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200を超える失敗の向こうに|G-SHOCK開発者・伊部菊雄の履歴書

世界中で累計1億本以上を売り上げる「G-SHOCK」の開発者・伊部菊雄さんの履歴書を深掘りします。「時計はデリケートな精密機器」という常識を覆し、過酷な状況下でも壊れない、丈夫な時計として開発された「G-SHOCK」。この時計は伊部さんが書いた、たった1行の企画書からスタートしました。詳細な計画も、成功するという保証もない中で、なぜ伊部さんは自身の構想を実現し、世界で愛される製品を生み出せたのでしょうか。そして自身の生み出した商品が世界を席巻していく体験とはどのようなものなのでしょうか。「G-SHOCK」開発ストーリーから、現在のお仕事に到るまでの印象的なエピソードを伺います。

伊部菊雄さんの履歴書メインカット

落としても壊れない丈夫な時計。
後に1億本以上を売り上げるG-SHOCKは、このたった1文がしたためられた提案書から生まれたのです。

「破り捨てられてもおかしくない提案書だった」と笑うのは、G-SHOCKの生みの親として知られる、カシオ計算機の伊部菊雄さんです。伊部さんが提案書を提出した当時、時計に「落としても壊れない仕組み」は存在しませんでした。独自の構造を生み出すまでに、1年以上の期間を費やします。「極限まで追い込まれ、何度もあきらめようと思った」と振り返りますが、投げ出さずに限界まで向き合ったことで、世界を巻き込む画期的な時計を生み出しました。

自身が生み出したものが自分の人生を変える、とはどのような経験で、伊部さんの仕事観に何をもたらしたのか。44年間、「時計」に情熱を傾けてきた伊部さんのヒストリーを伺います。

伊部菊雄さんの履歴書

伊部菊雄さん:1952年生まれ、新潟県出身。1976年に上智大学理工学部を卒業後、カシオ計算機に入社。1981年、たった1行の企画書「落としても壊れない丈夫な時計」を提出し、「G-SHOCK」の開発をスタート。1983年、初代「G-SHOCK」を世に送り出した。1994年には、メタル構造で耐衝撃構造を実現した大人のG-SHOCK「MR-G」開発のためのプロジェクトを企画し、1996年に「MR-G」を発売。さらに2004年には世界初の電波ソーラーを搭載したフルメタルのモデル「OCEANUS」を企画商品化を手掛ける。2008年には、「G-SHOCK」の開発ストーリーを世界に伝える「SHOCK THE WORLD」ツアーをスタートし、現在も「Father of G-SHOCK」として発信活動に注力している。

大切な時計を落としてバラバラに。「G-SHOCK」の開発は突如始まった

──伊部さんは社会人生活の大部分を、「G-SHOCK」とともに歩んでこられました。もともと、時計の開発に関心があったのですか?

伊部菊雄さん入社前の1枚。

入社前の1枚。

実は時計に思い入れがあったわけではないんです。カシオに入社できたのも、偶然だったんですよ(笑)。就職難でなかなか会社が決まらなかったのですが、ある日、大学から家へ帰る途中の駅にカシオがあることを知り、訪問してみたんです。すると受付で「会社説明会は終わりましたが、せっかくなので名前を書いてください」と言われました。

しばらくしてから「入社試験を行うので、受験しませんか」と。そして、試験と面接を受け内定をもらいました。まさかこんなに上手くいくいなんて、自分でも驚きましたし、カシオにはなにか不思議な縁を感じましたね(笑)。

──入社後、なぜ時計に携わることに?

伊部菊雄さんのキャリアグラフ1

私が入社した1976年ころは、まだ時計といえばアナログが主流という時代です。カシオのデジタル時計事業も立ち上がったばかりの時期でした。当時のカシオはメイン事業はたしかに電卓でしたが、どちらかと言えば時計の方が新鮮で面白そうだと感じて、時計事業を希望したんです。もっとも、時計にも強い関心があったわけではなく、「強いて言えば、時計かな?」くらいの気持ちで、ほとんど消去法で選んだようなものです(笑)。

──時計外装設計課に配属され、入社5年目にG-SHOCKの原点となる「落としても壊れない丈夫な時計」というコンセプトを発想されたそうですね。発想の背景には何があったのでしょうか?

