長年に渡り官僚として女性政策や障害者政策に携わりながら、予期せぬ逮捕で罪に問われ、裁判で無罪が確定し、復職。その後、女性としては史上2人目となる厚生労働事務次官(国家公務員の最高位)を務めた村木厚子(むらき・あつこ)さん。こうした履歴を目にすると、私たちはその人に「不屈の人」という印象を抱きます。しかし、村木さんはご自身を評して「平凡」と語ります。
「平凡な人間でも、職業人生を全うできることを証明したかった」と語る村木さんの言葉から見えてきたのは、激動と呼べる半生とは裏腹のしなやかさ、そして逆境にあっても決して失われなかった信念でした。
「志なんてなかった」消去法で選んだ官僚への道
──村木さんが労働省(現・厚生労働省)に入省されたのは1978年。男女雇用機会均等法が成立する以前のことで、村木さんのように地元を離れて就職されるのは珍しかったのではないでしょうか。
教育に理解のある家だったので、中高一貫の私立校に通っていたのですが、私が中学2年生のときに父が失業をしてしまって。お金もかかるし辞めなきゃいけないと覚悟していたら、「どんなに苦労しても、学校には通わせるから」と言ってくれたんです。バイトと奨学金で高校もなんとか通うことができて、大学も「地元の大学なら行かせてあげられる」と。親には本当に感謝していて、卒業したらちゃんと働いて恩返ししなきゃ。そう思っていました。でも、高知では四大卒の女性を採用してくれるところがなかったんです。
──女性は高校か短大卒業後、地元に就職して、20代半ばで“寿退職”する、という認識が色濃かった時代でしたからね。
あとはもう、公務員しかなくて、かたっぱしから試験を受けたんです。国家公務員上級、中級、地方公務員上級……「どこかには受かるだろう」って。それでたまたま国家公務員上級に受かって、公務員になりました。志も何もあったものじゃない(笑)。
そもそも、女性の採用に積極的な省庁も少なくて、当時、上級職が約800人中、女性は20人ちょっと。ほぼ毎年女性を採用するのは、労働省くらいしかなかったんです。それでも数は少なく、私のときに採用された女性は2人でした。だから選ぶとかじゃなくて「どこか拾ってくれるところを探してます!」って。紛れ込んだようなものですよ、私は(笑)
──キャリアグラフはスタートこそプラスですが、4年目の外務省出向からマイナスになっていますね。
最初は末席でお茶汲みと雑巾がけをする一年で、仕事が終わるのが午前2時くらい。2年目は地方へ出て、見習いだけどとても楽しい一年でした。3年目で本省に戻ってまた深夜まで残業して……でも、地方から出てきた、元気だけが取り柄の子をかわいがってくれる良い職場で、いっぱいいっぱいだけど楽しかったんですよ。
でも外務省に出向すると、仕事のやり方がまったく違うし、何もわからない。外務省の人って「一人親方」の要素が強いんです。誰も面倒を見てくれない。2カ月くらいでもう、うつ寸前になりました。海外とのやりとりも多く、時差の影響もあって仕事が終わるのは午前3時です。
──まさに激務ですね。
電車の中で立ったまま寝たのは、あの頃だけですね(笑)。泣きながら仕事して、孤立無援で、厳しい同僚が側を通るだけでドキドキする。これはマズいなと思っていたら、海外出張が決まったんです。国連総会を前に、「いってらっしゃい」とニューヨークに送り出されて。
でも幸いしたのが、国連ではチーム体制で動くことができたんです。私はいちばん下っ端で、よその省庁から来て英語もしゃべれない。会議に同席しても何もわからないから、会議終了後にプレスリリースをかき集めて、辞書を引きながら毎日、日本宛てに電報で報告するというのが、私の役割でした。
そんな日々を続けていると、国連で日本がどんな立場にあるのかが見えてくるわけです。すると、これまでやってきた自分の仕事が何か、何のためにここにいるのかがやっと分かってきた。この経験があれば、日本に戻っても、何も怖いものはないと思えたんです。
──ちょうどその頃、ご結婚されたんですね。
そうなんです、同期の人と。でも新婚2カ月で交通事故に遭ってしまいます。外務省前の歩道上に停めてあった警備の車が暴走して、正面衝突です。右脚を4カ所骨折して、左脚も皮膚移植して……。大怪我なのに入院1日目の夜に何を考えたかって、「寝れる……」って(笑)
──午前3時まで仕事しなくていい! と(笑)。
いまはもうどの省庁もだいぶマシになりましたけどね。それで、2カ月半後に両手で松葉杖ついて退院したんです。でも夫が後で言っていたのは、「あれが敗因だった」って。
──敗因?
