを持つ体制に変え、営業やマーケティングに関わる数千人の社員がコンピュータを通して業務を進め、マネジメントを変え、人事評価も変えていくという一大プロジェクトです。今で言うところのDX、そのはしりと言えるかもしれませんね。

僕はそこに異動することになったんです。“New teamwork,New network,New operation“をテーマに「ニュートン」というプロジェクト名で、マネジメント変革やアプリ開発、研修などを担当し、全国の拠点を回り、約2000人に説明する日々を過ごしていました。

──これまでとはまったく違う挑戦が始まったのですね。

そうだ、当時の忘れられない経験があるんですよ。ニュートンは全社的な大プロジェクトだったのででしたが、経営陣の了解を得る必要があります。

──鹿毛さんはどのようなアクションをとったのでしょうか?

経営陣に対して、平社員の僕が直接話せるような関係性はありません。だから、僕は秘書からスケジュールを聞き出してある役員に直談判をしたこともあるし、飲みに行く機会を得て「雪印にはニュートンが必要です」と真正面から説得したこともあります。結果として、経営陣から許可が下り、そこからニュートンは一気に動き出しました。このプロジェクトが雪印という大企業に変革をもたらすことになります。

結局のところ、世の中というものは“人情”で動いているんだと思いますね。経済的合理性だけがすべてではなく、人は心で動いている。そんなことに気づけたように思います。変革運動のために経営陣のみならず全社を巻き込んだ経験は、30代の僕に大きな学びを与えてくれた経験でした。

「ブランドはときに誰かの人生に深く関与する」。価値観が一変した雪印事件

──それから数年後に起きた大きな出来事についてもお聞かせいただけますか? 2000年に発生した雪印集団食中毒事件では、近畿地方を中心に多くの人が被害を受け、鹿毛さんは大阪の現場で対応にあたっていたそうですね。

鹿毛康司さんのキャリアグラフ3

この出来事は僕の人生で最も大きな転機のひとつであり、それまでに自分が築いてきたプライドが崩壊し、「ブランドとは何か」を一から見つめ直す契機になりました。当時の僕が経験したことを、率直にお話しさせてください。

大阪が大変なことになっている。そう聞くや否や、僕は現地へ向かって最前線で対応しました。被害に遭ったお客さまのもとへ、一軒ずつお詫びに回りました。

あるお宅へお詫びに伺ったときのことです。車椅子が置かれた玄関におじいさんが出てきてくださり、「妻はひどく体調を崩して、5分おきにトイレに行っています」「とりあえず胃腸薬の代金だけ置いていってくれるとありがたい」とおっしゃいます。車椅子が必要な配偶者の方を、どうやって5分おきにトイレに連れて行くのだろう。そう思って尋ねたら、「私が妻をおんぶしてトイレへ連れていっています」と。

その瞬間に、僕はボロボロと涙が出てきました。僕たちはこのおじいさんとおばあさんにとても辛い思いをさせてしまっているんだと、感情を抑えられなかったんです。

MBAだとかブランドだとか、それまでの自分が格好つけて語ってきた理論は何の役にも立ちませんでした。難しいテキストに書いてあったことも、何の解決策にもつながらなかった。

本当にたくさんのお叱りやご批判を受けるなかで、雪印は僕たちだけのものではない、と思い知らされた。そのことにようやく気づいて、僕は自分を恥じました。自分がブランドというものをいかに浅く捉えていたのか、突きつけられた思いでした。

鹿毛康司さんの真剣な表情

ブランドってなんですかね? 本やネットを調べれば、いろいろと答えらしいものが書かれています。だけどそれらは、ブランドというものの一部分に過ぎないのではないでしょうか。

ブランドは、ときに誰かの人生に深く深く関与する。これを痛いほど実感して、ようやく人間になれたようにも思います。企業の一社員として謝罪するだけでなく、僕自身が個人としてどう考え、動いていくべきなのか。それを深く考えるようになりました。

「会社を辞める」と決め、有志による信頼回復プロジェクトへ

──食中毒事件に続き、2001年には雪印食品による雪印牛肉偽装事件が発生しています。鹿毛さんは、「社員一同」名義で新聞に掲載された謝罪広告に関わっていたと伺いました。