父からもらった腕時計を落として、壊してしまったんです。その時計は高校の入学祝いに贈られた結構高価なもので、大切に使い続けていたのですが、会社で人とぶつかった拍子にスルリとほどけ、落ちてバラバラになってしまったんです。

もちろんショックではありましたが、それよりも不思議と感動があったんです。当時、「時計は精密機器なので、落とすと壊れてしまう」と当たり前のように言われていましたが、実際に壊れるところを見たことがなかったんです。時計の部品が散らばった瞬間に「時計は落とすと壊れる、と思っていたことが、現実に起きている!」と、目が釘付けになったのを覚えています。私はこの感動を「落としても壊れない丈夫な時計」という1文に込めて、会社に提案書を提出しました。

G-SHOCKの提案書

──つまり、ほぼ空白の提案書ですよね。

本来は構想した時計の開発が可能かどうかを試す「基礎実験」を経て、提案書には具体的な構造案や実験スケジュールを書きます。でも、このときは基礎実験も何もしていなかったので、書きようがなかったんです(笑)。「ふざけるな」と上司に破り捨てられてもおかしくないな、と思っていたのですが、ある日「審議をとおり、役員から開発ゴーサインが出た」と。こうなった以上、「実は基礎実験をやっていなくて……」なんて言い訳はできません。意気揚々と「やります」と言ってみたものの、内心はどうやって実現させようかハラハラしていましたね。

ただ、私が基礎実験を先にやっていたら、絶対に提案書は出していなかったでしょう。なぜなら、「落としても壊れない丈夫な時計」を腕時計サイズで実現するのは、当時の時計作りのセオリーでは現実的ではありませんでしたから。きっと提案する前に、これはダメだと判断していたはずです。“思い”先行で提案する——通常とは順番が逆になってしまいましたが、今振り返ると「これを実現したい」という思いを起点に行動する大切さを学んだ経験でしたね。

99%あきらめの境地。それでも、極限まで考え抜く

──伊部さんの企画が革新的で、世の中にないものだからこそ期待されたのですね。開発に取り組んでみていかがでしたか?

伊部菊雄さんG-SHOCK開発時代。

G-SHOCK開発時代。

案の定、大変でした。製品化までに200以上のサンプルを作り、約2年の月日を費やしました。

とはいえ、開発初期は楽観的でした。「まあ、厚いゴムで繊細な部品の周囲をカバーすれば、きっと大丈夫だろう」と。そこで、時計の上下左右4カ所にゴムをつけて補強し、会社の3階にある男性トイレの窓から落としてみると、中の部品が壊れてしまう。いくら厚みを増やして結果は同じです。結局、ソフトボール大ぐらいまで厚くしないと、部品を保護することは難しいとわかったのですが、これではとても製品化できません。早々に壁にぶつかったわけです。

G_SHOCK実験用の時計の再現

トイレの窓から落としたという実験用の時計の再現。ボールの中には電子部品が入っている。必要な強度を得るためには、写真右の大きさまで補強する必要があったという。

──どのような解決策を考えたのでしょうか?

さまざまな部品が集まる心臓部への負担を、ケースカバーやガードリングなど5つの部品で吸収する仕組みを考えました。

なんとか現状のG-SHOCKと同じくらいのサイズまでコンパクト化し、再び3階から落としてみたのですが、どうしても電子部品が一つだけ壊れてしまう……。液晶を強化すると、コイルが切れる。コイルを強化すると、また別の部品が壊れてしまう。この状態が延々と繰り返されるんです。

伊部菊雄さんのキャリアグラフ2

実験を始めて、すでに1年以上が過ぎていました。いくら解決策を考えて試しても課題が解消されない。自分の中では、99%あきらめの境地でした。次第に、実験を成功させるのではなく、「いかに納得して開発をあきらめるか」に意識が向いていきました。

──1年以上進展がない状況。まさに万事休すだったんですね。

はい。このまま責任を取って退職しようと考えていました。せめて納得して辞めるために、「退職届を出すと決めた日までの1週間、起きている間はずっと、解決策を考え続けよう」と決意したんです。最終的には寝ている時間も惜しくなって、部品を家に持ち帰って枕元に置き、夢で解決策を探ろうとも試みました(笑)。