新婚早々、大怪我をしたものだから、夫が家事をするしかなかった。家事をすることが運命付けられた、って(笑)。
──当時は共働き世帯も少ないですし、家事は妻主体で夫は一切しない、という家庭も多かったのでしょうね。その後、お子さまが生まれて、キャリアグラフでは人生最大のプラスになっています。
29歳のときに長女が生まれて、夫は子育ても家事も積極的にやってくれて。ふたりで「子どもがいなかった頃はどんな暮らししてたっけ?」と言い合うくらい、すごく楽しかったんです。
ただ、キャリアの面ではちょうど統計分野にいて、わりと地味な仕事をしていたんです。当時はまだ、大切な仕事は男性に任され、各課長も「うちには女の子をよこさないで」みたいな雰囲気でしたから。夜8時には帰れるから子育てと両立はできたけど、評価されてやりがいがあって、バリバリ仕事してる……みたいなのとはかなり違う感じでした。
──いまでも「マミートラック」と言われて、出産や育児の影響で出世コースから外れてしまう問題はありますからね。
でも振り返ると、このときの経験がいろんなところで役立ったんです。何か新しい現象が生じたとき、実態を把握することが重要です。たとえば当時、パートという働き方が増えてきたので、どういう人がどういう目的でその働き方をしているのか、調査対象を決めて、事前にヒアリングして、質問票を設計して、調査を行う。そのデータが「雇用制度をこのように改善すべきなのではないか」「こういった制度が必要なのではないか」と、改善する手がかりになるんです。広報するときにも良い材料になりますよね。そういう客観的に議論できる手段の重要性を認識できたのは、その後の仕事でプラスに働きました。地味な仕事をバカにしちゃいけないんだって、つくづく思いましたね。
あきらめたら、仕事がうまく回りはじめた
──その後、島根県労働基準局監督課長に就任され、管理職になります。
「すぐに行かなくてもいいぞ」とは言われたのですが、キャリアを考えると、いつかは管理職として地方へ行かなければならないことはわかっていました。夫もいずれ地方へ行くでしょうし、「ぜひやらせてください」と。
監督課長のポストに女性が就くのは、「森山眞弓さん※1以来、約20年振り2人目」と言われて、珍しがられた記憶があります。夫は東京に残り、私が2歳の娘を連れて島根に赴任しました。地元の人には「えっ、今度の課長は女性? 子連れ!?」と驚かれて(笑)。
部下は監督官資格を持った年上の男性が中心でしたけど、とても良くしてくださって、いい仕事ができました。たとえば、週休二日制導入の推進キャンペーンをすることになったのですが、前職の経験から、まず調査を実施したんです。
週休二日制について大学や高校などにアンケートしたところ「2万円近く給与が下がっても、週休二日がいい」という意見が多数を占めた。若い人たちは、給与が下がっても休みが多いほうがいいと考えている、ということです。その結果は地元新聞に大きく取り上げられて、県下の企業にも週休二日制の導入を呼びかける材料になりました。
※1:労働省退省後、参議院議員、衆議院議員を経て女性初の内閣官房長官や法務大臣などを歴任。