あの謝罪広告が僕の最初の広告作りでした。2年続けて事件が発生し、雪印を愛してくださっていた方々に、お詫びをしなければならないと思っていました。

当時の僕は、信頼回復運動の名のもとに有志を募っていました。集まったのは僕を含めて7人。そのチームで謝罪広告をつくることになったのです。

──世間を騒がせている問題に対して、なぜ鹿毛さんをはじめとした7人は有志で行動を起こしたのでしょうか。当時の現場を知らない第三者の無責任な見方となってしまいますが、それは火中の栗を拾いに行くような行動にも思えます。

もちろん僕たちだけが運動をしていたわけではありません。全国に改革の気持ちを持った社員がたくさんいて、それぞれに活動していたわけです。その7人は自分たちができることをやっていただけだと思います。

僕の中に逃げたい気持ちがまったくなかったかと言えば嘘になりますよ。でもあのとき、僕のところへはニュートンのプロジェクトで知り合った全国の仲間からどんどん連絡が来て、自分の意志で動き出している雪印の社員がたくさんいることを感じていました。だからこそ突き動かされたのかもしれません。

一方で、僕たち有志メンバーの活動は誤解される可能性もあると思っていました。「目立って出世するために活動するわけじゃない」とチームメンバーからの声もあったんです。もちろん、僕たちにそんな気持ちは一切ありません。そこでプロジェクトチームの部屋のドアには、7人で話し合って「チームは3ヶ月間を活動期限とする。信頼回復運動を全うした暁には去る」と書いた貼り紙を出しました。

──会社を辞める前提で取り組んでいたということですか?

はい。辞めると決めたことで、会社で偉い人に何でも言えるようになり、雪印にとって必要な活動を愚直に取り組むことができました。

エステー入社。「何もやることがなかった」最初の3ヶ月で見つけたもの

──信頼回復プロジェクトに一定のメドがついた後、雪印を退職し、2003年エステーに入社しています。キャリアグラフでも0からの新たなスタートとなっていますね。新天地としてエステーを選んだのはなぜでしょうか。

鹿毛康司さんのキャリアグラフ4

どこへ行くにしても、「社長を大好きになれる企業」へ移りたいと思っていました。僕は当時の鈴木喬社長(現・取締役、執行役会長)のことが大好きになってエステーに入り、鈴木さんのことをもっと大好きになろうと思って頑張ったんです。

当時のエステーでは、外部から部長職として入ったのは僕が初めてでした。そもそも中途採用自体が少なかったんです。そんな中で社長が連れてきた人間が入社してきたから、最初はみんな「鹿毛というのは何者なんだ?」と思っていたかもしれません。

そういえば入社当初の3ヶ月、僕は何もやることがなかったんですよ。やることがなかったので、社内をうろうろしては、いろいろな人に会社のことや仕事のことついて話を聞きました。僕なりに、エステーをもっといい会社にするにはどうすればいいのかと考えながら。

そうして3ヶ月が経つ頃、鈴木さんに呼ばれました。鈴木さんは開口一番に「3ヶ月、よく頑張りましたなあ」と言うんですよ。この期間は試験だったわけです。その間、鈴木さんは僕の行動をじっと見ていたんですね。「ずっと社内をウロウロしていたでしょ? 鹿毛さんが感じたこの会社の課題を教えてください」と、鈴木さんは僕に問いかけました。

僕は僕で、鈴木さんにいつかそう聞かれることをなんとなく想定して、実はちゃんと資料も作っていたんです。僕はエステーの問題の本質を口にしました。「社長のワンマンです」と言ったのです。

すると鈴木さんは豪快に笑って、「とても興味深い。次の役員会でそれを発表してもらえますか?」と。さすがにそれは固辞しましたけどね。自分のワンマンが問題だと言われて大笑いする社長がますます好きになりました。