幼稚園のころに、先生から「見たい夢があるならば、画用紙に絵を描いて枕の下に入れるといいよ」と教わったものですから、それを試してみたんです(笑)。それでも一向に浮かびませんでしたね。6日目には「このまま寝なければ明日が来ない」と考えて、一睡もせず夜を明かそうとしました。実際には、疲れていたので寝てしまいましたけれど(笑)。

──当時のキャリアの状態はどん底の-5ですね。

精神的にかなり追い込まれていたのでしょう。そのまま、7日目の朝を迎えました。その日は日曜日でしたが、退職に向けた片付けをしようと休日出勤をしたんです。未練タラタラで片付けと実験をしながら「明日、もう開発はできないと会社に謝罪し、明後日に退職届を出して……」とぼんやり考えていました。

──いよいよ退職の覚悟をされたんですね。

はい。それからお昼の時間帯にちょっと休憩しようと技術センター(東京都羽村市のカシオ技術センターのこと)の隣の公園に行ったんです。すると、まりつきをしている女の子の姿が見えた。「いいな、楽しそうで羨ましい」と眺めていたら、その子が遊んでいるボールの中に時計の心臓部が見えてきたんです。頭の中で電球がパッと光るのを感じました。「心臓部が浮いている状態にすれば、落としても部品に衝撃が加わらず、壊れないのではないか」と、劇的な解決策が浮かんだのです。

──最後の最後で奇跡が起きた、と。ここで、キャリアの状態は跳ね上がっていますね。

伊部菊雄さんの笑顔

これまで自分の目の前にあった靄(もや)が一瞬にして晴れていくのを感じました。よほどの確信があったのか、この日は基礎実験をせずにスキップして帰宅したことを覚えています(笑)。

翌日からこのアイデアをもとに、「5段階衝撃吸収構造」をベースに時計の心臓部を点で支えて浮遊している状態を作る構想で、最後の実験を始めました。試作品ができて、再度3階から落としても、部品はまったく壊れていませんでした。

初代G-SHOCK

苦闘の果てに、1983年に送り出された初代G-SHOCK。(写真提供:カシオ計算機)

──伊部さんはなぜ、最後の最後でアイデアが浮かんだのだと思いますか?

持てる力を尽くして、考え抜いたからだと思います。考え続けることは、辛いですし、徒労に終わってしまうことも少なくありません。けれど、その蓄積は決してムダではない。ふとした瞬間に、アイデアにつながることがあるんです。「絶対に実現したい」と思うことに関しては、「極限まで考え抜けば、解決策が出る場合がある」と、身にしみて感じられましたよ。

──苦労の先に開発された「G-SHOCK」は、アメリカの人気番組で取り上げられたことを皮切りに一気に注目を浴びました。1990年代からは「逆輸入」という形で日本でも人気が出ましたよね。ただ意外にも、キャリアの状態の変動は小さいですね。

そうですね。私の中では開発が終わった瞬間に、ひとまず仕事は完結したんです。G-SHOCKの人気に火がついたのは、私の力ではなく、広報、営業、マーケティング部門、G-SHOCKに関わった若いエンジニア、デザイナー、そしてメディアの方々の力が大きかったと思っています。発売から10年ほど、日本では思うように売れない時期があり、その間はたくさんの人が関わっていて、相当な苦労をしていました。人気が出たときは、「みんなの努力が報われてよかった」という気持ちの方が大きかったです。

ただ、今振り返ると「製品そのものが評価されているのか」「単なるブームなのか」は見極めないといけないと思います。当時「G-SHOCK」が注目され、売れていたのは、「落としても壊れない」という斬新さよりも、カジュアルでスポーティなファッション性が評価されていた可能性はあるな、と。

単なるブームで終わらせず、長く愛される製品を開発するためには、開発の意図や背景にあるストーリーを伝えることが欠かせないと思います。

G-SHOCK後のミッション、「CASIO」のブランド価値を上げろ

──その後は「G-SHOCK」の担当を離れて、商品企画部に異動されたのですね。ここで、キャリアの状態は-3に下がっています。

伊部菊雄さんのキャリアグラフ3

商品企画部に異動後、カシオのスタンダード製品を担当することになりました。980円から3980円ほどの価格帯で販売していた製品で、手頃でありながら、品質には自信がありました。だからこそ「いずれはCASIOのブランド価値を上げて、数万円程度の中価格帯の製品も出したい」という思いがあったんです。