──その後、本省に戻ってセクハラに関する研究会を立ち上げるなど、社会問題に積極的に取り組んでいきますが、1990年にキャリアグラフはどん底にもっとも近づきます。
島根ではすごく幸せに暮らしていたんだけど、本省に戻ったら入れ替わりで夫が長野に単身赴任することになったんです。「母ひとり、子ひとり」で本省勤めするのは、死ぬほどつらくて……。長女が当時、小児てんかんを患って、深い眠りにつくまでずっと横にいなきゃならないんです。もし発作を起こして、ひどくなったら医大へ連れていかなければならない。となると、夜8時には帰らなければならないんです。
上司や同僚から何か恨み言を言われたわけではないのですが、ちょうど新しい役職に就いたばかりで、いちばん仕事をわかっていない。課長補佐として、部下に指導しなければならないけど、真っ先に帰らなければならないわけです。仕事も身につかないし、部下のほうが能力もあるし、課長には申し訳なくて……これはもう無理かな、と。
──一時は辞職も考えるほどだったんですね。
そう、やれるだけやってみて、ダメだったら辞めよう、と。もし私が仕事を辞めても、誰かが代わりにやってくれるだろうけど、この子の母親は私しかいない。しょうがないか、ってあきらめたら……とたんに楽になったの。部下にも「これお願いね!」ってお願いして、「帰りまーす」って平気な顔で帰って。
すると、事態は1ミリも変わってないのに、あらゆる物事がうまく回りはじめたんです。不思議ですよね。結局、「敵は己にあり」で、勝手に「みんなに迷惑かけてる」って思いこんで、自分で自分の足を引っ張っていたんです。
「どうしよう、どうしよう」と悩んでも何も生まれないし、心は削られて、パフォーマンスも下がる。どうやって限られた時間でいい仕事ができるか、いい親でいられるか。できることとできないことを仕分けて、いまできるベストを組み立てればいいって、考えるようにしたんです。だからね、それ以来、同じように育児との両立に悩んでいる人には、「悩むな、悩むなら生産的に悩んで」と言うようにしているの。
──次女をご出産後、企画官、課長と、着実にキャリアアップされていきます。ときに女性が育児との両立を考えた結果、「重要なポストに就くのは難しい」と遠慮する傾向があると思うのですが、村木さんもなにか葛藤されたのでしょうか。
私の場合、幸いだったのは、労働省には“働くお母さんの先駆者”がいたことでした。もっとも、多くの方は親御さんと同居されていて、育児面でサポートを受けていることが多かった。うちは私も夫も親が地方在住で、頼ることができませんでした。こうした状況だったので、省内の子育て先駆者の方々が、「あなたたちが子育てと仕事を両立できたら、後輩たちもできるようになるから」って、応援してくれたんです。育児のことをいろいろと教えてくれるだけでなく、「なんで村木さんは頑張っているのに、出世できないの?」って、上の人たちに睨みを利かせてくれた。
それと当時、“二大ロールモデル”がいたんです。一人はバリキャリでものすごく怖いお姉さん、もう一人はとても優雅で優しそうに見えて、実は怖いお姉さん。
──どちらも怖い!