鹿毛康司さんの笑顔

──鈴木社長は、社内では誰もできないことを鹿毛さんにやってもらおうと思っていた、ということでしょうか。

はい。鈴木さんは本気で会社を変えようとしていました。

「君はね、この会社を変えるための人身御供なんだよ。」とまた豪快に笑ってね。人身御供だと言われた僕は、またまた鈴木さんのことが大好きになってしまいました。鈴木さんの思いに応えるべく、この会社を本気で変えよう、そのためにできることを全力でやろうと思ったんです。

改めて鈴木さんから僕に役割が与えられました。それは「宣伝部長」です。

僕たちの広告なんだから、僕たちのやりたいようにやる

──20代の頃、鹿毛さんが渇望していた宣伝の仕事に、ついにたどり着いたわけですね。

そのときの僕には、若い頃のような宣伝の仕事に対する熱はもうありませんでしたけどね。ただ、企業とは? ブランドとは? を深く考えさせられ、大きな揺らぎを経験してエステーに入ったので、宣伝という仕事の持つ意味と正面から向き合いたいと考えていました。

冒頭に「新卒で広告業界に入らなくてよかったと思う」と話しましたよね。そう感じるようになったのがこの頃です。宣伝の仕事に取り組み始めた僕は、広告業界には独自の仕組みやしきたりがあり、「広告マンの仕事とは、こうあるべき」といった仕事の道筋がすでに整っていることを知りました。

道筋が定まっているのは、決して悪いことだけではない。ただ、僕は自分なりの道を歩みたかった。人付き合いの仕方ひとつとってもそう。今でも僕は広告をつくるためにゴルフや接待をやりません。

もし新卒で広告業界に飛び込んでいたら、何の疑問も持たず、すでにある道筋にそって仕事をしていたでしょう。そうではなく、自分なりにブランドや広告に向き合えたのは、なかの人間、ブランドを背負う当事者として、現場でさまざまな経験を積めたからだと思います。就活で広告業界に落とされた僕はラッキーだったと、今は捉えているんですよ。

──既存の道筋にそうことで「できること」もあるのではないでしょうか。

確かにそう思います。ただ、それ従っていたら、予算の少ない会社が優れたクリエイティブを生み出すことはできないと思ったんです。エステーは当時の年間広告予算が競合の10分の1程度でした。予算が少ない会社ということで、業界の人から厳しい目線で対応されたことは一度や二度ではありません。

たしかに僕は広告業界では素人同然の存在かもしれないし、大きな予算も持っていない。だけどそれまで、僕は僕なりに企業とブランドの存在意義について極限状態で考えてきたつもりです。

だから腹を決めたんです。今後のクリエイティブは「自分たちでやろう」と。

──広告作りを外部に任せず、自分たちでやっていこうと。

はい。もちろん広告業界には協力してもらわなければ仕事が回らない部分も多々あります。だけど、業界の人たちを頼るだけでは、自分たちが思うようなものを作れないと思いました。置かれた立場を考えると、自分たちでやるしかなかったともいえますね。

そうして僕は自分で曲を作り、自分で監督をするようになったんです。もしかしたら「素人が何をやってるんだ」と周りからは思われていたかもしれない。

だけど、僕たちの広告なんだから、僕たちのやりたいようにやらせてほしいじゃないですか。

鹿毛康司さんの新しいTシャツ

「消臭力」CM10周年を記念して作られたTシャツ。CMでは西川貴教さんも着用

──2004年には「トイレの消臭ポッド」がCM好感度ランキング(CM総合研究所・東京企画)で4位に。そして2005年には日本初の連続CM「消臭プラグ 殿様シリーズ」を手がけ、キャリアグラフはどんどん上昇しています。

CM好感度ランキングという「結果」を出せたのはうれしかったですね。ただ、「あのCMは飛び道具のような1回しか使えない手」なんていわれて、まだまだ広告の世界で認められたという実感はなかったです。

「殿様シリーズ」は、フジテレビの月9ドラマのCM枠で実行に移したアイデアでした。今では珍しくなくなりましたが、実はこれ「日本初のシリーズCM」なんですよ。当時のCMの世界では「CMはリピートが大事」という考え方が一般的でした。

でも僕は「ドラマは毎回内容が違うのに、なぜCMは毎回同じ内容でなければいけないんだろう」という疑問を持っていた。「CMはリピートすることが大切である」という一般論があったとしても、シリーズCMの価値は、やってみなければわからないじゃないですか。