しかし、そんな意志は早々にくじかれてしまいました。販売店との商談に同席したところ、「製品を企画するのであれば、4000円未満の商品にしてください。それ以上の価格になると、カシオさんの製品は売れませんからね」と言われてしまって……。私たちのブランド価値はその程度なのか、と。そのときの心理状態が-3の理由です。

──自信とは裏腹に、市場からは厳しく見られていたのですね。

伊部菊雄さんの横顔

大変ショックな出来事でした。ですが、この体験を契機に、どんなに時間がかかっても、地道にカシオのブランド価値を上げていこうと決心しました。

時計の上面に使われていたガラスを、傷がつきにくいサファイアガラスに変える。革バンドを合皮から本革に変える。製品を少しずつ磨き付加価値を上げ、少々高くなっても納得してもらえるものにしていきました。「G-SHOCK」の開発が注目されがちですが、私のカシオ人生の大部分は、「カシオのブランドステージを上げること」だったと言っても過言ではありません。

──G-SHOCK開発の後も、地道な努力を重ねてきたんですね。

伊部菊雄さん初代フルメタルG-SHOCK(MR-G)発売時代

初代フルメタルG-SHOCK(MR-G)が発売になったころ。

はい本当に一歩一歩でした。しかし、ここでまた「G-SHOCK」に携わることになります。有志に声をかけて自主的にプロジェクトを立ち上げ、フルメタルの耐衝撃構造を搭載した「フルメタルG-SHOCK(MR-G)」の開発を企画したんです。まずは人気が高かった「G-SHOCK」で、中価格帯の製品を企画してみようと考えたわけです。

商品企画部に異動になったころには、「G-SHOCK」は10代から20代前半を中心とした若い世代に受け入れられるようになっていました。こうした若いファンに、大人になっても愛用してもらえる「G-SHOCK」を届けたいと思ったんです。私がプロジェクトリーダーとしてエンジニアをとりまとめ、開発を進めていきました。

開発エンジニアとしてではなく、「G-SHOCK」から一度離れたことで、製品がどのように広がっていくのか、客観的に見ることができました。エンジニアとしてキャリアを続けていたら、「フルメタルG-SHOCK」の着想は得られなかったかもしれません。

──ただ、その後、キャリアの状態は-4と、大きく下がっています。

プロジェクトリーダーとしての仕事を始めて、技術的課題とマネジメントの難しさに直面したからです。それまでの「G-SHOCK」は樹脂性でしたが、フルメタルに変えることによって、新たな衝撃吸収構造を考える必要性があったのです。問題ばかりで、いい案がなかなか生まれず、プロジェクトメンバーのモチベーションが下がっていることを如実に感じました。

しかも「フルメタルG-SHOCK」の開発は社命ではなく、自主プロジェクトで、断念しても事業に大きな影響はない。メンバーからは「これ以上は無理です」というあきらめの声が度々上がりました。

なんとか彼らのモチベーションを上げようと、「君なら絶対にできるから大丈夫」「君は天才だよ」などと励ましても、なかなかうまくいかない……。「もうプロジェクトは解散したほうがいいかもしれない」と何度も思いました。

けれど、「フルメタルG-SHOCK」はカシオのブランドステージ向上にきっと寄与する。そう思ったからこそ絶対にあきらめたくなかったんです。なんとかしてメンバーの気持ちを奮い立たせる術を考え続けた結果、「開発が成功した暁には、取材依頼が来る。全員で雜誌に載ろう!」と口走ってしまったんです。

伊部菊雄さんの手振り

──確証があったのですか?

いえ、ないですよ。大ウソをつきました(笑)。しかしこの一言でメンバーの表情が見る見る変わり、実現に向け、さらに開発に打ち込んでくれたんです。そして「時計のベゼル(文字盤の外周にあたる部分)と時計の本体の間にわずかな隙間を設けて衝撃を吸収する、バンパー衝撃構造」が生まれました。機能性の高さと高級感が評価され、4万円台での販売が実現したんです。

1996年に発売されたMR-G

1996年に発売されたMR-G。(写真提供:カシオ計算機)