どっちも無理! と思うじゃないですか(笑)。ある先輩から「あなたはどっちを目指す?」と聞かれて、答えられずにいたら、「じゃあ、第3のモデルを創りなさい」と言ってもらえた。そうやって、先輩たちがいろいろとアドバイスしてくれて、普通に仕事をすれば、普通に評価してもらえる環境を作ってくれたことで、「当たり前」を変えてくれたんです。おじさんもおばさんも、仕事を頑張っていれば普通に課長になれる。そんな「当たり前」を持ってくれていた組織に本当に感謝しています。
突然の逮捕……「人生を切り取られた」
──そして2003年に社会・援護局障害保健福祉部企画課長へ就任。「過去最高にハードな業務」とのことですが……。
当時、障害者自立支援法案の検討を始めたころ、関係者と厚労省との信頼関係はズタズタでした。「会議を開く」と言われて出向いたら……「針を刺すような空気」って本当にあるんだ、って思うくらいに。福祉に関しては私も素人でしたから、とにかく話を聞こうと、関係者の方の陳情を何時間も受けて、なんとか議論ができるほどには信頼回復しつつありました。しかし、財源を確保するため、利用者には1割自己負担をいただく、という形にしたことからさらに亀裂が深まって……。
あのときはじめて、不眠に陥ったんです。睡眠はほとんど取れていないのに、頭はギンギンに冴えて、お腹も空かない。部下から「村木さん、それヤバいですよ」と言われるような状態です。部下も同僚もとっくに限界を迎えているのに、私を心配して仕事を肩代わりしてくれて……、やがて「超難産」と言われた法案をなんとかまとめることができ、成立までこぎ着けたんです。
普通、40代後半になれば、身体にもいろいろとガタがくるし、正直、仕事ができるピークは過ぎたのかな、と思っていたんです。でもこんなぼんやりした私でも、みんなに助けてもらいながら、なんとか責任を果たし修羅場を乗り越えられるとわかった。まだ仕事上の能力は上がっているって実感できて、本当に嬉しかったんです。
──まだ伸び代はある、と。
私なりの目標があったんです。「平凡な人間でも、夫婦ふたりで子育てしながら、職業人生を全うできることを証明しよう」って。課長から審議官になったとき、これでもういいかな、と思ったけど、先輩が「課長の次に面白いのは、(審議官の上位職である)局長だぞ。辞めるなら局長になってからにしろ」って。事実、局長になってからは、育児・介護休職法を改正して、復職後に時短勤務を選べたり、残業を拒否できるようにしたり。衆議院で法案を通して、さあ次は参議院……と本当にやりがいのある日々でした。でも、そう思っていた矢先の、逮捕だったんです。
──多くの人が村木さんを知ったのは、郵便不正事件※2に関連する容疑者として逮捕されたときだったと思います。
何が起こったのか、まったく想像もつかないし、自分の何が疑われたのかもわからない。どうしようもないなかで、報道はどんどん過熱していって……なす術がなかった、というのが正直なところです。
※2:障がい者団体は厚生労働省から認可を受けることで、通常よりも安価に郵便物を発送できる、という制度が不正利用された事件。当時、この認可を出せる立場にあった村木さんは、ある団体に対して不正に認可を出した、という容疑で2009年6月逮捕、起訴された。裁判が進むなか、捜査を担う大阪地検特捜部による証拠改ざんなどが発覚し、2010年9月に村木さんの無罪が確定した。
──容疑者として報じられると、「あの人は犯罪者なんだ」と誰もが思ってしまいます。
逮捕される前は私だってそう思ってましたからね。「あの事件で逮捕された、あの人はクロだ」って。でも自分の身にそういうことが起きて、人生をいきなり切り取られたというか……。年齢的にもゴールが間近になり、「職業人生を全うしよう」と考えていたので。「なんてことを!」と思ったけど、起こってしまったことは考えてもしかたない。「じゃあ、どうする?」と思い浮かんだのは、まずは身体的にも精神的にも絶対に体調を崩さないこと。二つめは、裁判で勝つために自分のできることを最大限しっかりやること。それしかないって、すぐに割り切れたんです。
──「悩むなら、生産的に悩んで」ですね。
もうね、これまでの苦労があったおかげだなって、つくづく思いました。連日夜遅くまで取り調べされても、長時間労働には慣れてるじゃないですか。「22、23時なんて、かわいいもんよ」って、思っているわけです(笑)。これまでつらかったことが全部役立つなんて……なんだか面白かったですね。
──とは言え、無罪を勝ち取るのは並大抵のことではなかったと思います。本来なら正気を保つことさえままならないなかで、どうして自分を見失わずにいられたのでしょう?
一つは、家族や同僚、部下……仕事を通じて知り合った人たちがずっと応援しつづけてくれたのは、心強かったですね。私のような立場に置かれると、最初は応援してくれていた人が一人去り、二人去り……ってなるそうなんですよ。そしていつしか自分自身「もうどうでもいいや」ってなってしまう。私がそうならなかったのは、本当に、周りに支えられたからです。
もう一つは、自分の人生や運命を、他の人に委ねなかったこと。「自分はやってない」って、私は知っています。でも裁判は神様でなく人がやることだから、絶対に無罪になるという保証はない。仮にそれで有罪になったとしても、私が無実だという事実は変わらないし、自分という存在がダメになるわけではない。だから、毅然としていようって思えたんです。
──数カ月に渡る勾留と裁判の後、晴れて無罪となりました。キャリアグラフは空白になっていますが、当時は何を思っていたのでしょう?