世の中の空気を変えよう。エステーの思いを、震災後の日本へ

──そして2011年、ポルトガル人のミゲル・ゲレイロさんが登場する「消臭力」のCMが放映されました。「ミゲルくんが歌う消臭力」として、このCMやメロディーが強く印象に残っている人も多いと思います。鹿毛さんは何を思ってあの映像を撮り、どのようなコミュニケーションを実現しようとしていたのでしょうか。


企業とは、ブランドとは何のために存在するのか。雪印事件から10年、エステーに入社してからも、僕はずっと考えて続けていました。そんなときに東日本大震災が起きました。

覚えている人も多いと思いますが、震災後、CMにも自粛ムードがありましたよね。僕は企業人として、エステーが何をするべきかを考えました。

エステーは、消臭剤や芳香剤を通して「世の中の空気を変える」ことに取り組み、人に喜んでもらいたいと考えている会社です。そのスタンスは震災後であっても変わりません。だから僕は「消臭力」として、そのスタンスを歌い上げようと思ったんです。

鹿毛さんとミゲル

鹿毛さんとミゲル

──雪印時代の経験がある鹿毛さんだからこそ、何ができるのか、エステーがどうあるべきかを考えたのですね。

一方では、この状況で世の中の方々が何を思っているのかを想像しました。東北の人たちを中心に、悲しみの中でも前を向いて頑張ろうとしている人がたくさんいました。小さな子どもたちさえも頑張って、前を向いて歩いていこうとしていました。

あのとき、僕は幼い頃の記憶を思い出したんです。父は、僕が5歳のときに他界しています。その日に母が泣きじゃくっていた姿を今も覚えています。でも翌日の葬儀では、その母が割烹着を来て準備し、近所の人たちと笑顔で話している姿も見ました。

あれだけ泣きじゃくっていた母が、なぜ笑顔になっていたんだろう? ずっと不思議に思っていたことが震災後につながった気がしたんですよね。人は、本当につらいときには笑わないと前に進めないんじゃないかって。

今はみんな気づいていないけど、本当は笑いたいと思っているのかもしれない。それなら、「空気を変えよう」と言い続けてきた会社として、やるべきことがあるのではないかと思いました。人が自然に、心の底からクスッと生まれる笑いにつなげられるCMを流すのは、意味があることなんじゃないかと考えたわけです。

あのときに、そんなCMを打ち出すことは普通の会社ではないと思います。ただ、普通でないのがエステーです。鈴木喬がいるのです。鈴木さんは立ち上がって僕に握手してきて「志ですな、アイデアは飛行機の中で考えなさい」と送り出してくれました。

──たしかに、あのときテレビから流れるミゲルくんの歌を聴いて、不安に包まれた空気が変わっていくのを感じた人も多いのではないでしょうか。あのCMはどのようにして着想を得たのですか?

よく覚えているんですよね。3月15日の朝5時50分、僕がトイレに立つために起きた直前の夢の中で、小さな男の子と女の子が僕にまっすぐな眼差しを向けて、消臭力のあのメロディーを歌っているシーンが出てきたんです。

そのイメージをどこで撮るか。背景に選んだのは、1755年に地震と津波で大きな被害にあったポルトガルの首都、リスボンの街並みでした。そこに映るミゲルという存在を僕が作り、あのCMができました。

鹿毛さんとミゲル2
鹿毛さんとミゲル3

こちらも鹿毛さんとミゲル

偉くなることを捨てたから、慣習や前例を無視して挑戦できた

──消臭力CMが誕生した理由を伺って、とても感動しました。2020年6月にはエステーの役員を退任して独立し、「かげこうじ事務所」を設立しています。再び新たなスタートを切った今、鹿毛さんはどのような思いで仕事に向き合っているのでしょうか。

グロービスで講師を務めさせてもらったり、さまざまな団体や企業に関わったりと、活動の幅が広がっています。一方ではエステーの宣伝も引き続き任せていただいています。今年は消臭力のCM放映開始から10周年ということもあって、相も変わらず、新しいアイデアを出してワクワクしながら毎日を過ごしていますよ。auさんのCM「三太郎シリーズ」で知られるクリエイター・篠原誠さんと組んで、いろいろと企んでいるんです。