──「取材」がエンジニアの皆さんの心に火をつけたのですね。

ただ励ますだけではなく、成功の先に何が実現するのか。「少し先の未来」を示すことがマネジメントにおいて大切なのだと痛感しました。

後日談ですが、本当にファッション誌の取材を受けることになり、メンバー全員の写真を載せてもらえたんです。編集者の方に「自分だけでなくメンバー全員の写真を撮ってください」と頼んだときは、かなりポカンとされましたけれど(笑)。メンバーの若手社員が、「伊部さん、これ家宝にします!」と言ってくれたときは、ようやく救われた気持ちになりました。

──「少し先の未来」を示す。今の時代にも通じるリーダーの在り方だと思いました。キャリアグラフを見ると、2004年には電波ソーラーを搭載したフルメタルの時計「OCEANUS」を企画されています。

伊部菊雄さんのキャリアグラフ4

MR-Gを手がけたあと、「G-SHOCK」シリーズではない、カシオのベーシック商品でも中価格帯の製品を企画したいと思っていました。そこで注目したのが、電波ソーラーを搭載した製品です。

電波ソーラーを搭載したフルメタルのモデルは、技術的な難易度が非常に高く、市販製品は少なかったのです。ただ、開発陣が頑張れば実現できそうだという予測がありました。きちんと製品化できれば、性能と高級感が両立した、中価格帯モデルとして販売ができるはずだと考えて企画を進めました。

ただ、この開発も案の定、難航しました。メタルの素材が、電波をキャッチするアンテナの感度を鈍らせてしまうんです。また、部品点数も多くなりコンパクトにまとめるのが難しかったんです。エンジニアは相当苦労をしましたが、アンテナの開発や高密度実装開発で小型化を実現し、なんとか製品化にこぎつけました。結果、「OCEANUS」はクロノタイプで6万円の値段で送り出すことができたんです。

OCEANUS OCW-500TDJ

2004年に発売されたOCEANUS OCW-500TDJがこれだ。(写真提供:カシオ計算機)

──「カシオから、6万円という中価格帯の製品を発売」がついに実現したわけですね。

「G-SHOCK」の冠がつかない製品で、中価格帯商品を展開する先例となったのがこの「OCEANUS」です。私がカシオのブランド価値を上げたいと思ってから、16年の月日が経っていました。

商品企画の立場で、チームマネジメントに四苦八苦しながら、最終的にはメンバーの力を信じてあきらめなかったからこそ、たどり着けた結果だと思っています。

Never Never Never Give Up

──2008年からは、世界を舞台にしたプロモーションイベント「SHOCK THE WORLD」がスタートしました。どういった経緯で始まったのでしょうか?

伊部菊雄さんの会話の表情

「G-SHOCK」はアメリカで注目されてから、順調に売り上げを伸ばしていたのですが、2000年代半ばに、一旦落ち込んでしまいました。そのときに、ファンづくりの取り組みとしてプロモーション部が発案したのが2008年にスタートした「SHOCK THE WORLD」でした。

私に与えられたミッションは、「G-SHOCK」の開発ストーリーをプレゼンして各国のメディアに取り上げてもらい「G-SHOCK」を知ってもらうことです。北米でのスタートを皮切りに、これまで30カ国以上でプレゼンをしてきましたが、私が「G-SHOCK」の開発ストーリーを通して伝えたいのは、「Never Never Never Give Up(決して、決して、決してあきらめない)」というメッセージです。必ずスピーチの最後にこの言葉を伝えることにしています。

──まさに、伊部さんの姿勢を体現していますね。

伊部菊雄さんSHOCK THE WORLDでのプレゼンの様子

SHOCK THE WORLDでのプレゼンの様子。

ありがとうございます。ただ、人に伝えているようで、自分に言い聞かせているようにも思います。

というのも、「自分の言葉で世界中の人たちにメッセージを届けたい」と思って、各国の母国語でのプレゼンに挑戦しているんです。私は語学が得意ではないのですが、努力を重ねてマスターすることで、「Never Never Never Give Up」を体現できるのではないかと思っています。

──日々の業務をこなしながら、さまざまな国の言語をマスターすることは、決して簡単なことではないですよね。2010年にはキャリアの状態が-3になっています。

伊部菊雄さんのキャリアグラフ5

本当に大変です(笑)。最初だけ各言語のネイティブスピーカーの講師と発音の勉強をしますが、その後は4カ月ほどかけて仕事終わりに毎晩勉強です。-3になっていたころは、フランス語やベトナム語など苦手な言語が続いた時期でした。

──なぜ通訳を介さず、ご自身で各国の母国語でお話しされるのでしょうか?