どこに当てはめたらいいか、難しかったんです。というのも、その瞬間はまだ控訴されると思っていたので。戦いは長いぞ、と身構えていたら、地検から「控訴しません」と連絡がきて、無罪が確定したんです。
──その後、地検の担当検事が証拠改ざんで逮捕され、検察の信頼を揺るがす大事件となりました。
だから嬉しいというより、「ホッとした」というのがいちばん近い感情で……無罪を勝ち取ったあとも、あまりにも慌ただしかったんです。公判中は「起訴休職」扱いだったので、無罪が確定したとたんにもとの身分に戻ります。「えっ、明日から仕事? 勘弁してもらえないかな……」と(笑)。
それから淡々と仕事に戻ったのですが、2年くらい経ってから、自分がおかしくなってたことに気づきました。嬉しくても悲しくても、感情の幅が狭くなっていて、全部「中ぐらい」の反応しかしないんです。大喜びもしなければ、落ち込むこともない。で、ある日突然、ガラスが割れた音を聞いた気がしたの。「あ、いま割れた」って。それから一気に感情の起伏が戻ってきたんです。
──何がきっかけだったのですか?
それがもう、自分でも笑っちゃうんだけど、やっぱり「仕事」なんです。ちょうど社会保障と税の一体改革で、年金、医療、介護の3本柱だった消費税の使い道を、子育て支援にも使えるようにするという改革、これまたアドレナリンがうわーっと出るような修羅場でした。
逮捕されて、裁判があって、異常な緊張感の中で必死に感情を抑制して、自分をガードしていたのでしょう。本来的には、私の性格はとても慎重で、臆病なのだと思います。そこから感情を抑え込んでいたガラスが割れて、仕事で自分自身を取り戻した。「結局、仕事なの!?」って、自分でも思います(笑)。
──2013年には松原亘子さん以来16年振り二人目の女性として、事務次官に就任されます。
女性を登用したいという思惑と、事件で良くも悪くも注目されたという意味でさまざまな判断があったんだろうな、とは思います。でも自分の職業人生を、なんとか最後までやりきることができて、すごく嬉しかった。ゆっくりでもいいから、長く歩きつづけていると、結構遠くまで行けるよ、ということを見せたかったので。でも娘がこんなことを言ったんです。「ママって本当に人騒がせだよね。事件で大騒ぎ、次官で大騒ぎ」……って。おかしいでしょう(笑)。
「小さな反抗」を積み重ねれば、社会は変わる
──2015年に退官されてからは、大学で教鞭を執るほか、さまざまな企業や団体でお仕事をされています。キャリアグラフとしてもずっとプラスですね。
そうですね、とてもハッピーです。狭い世界にいたから、どれも勉強になって、本当にありがたい。これまでは「役人として何ができるか」「役所として何をしなければならないか」と、つねに考えていたんです。予算の制約もありますし、「べき論」で物事を考えていた。
でもいまは社会課題に対して、いろんな人を巻き込みながら「みんなで何ができるか」「何をしようか」と考えられる。自由度が上がって、前向きに考えられるようになったのは、自分としても大きなことでした。自分のやりたいこと、引き受けたことだけに集中できるようになったと感じています。
──官僚時代は「辞令に逆らわず、指示された役職を全うする」という仕事でしたからね。
そう、与えられた場所で、自分のやるべきことは何かをつねに考えながらやっていく。でもそれが幸いしたと思う部分もあります。私は子どもの頃からずっと人見知りだったのですが、役所で嫌でもいろんな人と関わって、対外折衝するような仕事をやるうちに、ずいぶん人間関係をつくれるようになりました。思い返せば「修羅場に放り込まれる」みたいな仕事ばかりでした。「針のむしろ」状態というか、信頼関係が崩れているところへ行かされた。でもいつのまにか、悪い状態でもなんとかするコミュニケーション能力が身に付いたんでしょうね。
──それにしても、村木さんのキャリアを俯瞰してみると、着実に社会は変わってきている、変えられるんだなと感じます。でも、多くの方は「自分に社会を変えられるわけがない」と思ってしまっているような気がします。