鹿毛さんが立ってお話する様子

最近はこんなこともありました。消臭力の10周年に向けた企画を考える中で、篠原さんが「山に登る」というアイデアを出してくれたんですね。西川貴教さんに山登りをしてもらって、消臭力のCMの歴史を振り返っていくというもの。僕はめちゃくちゃ面白いアイデアだと思って、2人で3週間ほど、盛り上がりながら企画を練っていたんですよ。

ところが企画会議でアイデアをプレゼンしたところ、チームのみなさんからダメ出しを食らってしまって。

──ダメ出し、ですか?

よくよく考えたら、予定している撮影日は1日しかないんです。その日に雨が降ったらその時点で企画がボツになってしまう。それに山に登って撮影するCMを、1日で撮れるわけがないんですよね。みなさんからは「これまであまり反対したことはありませんが、この企画は無理です」と言われました。

それなりに実績のある2人が、子どもみたいに「そうかあ、どうしよう……」となってしまって。初めてCMを作った新人みたいにうなだれていました(笑)。

──なかなか想像しづらい風景です。鹿毛さんが今もそうやって悩みながら新しいCMを作っているというのが意外でした。

経験を重ねても、新しいことをやろうと思えば悩むし、壁にもぶつかりますよ。このときも「もう時間がないぞ、やばいなぁ」と思いながら寝て、翌朝に新しいアイデアを思いついたんです。「そうだ、過去10年分の歌を全部、西川さんに歌ってもらおう!」って。

チームのみなさんも「それだったらできます!」と言ってくれて、そこから一気にプロフェッショナルたちが動き、新しいシリーズCMが形になっていきました。

この記事が出るのは8月だと聞いています。その頃には、月9の時間帯でシリーズの何本かがすでに放映されているはずです。CMには、新型コロナウイルスで世の中が分断されかけている今だからこそ伝えたいメッセージも込めました。ご覧いただけたらうれしいです。


西川貴教さんをフィーチャーしたシリーズCMはすでにその一部が公開され始めている

──ありがとうございます。鹿毛さんのお話を伺い、雪印時代の後半からエステー入社、そして現在に至るまで、一貫して「自分のため」ではなく「誰かのため」に行動していることが印象的でした。でも20代の頃の鹿毛さんは「自分のため」にもがいていたと思います。今振り返ってみて、決定的な転機はどこにあったのでしょうか。

僕は雪印での経験から企業やブランドの本質を考えるようになり、エステーに入社するときには自分の出世に興味がなくなって、「偉くなりたい」という思いを完全に捨てていましたね。それが転機でした。

こうやって前に出て仕事をしているから、「鹿毛は自分で『クリエイティブディレクター』と名乗って目立とうとしているんじゃないか」と揶揄されることもあります。でも僕は、宣伝の仕事に携わってから、自分を売り込もうなんて考えたことは一度もないんですよ。

世の中の多くの人が思うこととは逆なんです。偉くなることを捨てているから、慣習や前例にとらわれずいろいろなことに挑戦できるんです。60歳を過ぎた今、それをまざまざと感じますね。世の中に多少のムーブメントを結果的に作れたのは、僕が偉くなることへの興味を完全に捨てて、いろいろなことに手を出せたからだと思います。

特製のTシャツを自慢げに持つ鹿毛さん

若い人たちの多くはきっと今、何者かになりたいと思って一生懸命過ごしていますよね。目指しているロールモデルがあるのかもしれない。でも、それゆえに、それぞれの業界の慣習に縛られて自由に動けないこともあるかもしれない。

「偉くなるのをあきらめよう」なんて簡単には言えません。でも、そうしたキャリアのフォーマットのようなものをあえて捨て去ってみれば、見えてくることがたくさんあります。少なくとも僕はそうでした。今もこうして楽しく仕事をさせてもらえているわけですから、満足していますよ。

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取材・文:多田慎介
撮影:中澤真央
編集:野村英之(プレスラボ)