「Never Never Never Give Up」と言っている手前、努力してなんとかなる課題であれば挑むべきだと思ったんです。

まして、私のミッションは、メディアの方に記事を書いてもらうことです。自分の言葉で語らない限り、「G-SHOCK」の開発ストーリーが正確に伝わらないだろうと思い、自分で話すと決めたんです。

ここまではなんとか自分でやってこれましたが、今後もし通訳を入れてしまったら、「伊部さん、手を抜きましたか?」と思われるんじゃないかなと。プレゼンを聴いてくれる人たちに対して、これほど失礼なことはないだろうと思っているので、やめるにやめられないんですよ(笑)。

──ご自身の言葉でプレゼンを続けられる原動力はどこにあるのでしょうか?

現地で感じる熱気です。「SHOCK THE WORLD」は、半年以上の準備期間と多くの予算が投じられますし、多くの著名なゲストも招待される。そうした背景があるからこそ、私も最大限努力して、なんとしても成功させたいと思えてくるんです。

もうひとつ、ファンの存在も大きな励みです。何十本ものコレクションを持ってきてくださる方や、「G-SHOCK」への思いを熱く語ってくださる方が、現地にたくさんいらっしゃいます。ファンがブランドを育ててくれるのだと実感させられますし、その熱に応えたいと思える。

夢のある商品を作るために、挑戦し続けたい

──2010年以降は、キャリアの状態が高めで推移していますね。特に「G-SHOCK」の金無垢モデルに関する出来事でプラスに動いています。

「G-SHOCK」の金無垢モデルは、私が近年取り組んでいる「DREAM PROJECT」の一環なんです。これまで「G-SHOCK」にはコンセプトモデルがなかったのですが、この機会に何かワクワクできるようなものを企画してみようと始めました。

──なぜ「金無垢」に着目を?

丈夫な時計の究極は「G-SHOCK」、金属の究極は「金」、「究極同士がコラボしたら、どういう商品になるのか見てみたい」という単純な発想です(笑)。もともと販売するつもりはなかったのですが、お客様からの「ぜひ売ってほしい」という多くの声に押され、開発陣が販売に向けた評価を開始し、2019年に限定35本の予約販売を行いました。すぐに完売でしたね。関わったメンバー、そして購入してくださったお客さまにとても感謝しています。

──挑戦する姿勢は、ずっと変わらないのですね。

「何か新しいことにチャレンジしていきたい」という気持ちは、常に持っています。「G-SHOCK」をはじめ、「OCEANUS」「SHOCK THE WORLD」もそう。大きな壁を乗り越えてプロジェクトが具現化する喜びを、チームのみんなと一緒に感じられるので、挑戦をやめられないんです。「自分には無理かもしれない」という苦難を乗り越えた先にこそ、喜びがあると信じています。

伊部菊雄さんの笑顔2

──苦難を乗り越え、成長を手にするために必要なことは何でしょうか?

まずは動いてみることだと思います。今の若い人たちは非常に優秀で思考力に満ちている。けれど、考え過ぎるあまり、一歩を踏み出せなくなっては元も子もありません。動かなければ失敗することはないかもしれませんが、成功体験を積むチャンスを逃してしまいます。

私の社会人生活を振り返ると、動いてみて、苦境に立たされて、考え抜いた先に解決策が浮かぶことが多かった。時にはうまくいかないこともあるかもしれない。けれど、動き、考え続ければ必ず「解」は見つかる。そうした成功体験を重ねていけば、大きな自信を得られると考えています。

まぁ……私はすぐ行動に移しすぎてしまうのですが(笑)。それでも、プロジェクトをともにする仲間と一緒に、こんなに楽しい社会人生活を送ってこられたのだから、やはり「行動」には価値があると思っています。

実は今もファンの方々に楽しんでもらえるような製品を構想中です。見た瞬間に「これは面白い!」と思えるような、夢を感じられる企画を届けたいと思っています。 「G-SHOCK」のように1文で書くこともできるのですが、今度の提案書には、もう少しだけ時間がかかりそうです(笑)。

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取材・文:藤原梨香
撮影:タカハシアキラ
編集:野村英之(プレスラボ)