私が入省した当時、週休二日制は「おまえ、そんなことができるわけねーだろ!」と怒鳴られるようなことだったんです。でもそれが10年経たずに法律改正されて、どんどん社会が変わっていった。セクハラ問題や育休制度も、そんな感じでした。10年単位でバトンを受け渡すように、私が、というより、みんながそうやってずっとリレーしてやってきたんです。そこには、必ず声を上げてくれる人がいたり、制度がないときから自分で実践してみせる人がいたりした。そうやって確実に社会が変わるということを、目の当たりにしてきました。
だから、学生たちには「声を上げることが大切だよ」って。制度はどんどん変わっていくし、もし不自由なら「もっとこうして欲しい」と声を上げることが大切だと話しています。
──ときに「声を上げる」にも躊躇することがあると思うんです。「周りに嫌われるんじゃないか」とか「和を乱すんじゃないか」って。
私も最初はそうだったんです。入省したばかりの頃、お茶汲みをやらされたけど、「できません。おかしいですよね?」って、言えなかった。でもそんな思いをずっと忘れず抱え続けて、自分が嫌だったことを、後輩には経験させまいとしてきた。ちょっととぼけて「どうしてこうなってるんですか?」と単純な疑問として聞いてみたり、「嫌なんだよなあ」ってつぶやいてみると、意外と同じようなことを考えている人が見つかるんですよ。
──すぐには言えなくても、声を上げられるようになるタイミングがくる、と。
そう、来る。少しずつ変えていく。「小さな反抗」を積み重ねていくんです。島根から本省に帰ってきた頃、職場で「御用納め」という宴会が年内最終日に行われていたのですが、私、娘をそこへ連れていったんです。で、翌年の御用納めにも連れていったんだけど、男性上司の態度が変わったの。「おおー! 大きくなったじゃないかー!」みたいな(笑)
──親戚のおじさんみたいに(笑)。
はじめのうちは「女だからと思われたくない」とか「子どもがいるのを見せずに働くほうがカッコいい」と思ってたのですが、ある時点で自分の考え方が変わったんですよね。だから、ちょっとずつ、自分の状況や勇気の度合いに合わせて、無理せず。でもあきらめたらそこで止まってしまうから、しつこく思いを抱えつづけて、できることからはじめればいいんじゃないかと思います。
──退官後も民間の立場から女性と福祉政策に取り組んでいらっしゃいますが、村木さんにとってやはりそれがライフワークだからでしょうか。
自分のミッションと思ってやっている、というより、面白いからやっているんだと思います。面白いというと語弊があるかもしれないけど、たとえば女性って男女雇用機会均等法ができる前は、「女性はこういうことができない」「深夜業や残業をさせてはならない」と思われていたわけです。「かよわい生きものだから」って。
──庇護すべき存在だ、と。
「女性は営業に向かない」なんてことも耳にしました。でもいま、そんなことは言われない。本当は、一人ひとりにはできることがたくさんあるのに、既成の常識や思い込みによって制限されていた。それを壊すことによって、いろんな人が自分の能力を発揮できるようになる。それが面白いのだと思います。
障がい者の方も、もちろん何らかの制約を抱えているから「障がい者」と呼ばれているけど、できることを生かして、仕事ができるようになれればいい。「障がい者だからこれができない」ではなく、その人の強みを生かして何ができるかを考える。そうやって、一人ひとりが本来できることを、できるようにする。「できない」という決めつけから解き放たれて、それに気づきさえすれば、こんなに可能性が広がる、ということに、ワクワクするのだと思います。
【修正履歴】ご指摘により一部誤記を修正しました。(2020年11月26日22時)
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取材・文:大矢幸世
撮影:小野奈那子